NoName

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7/14/2024, 11:03:02 PM

手を取り合って

ひなびた田舎の海岸を歩いている。
言い過ぎに聞こえるかもしれないが私の故郷だ。
許してほしい。
足元に散らばる枯れた木の枝や錆びた鉄の固まり。
波打ち際には無数の貝殻が転がっている。かつては貝殻ではなく貝として存在していたのだろう。


私はなにも懐かしんでここに来ているわけではない。
故郷はとうの昔に記憶の底に放り投げた。何もなければ思い出しもせず、戻ってくることもなかっただろう。ここにいるのはそうしなければ立ち行かない理由が出来たからだ。

ざぶん。海からひときわ大きな波音が聞こえた。

迎えにきたよ。『それ』は言う。
久しぶりに見る『それ』は記憶より穏やかな声をしていた。私を2本足に変えた海の主。

もう海以外に残された場所はなくなるよ。帰ろう。
主はそう言って私をもとの姿に戻した。
ぱちゃん、と波音をたてて泳ぎだすと、魚は何事もなかったように主と寄り添って陸から離れ泳ぎ出した。

7/13/2024, 2:58:24 AM

ささやかながらプレゼントを用意しました。

あなたがそう言うので黙って受け取り箱を開ける。
レジンで作られた小さな指輪。濃紺の宇宙に黄金の星たちがまたたいている。
右手の中指にそっとはめる。体のなかに清涼な空気が吹き込まれた気分だ。

指輪からあなたに視線をうつすと、あなたはもうこちらを見ていない。途中まで書き進めた図案を睨みつけながら考え込んでいる。あなたの世界にはもう私も星々も存在しない。

これは、これまでずっと繰り返されてきたこと。

わたしは再び指輪に目をやり、しばらくしてから指輪をはずす。
机に置き、あなたを見る。
あなたは相変わらず図案に夢中だ。わたしはそっと部屋を出る。

ここまでは同じ。これまでずっと繰り返されてきた日々。
でも今日わたしはここを出て二度と戻らない。
あなたにも指輪にも支配されない一歩を踏み出すために。

6/23/2024, 1:06:25 AM

日常

同じような日を繰り返しているだけなのに、時は確実にこの身を衰えさせていく。
空気を入れてぱんぱんに膨らませた浮き輪から静かに空気が漏れ出していくように体から魂が抜けていくようだ。
昔は気づかなかったのかもしれない。だが今は魂の漏れ出す気配を確実に感じている。

日常会話に置き換えると「やる気が出ない」「体が重い」「なんとなくしんどい」と言えることなのだろうけれど。

もう年だしね、なんて曖昧な笑みを浮かべながら腰をさする。

同じように見えてもみんな確実にどこかへ向かっている。
その足音を聞きながら、少しでも歩みの速度が落ちることを願いながら毎日あがき続けているのだ。できるだけ平穏にその場所にたどり着くために。

5/4/2024, 11:53:15 AM

耳を澄ますと


懐かしい歌声が聴こえる。わたしが中学生の時に流行った曲だ。サビは今でも口ずさめる。昨日の夕飯は忘れても昔覚えた歌詞は忘れない。

音源は台所に置いたラジオだ。目を痛めた今はもっぱら耳からの娯楽に頼っている。日常生活に不自由はないが、疲れないに越したことはない。少しでも耐用年数を伸ばすための努力。

「調子はどう?」
隣の部屋から彼女が声をかけてきた。まあまあだよ、と答える。毎日お決まりのやり取りが始まってもう2年たつ。
いや3年?もしかしたら半年かもしれない。

「明日はリペアセンターに行くわね。ちょうど有名な教授が来てるんだって」
彼女はいつもと変わらぬ声色でそういうと足早に去った。質問されたくないのだろう。
その教授は治療法を知ってるの?診てもらう意味はあるの?わたしはどうなるの?

ミキシングを完了します。
体内から音声が告げる。ミキシングってなに?
わたしの体内の声はわたしの質問に答えない。

意思も思考も混沌としたなかでわたしは生きている。
わたしの素材が血液や細胞ではなくシリコンや樹脂であった可能性におびえる日々を。
確かに存在した揺るがない音の記憶にすがりながら。

4/9/2024, 12:33:43 PM

誰よりも、ずっと


緑は目に優しい色なんだよ。
そう僕に教えてくれた彼女はもういない。

1年前のあの日、僕はいつものカフェで彼女を待っていた。普段遅れることない彼女が来ないまま15分がたっていた。
メッセージを送ったが返事はない。

僕は特に驚かなかった。彼女は来ない気がしていたのだ。喧嘩をしたわけでも別れ話をしたわけでもない。前回のデートは植物園で、ふたりできれいな花や珍しい植物を見て回った。
その帰り際、ひときわ大きな木を見上げながら彼女は言ったのだ。緑は目に優しい色なのだと。

彼女の横顔を眺めながら、この顔を見つめるのはこれで最後の予感がした。なぜと聞かれても答えられない。
しいていえば彼女はもっと派手な色が好きだったから。
優しい緑では満足しない激しい心を抱えているのが見て取れたから。

誰よりもずっと彼女に優しくありたかった。
たとえそれが彼女の望む色ではなかったとしても。

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