何気ないふり
今日は暑い。昨日の寒さが嘘のようだ。
まだ3月なのに日傘を必要とする日射し。
用心して厚手のジャケットにしたことを後悔しながらひたすら歩いていく。鳥達が楽しげに鳴きかわす声が聞こえる。もう春なのだ。
山道を進み目的の施設が見えてきた。ここを訪れるのは3年ぶりだ。最後に来たのは、季節は同じなのに雪がちらつく寒い日だった。
深呼吸してインターホンを鳴らす。お待ちください、と懐かしい声がしてドアが開いた。
いらっしゃい、久しぶり。
あの頃と同じように迎えてくれる。
私も変わらぬそぶりでこんにちは、と答える。
歩いてくるの暑かったでしょう。昨日は雪が降ったんだけどね。
彼はそう言いながら部屋へ案内してくれる。
ここに来るのが1日違えば、あの雪の日を思い出して昔と同じように振る舞えなかったかもしれない。
ほんの少しの違いが運命を変えるのだ。あのときも今も。
特別な存在
突風で地面から桜色が舞い上がる。
すでに花は散り始めており、歩道には踏まれて黒ずんだ花びらと、まだ舞い降りたばかりの真新しい花びら。
しばらく足元を見つめてからわたしは顔をあげる。
待ち人来る。
初詣でひいたおみくじにあった言葉だ。
なんとなくここにいれば会える気がしている。
何十年も前の一方的な口約束。また会おうね。絶対だよ。
あのときわたしは心の中で誓った。必ずあなたに再会すると。
風は依然として強い。顔にまとわりつく髪を払いながら目を凝らす。
前方からなにかがやってきてわたしの前でとまった。
迎えにきたよ。
そう言われた気がした。
あの頃と変わらずこちらを真っすぐ見つめる黒い瞳。
わたしは今日ここに別れを告げて旅立つ。
大好きで特別な存在とともに。
二人ぼっち
真冬の朝に
雪のつもった階段
ゆっくり上がる後ろ姿を追いながら
わたしも登る
怖がり
激しい動悸で夢から覚めた。
まだ夜中なのだろう、部屋は真っ暗だ。
暗闇の恐怖を断ち切るため電気をつける。とたんに日常が戻ってきた。
大丈夫、怖いことは何もない。
喉が乾いたので枕元のコップから水を飲む。時計を見ると時刻はちょうど3:33。ゾロ目を目撃するとなんで今なんだという気分にさせられる。
目が冴えたのでスマホを見る。たくさんの通知。なにごとだ?寝る前のSNSの投稿がバズったようだ。おそるおそる通知をあける。
あたりが明るくなった気配で目が覚めた。
あいつが覗いている。少しバツの悪そうな顔で。
「ごめんね、またバズっちゃった」
バズ?聞いたことない言葉。新しいおやつのこと?
「新しいひざ掛けにびっくりしてるところが可愛くて」
ひざ掛け?あの昨日くるんでもらったあったかいやつか。
「人気者になっても私のこと忘れないでね…」
朝からこいつはなにを言ってるんだろうか。そんなことよりあさごはんにして。
わたしは羽を広げて伸びをすると、大きな声でちゅん!と訴えた。
ありがとう、ごめんね
ブックカバーを外すと現れたのは彼の昔の日記だった。
そういえば昔、日記をつけるのが趣味だと聞いたことがある。
もう時効だろうしいいよね、とページをめくると紫色の紙切れがひらりと舞い落ちた。
拾い上げるとそれはすみれの切り絵だった。
遠い昔、わたしが試しに作ってそのまま放りだしていたものだ。
少し黄ばんだページには、妻は凝り性だが飽きっぽいからこれはここに保管しておく、と書き留めてあった。
ありがとう、ずっと持っててくれたんだね。
わたしあれから色んな趣味に手を出して、結局みんなすぐに飽きちゃったけど、あなたのことは飽きなかったよ。
すっかりしわの増えた自分の手に載せた切り絵を見おろしながらつぶやいた。
泣かないって約束したのに、ごめんね。