その日、真穂は初めて幼馴染の見舞いに訪れた。真穂に気づいた橄欖は、慌てて体を起こそうとして、どこか痛むのか苦しげに呻いた。しかし、それも一瞬のことで、橄欖はすぐにいつもの、風宮に毎日のように足を運んでいた頃のような澄ました表情に戻り、人払いを命じた。
ーーどういう風の吹き回し?一度だって来たことなかったじゃないか。
橄欖は本を読んでいるふりをして、真穂を見ようとしない。喋ることも苦痛だとバレたくないのだろう。
「こっちまで訪ねたら勘繰られるだろ。私は、後ろ盾も周囲を黙らせる能力も持ち合わせてないんだぞ」
特定の妃の元に頻繁に訪れるのは勢力図が乱れるから止めろと諌めたにも関わらず、橄欖は足繁く風宮に通った。おかげで、他妃の実家からはやっかみを受け、生家からはあまり目立たないようにと釘を刺された。
「別に、好き好んで入内したわけじゃない」
ーーマーヤのお父上を説得するのは大変だったよ。
時には毎晩通うほど足を踏み入れていたにも関わらず、病に罹ったとわかると、まもなく橄欖はぱったり姿を見せなくなった。……今になって守らなくていいのに。
ーー後のことは、天河がやってくれるから。
「おい、神術ができるだけの木偶の坊だと評価していただろ。そんな奴に一任するな」
ーー天河なら問題ないよ、菫青……久弥が付いているし。
久弥。橄欖が信頼している太政官だ。いかにも切れ者といった風貌で、実弟(木偶の坊)のいかにも坊ちゃんとは似ても似つかない。
そうか、天河皇子か。真穂は眉をしかめ、腹をさすった。
ーー六宮はそのまま引き継ぐそうだよ。どうする?
「さあ、歳が離れすぎているからな。なにせ小雪妃よりも年下だろ。向こうからお役御免の烙印を押されるかも」
元々、橄欖が強引に進めた入内話だ。橄欖が退くなら、真穂がこれ以上宮に残る義理もない。
ーー私は、残ってほしいんだけどねえ。他のお嬢さんじゃ……。
ゲボゲホッと咳き込んだ。病人特有の、嫌な咳だ。真穂は呆れたように肩をすくめた。
「わかったわかった。……の他ならない頼みなら聞くよ」
咳き込む橄欖の耳に届くか届かない程度の声で、真穂は名前を口にした。誰も知らないはずの、本人でさえ知ることができないはずの本名は、昔二人だけの秘密だと橄欖から教わった。
橄欖はそういう少年だった。柔和な面立ちや温厚な立ち居振る舞いから優等生のように称されてきたが、太子にと熱望される以前、大人の目がないところでは好奇心を隠さずそれなりに好き勝手していた。戸籍管理を司る役人の目を掻い潜り、自分の本名を調べに行ったって不思議ではない。
隠し事がバレた子供のように気まずそうな橄欖は、場の雰囲気を誤魔化すように酒と呟いた。
ーー地酒飲みたかったねえ。
「……ああ、地方公務の時の話か」
老後にしたいことだったか、訪れることのない未来に想いを巡らせ、二人で話し込んだ。長生きしたって、人の目を気にせず、地方の地酒屋でのびのび飲酒する未来はやって来ない。
「酒なら持ってきた。ご所望の地酒だ」
目を丸くする橄欖の前に、服の中に隠していた酒の瓶を取り出した。
ーーこれ、まさか渦の里?
「わざわざ入れ替えてやったんだ、医者の目がないうちに飲むか?」
ーーマーヤ、飲まないの?
「私はいいよ。もう充分堪能したからな」
「はいはい、もう二度と訪れないよ」
妃の所作に見合わず、ひらひらと手を振り返した真穂は、橄欖の部屋から出た瞬間、腹を抱えて壁にもたれ掛かった。
真穂様!と焦る女官を前に、真穂は唇に手を当てて、橄欖の部屋を指差した。
「すぐに主治医を……」
「問題ない……ったく、どすどす蹴りつけやがって」
真穂は、長いため息をついた。あまり腹が目立たない方らしい。
「あのう、主上には打ち明けなかったんですか」
「あー、いいんだよ。未だ地酒屋に拘る方は自分の体だけ考えていればいいんだ」
女官は地酒屋?と首を傾げたが、真穂の体に異変がないことを確認し、安堵した。
8/20/2023, 6:07:22 PM