「郁青、何をしているのかな」
「……ひぇっ」
木枠に足をかけた瞬間、窓の外からにゅっと顔を覗かせてきた柳に慌てて窓を閉めようとする。が、窓枠に両腕を置いてその上に頭を乗せた柳に阻まれた。
「郁青?」
「ふ、不浄っ!ご不浄です!」
「半刻前も行っただろう」
「念には念を」
「つまり急を要しないんだね」
『海の底』と書いて『わたのそこ』と読む。枕詞の一つで、後ろに沖、奥と続く。
『燕子花』は『かきつばた』で、丹、さきと続く。
『茜さす』は、日、昼、紫、君。
『久方の』は、天、雨、月、空、光……
しかつめらしく文机に向かって歌のいろはを勉強していた郁青だが、四頁目で筆を放った。
この他にも多くの枕詞が存在し、歌を詠む上で非常に重要な知識らしい。柳手製の枕詞辞典を閉じた郁青は辞典に頭を擦り付けた。
親が名門貴族だからといって、歌を詠む才能に恵まれているわけではない。しかも郁青の生家は、貴人の身辺警護を司る武人の一族である。筆より先に木刀を持つような家庭において、文才など宝の持ち腐れ、素敵な歌を創作する才能など不必要だ。あの暴力野郎が優雅に朗詠している姿を見たことがないし似合わない、と昔のことを思い出しかけたところで鼻を鳴らし、顔を上げた。
乾いた筆に墨を含ませ、枕詞辞典を開く。
護衛に歌が必要ないように、神官を養成する学校に入学する自分に、昔(俗世)の思い出など必要ない。
考えさせてくれと言ったが、考えることなど何もない。柳の提案を呑むか、断るか。ただ断る場合は、それ相応の理由がなければ柳は納得しないだろう。
どうして今更都なんか……。ていうか何でわざわざ学校。
無論柳は自分の昔のことを知らない。だから、自分の将来を心配して善意で提案したのだろう。
……あんな目に遭って、名を改めて神官の小姓なんてやっているのにまだ自分は叶わぬ夢を見ているのか。
指先で郁青と綴った。セイとしか名乗らなかった自分に与えられた新しい名前だ。郁郁青青。何処の馬の骨かもわからない孤児に与えるには立派な名前だ。
郁青は長い長いため息をついた。
13歳。農村では立派な働き手だ。
いつまでも神官の小姓でいられるはずはない。
「オレは郁青、郁青だ」
そのために都に行く。あの場所で、郁青になるために確かめに行く。
神殿に戻ると、柳はいつも通りの様子で郁青を迎えた。進路の話などなかったように迎えてくれた柳にこのままやり過ごそうかと気持ちが揺れた。
「郁青?」
「柳、話がある」
午後最初の授業らしく、黒板には大文字と小文字が入り混じったアルファベットの式が所狭しと埋め尽くされている。しかし夕霧の目は、化学式でも教科書でもなく、窓の外を映している。
今年最初に降り出した雪を見ているのではない。粉雪の先には東校舎、今夕霧が授業を受けている化学室の斜め下の階には二学年上の教室が一列に並んでいる。日差しが入っってくる天気でもないのに、どの教室もカーテンを閉めてしまっている。ペン先を前から順に動かし、五回目で止めた。その時、カァという甲高い鳴き声と共に閉め切っていたカーテンが開き、夕霧の眼前に眩い光が直撃した。
久しぶりに鼻をくすぐる潮を香りに、昴は目を閉じた。目を閉じると、一定の間隔で波立つ漣の音が大きくなったように感じた。
4年前、初めて海を見た。実存するかもわからない神託者がいるという孤島に行くために。
1年前、再び海を渡った。今度は追い出されたはずの都を目指して。二度と戻ることはないだろうと諦めていた都に帰還し、神託者の学友として、神学校に編入した。王族が神学校に入学するということは、周囲に妻帯しないと公言するようなもの。つまり、王位継承権を放棄すること。一時は王太子だった昴に同情する者もいれば、愚王の実子なのだから当然だと言い張る者もいた。まだ切られていないのだから望みはあると下世話なことを口にする者もいたし、現王の子供が亡くなることだってあり得ると不穏なことを呟く者もいた。現王の温情措置に感激、あるいは愚王の子供が宮中を歩くことを危惧する者もいた。後ろ盾を失ったただの14歳の子供を恐れるのは、失脚以前は武王と称えられた父の勇猛果敢な御姿が未だ人々の脳裏に焼き付いているからだ。
再び変貌した昴の取り巻く環境は、決して穏やかに始まったわけではない。慣れない集団生活に、学内の人間関係に、自由奔放な蛍に振り回される日々。元々神官志望でもなければ、無料で衣食住が保証されて勉学に励める環境や比較的身分に関係なく出世できる傾向にある将来性に惹かれたわけでもない昴にとって、神学校での日々は、島流し以上の絶望の連続だったが……。
最近は神学校での集団生活にも馴染み、級友との関係は多少改善され、蛍が3日に1日は誰からも目をつけられずに過ごす術を覚えた。昴自身、本当に神官になるのかーーもし神官になるとしても王と重鎮を交えた話し合いになるだろうーーわからないが、この日々もいつか人生の糧になると信じて学校生活を送るしかない。
「おい勝手な行動をするな、蛍!」
……まあ、3日に2日は、誰かしらに迷惑をかけている。千景の怒声が、漣の優雅な音を掻き消した。
バシャバシャバシャという水飛沫に嫌な予感がしつつ、昴が目を開けると、そこには制服のまま海に入り、濡れるのも気にせず豪快に舞を披露している蛍が映った。級友らは呆然としている者もいたが、中には蛍に触発され、靴を脱いで海に足をつけて楽しむ者もいた。
そうか、今の時期は……。
昴は制服と靴を脱ぎ、近くの級友に預かるよう言付けて海に入る。海の冷たさに身を竦める。海に入るのも、2年ぶりだ。
「蛍ー!」
蛍は一瞬だけ昴を見たが、舞を中断しなかった。昴が連れ戻しに来たわけではないとわかったからだろう。
島では、この時期、大漁祈願と海の神への挨拶を込めて豊漁祭を開催していた。蛍は、島守と共に神殿での儀式を終えると、毎年海の上に作った簡易な舞台で、舞を披露していた。4年前からは、島の神殿で暮らし始めた昴もなぜか踊るようになってしまった。
昴が右手を伸ばし、海面ギリギリまで片膝を折る動作をすると、蛍が神楽鈴を持っているていで高く上げた左腕を揺らし、一回転し、右手を昴に合わせた。
散々練習した舞だ。昴は手を取った蛍と次の動作に入った。ちらりと千景の方を見ると、千景が指を差して級友らに何か言っている。神官教師として、多分この舞の意味を説明しているのだろう。
まあ、例え立派な舞を踊っても、後で蛍とまとめて怒られるに違いない。が、今は訪れたこの漁村の繁栄を願い、そして蛍と再び舞えるこの瞬間を楽しもうと思った昴は、下着が濡れるのも厭わず強く砂を蹴り、高く舞った。
その日、真穂は初めて幼馴染の見舞いに訪れた。真穂に気づいた橄欖は、慌てて体を起こそうとして、どこか痛むのか苦しげに呻いた。しかし、それも一瞬のことで、橄欖はすぐにいつもの、風宮に毎日のように足を運んでいた頃のような澄ました表情に戻り、人払いを命じた。
ーーどういう風の吹き回し?一度だって来たことなかったじゃないか。
橄欖は本を読んでいるふりをして、真穂を見ようとしない。喋ることも苦痛だとバレたくないのだろう。
「こっちまで訪ねたら勘繰られるだろ。私は、後ろ盾も周囲を黙らせる能力も持ち合わせてないんだぞ」
特定の妃の元に頻繁に訪れるのは勢力図が乱れるから止めろと諌めたにも関わらず、橄欖は足繁く風宮に通った。おかげで、他妃の実家からはやっかみを受け、生家からはあまり目立たないようにと釘を刺された。
「別に、好き好んで入内したわけじゃない」
ーーマーヤのお父上を説得するのは大変だったよ。
時には毎晩通うほど足を踏み入れていたにも関わらず、病に罹ったとわかると、まもなく橄欖はぱったり姿を見せなくなった。……今になって守らなくていいのに。
ーー後のことは、天河がやってくれるから。
「おい、神術ができるだけの木偶の坊だと評価していただろ。そんな奴に一任するな」
ーー天河なら問題ないよ、菫青……久弥が付いているし。
久弥。橄欖が信頼している太政官だ。いかにも切れ者といった風貌で、実弟(木偶の坊)のいかにも坊ちゃんとは似ても似つかない。
そうか、天河皇子か。真穂は眉をしかめ、腹をさすった。
ーー六宮はそのまま引き継ぐそうだよ。どうする?
「さあ、歳が離れすぎているからな。なにせ小雪妃よりも年下だろ。向こうからお役御免の烙印を押されるかも」
元々、橄欖が強引に進めた入内話だ。橄欖が退くなら、真穂がこれ以上宮に残る義理もない。
ーー私は、残ってほしいんだけどねえ。他のお嬢さんじゃ……。
ゲボゲホッと咳き込んだ。病人特有の、嫌な咳だ。真穂は呆れたように肩をすくめた。
「わかったわかった。……の他ならない頼みなら聞くよ」
咳き込む橄欖の耳に届くか届かない程度の声で、真穂は名前を口にした。誰も知らないはずの、本人でさえ知ることができないはずの本名は、昔二人だけの秘密だと橄欖から教わった。
橄欖はそういう少年だった。柔和な面立ちや温厚な立ち居振る舞いから優等生のように称されてきたが、太子にと熱望される以前、大人の目がないところでは好奇心を隠さずそれなりに好き勝手していた。戸籍管理を司る役人の目を掻い潜り、自分の本名を調べに行ったって不思議ではない。
隠し事がバレた子供のように気まずそうな橄欖は、場の雰囲気を誤魔化すように酒と呟いた。
ーー地酒飲みたかったねえ。
「……ああ、地方公務の時の話か」
老後にしたいことだったか、訪れることのない未来に想いを巡らせ、二人で話し込んだ。長生きしたって、人の目を気にせず、地方の地酒屋でのびのび飲酒する未来はやって来ない。
「酒なら持ってきた。ご所望の地酒だ」
目を丸くする橄欖の前に、服の中に隠していた酒の瓶を取り出した。
ーーこれ、まさか渦の里?
「わざわざ入れ替えてやったんだ、医者の目がないうちに飲むか?」
ーーマーヤ、飲まないの?
「私はいいよ。もう充分堪能したからな」
「はいはい、もう二度と訪れないよ」
妃の所作に見合わず、ひらひらと手を振り返した真穂は、橄欖の部屋から出た瞬間、腹を抱えて壁にもたれ掛かった。
真穂様!と焦る女官を前に、真穂は唇に手を当てて、橄欖の部屋を指差した。
「すぐに主治医を……」
「問題ない……ったく、どすどす蹴りつけやがって」
真穂は、長いため息をついた。あまり腹が目立たない方らしい。
「あのう、主上には打ち明けなかったんですか」
「あー、いいんだよ。未だ地酒屋に拘る方は自分の体だけ考えていればいいんだ」
女官は地酒屋?と首を傾げたが、真穂の体に異変がないことを確認し、安堵した。