日常
同じような日を繰り返しているだけなのに、時は確実にこの身を衰えさせていく。
空気を入れてぱんぱんに膨らませた浮き輪から静かに空気が漏れ出していくように体から魂が抜けていくようだ。
昔は気づかなかったのかもしれない。だが今は魂の漏れ出す気配を確実に感じている。
日常会話に置き換えると「やる気が出ない」「体が重い」「なんとなくしんどい」と言えることなのだろうけれど。
もう年だしね、なんて曖昧な笑みを浮かべながら腰をさする。
同じように見えてもみんな確実にどこかへ向かっている。
その足音を聞きながら、少しでも歩みの速度が落ちることを願いながら毎日あがき続けているのだ。できるだけ平穏にその場所にたどり着くために。
耳を澄ますと
懐かしい歌声が聴こえる。わたしが中学生の時に流行った曲だ。サビは今でも口ずさめる。昨日の夕飯は忘れても昔覚えた歌詞は忘れない。
音源は台所に置いたラジオだ。目を痛めた今はもっぱら耳からの娯楽に頼っている。日常生活に不自由はないが、疲れないに越したことはない。少しでも耐用年数を伸ばすための努力。
「調子はどう?」
隣の部屋から彼女が声をかけてきた。まあまあだよ、と答える。毎日お決まりのやり取りが始まってもう2年たつ。
いや3年?もしかしたら半年かもしれない。
「明日はリペアセンターに行くわね。ちょうど有名な教授が来てるんだって」
彼女はいつもと変わらぬ声色でそういうと足早に去った。質問されたくないのだろう。
その教授は治療法を知ってるの?診てもらう意味はあるの?わたしはどうなるの?
ミキシングを完了します。
体内から音声が告げる。ミキシングってなに?
わたしの体内の声はわたしの質問に答えない。
意思も思考も混沌としたなかでわたしは生きている。
わたしの素材が血液や細胞ではなくシリコンや樹脂であった可能性におびえる日々を。
確かに存在した揺るがない音の記憶にすがりながら。
誰よりも、ずっと
緑は目に優しい色なんだよ。
そう僕に教えてくれた彼女はもういない。
1年前のあの日、僕はいつものカフェで彼女を待っていた。普段遅れることない彼女が来ないまま15分がたっていた。
メッセージを送ったが返事はない。
僕は特に驚かなかった。彼女は来ない気がしていたのだ。喧嘩をしたわけでも別れ話をしたわけでもない。前回のデートは植物園で、ふたりできれいな花や珍しい植物を見て回った。
その帰り際、ひときわ大きな木を見上げながら彼女は言ったのだ。緑は目に優しい色なのだと。
彼女の横顔を眺めながら、この顔を見つめるのはこれで最後の予感がした。なぜと聞かれても答えられない。
しいていえば彼女はもっと派手な色が好きだったから。
優しい緑では満足しない激しい心を抱えているのが見て取れたから。
誰よりもずっと彼女に優しくありたかった。
たとえそれが彼女の望む色ではなかったとしても。
君の目を見つめると
なるはやで持ってきて。
無愛想な声で指示して上司は会議室へ消えた。
はあ?自分が伝えておくのを忘れておいて何がなるはやだ?ていうかごめんねなるべく早く持ってきてくれるかな、とか言えないのか?
むかつきを抑えきれないままどすどす足音をたてて資料を取りに向かう。こちらを心配そうに伺う視線を感じたがあえて無視した。こちとらなるはやで行かないといけないもんでね。
無事資料を届け席に戻った。疲れた。今週はこんなことが多い。歯車が噛み合わなくていらいらする。6秒待っても怒りはどこへも消えていかない。
「大丈夫?」
彼女が声をかけてくる。
ありがとう、もう大丈夫。答えると同時にチャイムが鳴った。昼休みだ。
スマホを取り出して画面を眺める。そしてそっと彼女の横顔を盗み見る。こんなことってあるんだなあ。
画面にうつる茶色のふわふわとそっくりな瞳。
君の目を見つめると、午後からもがんばろうと思えるんだ。
1つだけ
「ひとつだけあげる」
それがあの子の口癖だった。特にほしいと言ったわけでもないのに、クッキーも飴もなんでもひとつだけくれるのだ。
あるときは限定品のキーホルダーをくれようとした。それはあの子に好意を持っている隣のクラスの男子があの子にくれたものだったから断ったのだれど。ていうかもとからひとつしかないものだし。
とにかくあの子は僕になにかひとつあげなくてはいけないと考えてるみたいだった。僕らは家が隣の幼馴染…というわけでもなく、高校2年のときに初めて同じクラスになり、席が近いわけでもなく、同じ委員会で活動したこともないただのクラスメートだった。
そんな僕になぜあの子はひとつだけ物をくれたのだろう。
自覚はないが物欲しそうな顔をしていたのだろうか。
今のなっては理由はわからないけれど、この頃よくあの子のことをよく思い出す。
僕のとなりをよちよち歩く、この世にやってきてほんの数年の小さな人間が、自分のものをひとつ僕にくれようとするときに。