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 久しぶりに鼻をくすぐる潮を香りに、昴は目を閉じた。目を閉じると、一定の間隔で波立つ漣の音が大きくなったように感じた。
 4年前、初めて海を見た。実存するかもわからない神託者がいるという孤島に行くために。
 1年前、再び海を渡った。今度は追い出されたはずの都を目指して。二度と戻ることはないだろうと諦めていた都に帰還し、神託者の学友として、神学校に編入した。王族が神学校に入学するということは、周囲に妻帯しないと公言するようなもの。つまり、王位継承権を放棄すること。一時は王太子だった昴に同情する者もいれば、愚王の実子なのだから当然だと言い張る者もいた。まだ切られていないのだから望みはあると下世話なことを口にする者もいたし、現王の子供が亡くなることだってあり得ると不穏なことを呟く者もいた。現王の温情措置に感激、あるいは愚王の子供が宮中を歩くことを危惧する者もいた。後ろ盾を失ったただの14歳の子供を恐れるのは、失脚以前は武王と称えられた父の勇猛果敢な御姿が未だ人々の脳裏に焼き付いているからだ。
 再び変貌した昴の取り巻く環境は、決して穏やかに始まったわけではない。慣れない集団生活に、学内の人間関係に、自由奔放な蛍に振り回される日々。元々神官志望でもなければ、無料で衣食住が保証されて勉学に励める環境や比較的身分に関係なく出世できる傾向にある将来性に惹かれたわけでもない昴にとって、神学校での日々は、島流し以上の絶望の連続だったが……。
 最近は神学校での集団生活にも馴染み、級友との関係は多少改善され、蛍が3日に1日は誰からも目をつけられずに過ごす術を覚えた。昴自身、本当に神官になるのかーーもし神官になるとしても王と重鎮を交えた話し合いになるだろうーーわからないが、この日々もいつか人生の糧になると信じて学校生活を送るしかない。
「おい勝手な行動をするな、蛍!」
 ……まあ、3日に2日は、誰かしらに迷惑をかけている。千景の怒声が、漣の優雅な音を掻き消した。
 バシャバシャバシャという水飛沫に嫌な予感がしつつ、昴が目を開けると、そこには制服のまま海に入り、濡れるのも気にせず豪快に舞を披露している蛍が映った。級友らは呆然としている者もいたが、中には蛍に触発され、靴を脱いで海に足をつけて楽しむ者もいた。
 そうか、今の時期は……。
 昴は制服と靴を脱ぎ、近くの級友に預かるよう言付けて海に入る。海の冷たさに身を竦める。海に入るのも、2年ぶりだ。
「蛍ー!」
 蛍は一瞬だけ昴を見たが、舞を中断しなかった。昴が連れ戻しに来たわけではないとわかったからだろう。
 島では、この時期、大漁祈願と海の神への挨拶を込めて豊漁祭を開催していた。蛍は、島守と共に神殿での儀式を終えると、毎年海の上に作った簡易な舞台で、舞を披露していた。4年前からは、島の神殿で暮らし始めた昴もなぜか踊るようになってしまった。
 昴が右手を伸ばし、海面ギリギリまで片膝を折る動作をすると、蛍が神楽鈴を持っているていで高く上げた左腕を揺らし、一回転し、右手を昴に合わせた。
 散々練習した舞だ。昴は手を取った蛍と次の動作に入った。ちらりと千景の方を見ると、千景が指を差して級友らに何か言っている。神官教師として、多分この舞の意味を説明しているのだろう。
 まあ、例え立派な舞を踊っても、後で蛍とまとめて怒られるに違いない。が、今は訪れたこの漁村の繁栄を願い、そして蛍と再び舞えるこの瞬間を楽しもうと思った昴は、下着が濡れるのも厭わず強く砂を蹴り、高く舞った。

8/23/2023, 6:23:09 PM