柔らかな陽だまりが落ちる午後のリビング。静謐な空気の中、美世は上質なソファに深く腰掛け、アンティークのカップを傾けていた。その指先が弄んでいるのは、ある名門ブランドが二十年前に限定生産したという、繊細な細工が施された銀のティースプーンだ。
二十年。その歳月を経てなお、一点の曇りもなく洗練された美しさを保ち続ける銀器。美世にとって価値があるのは、そうした、完成と維持された美だけであった。
足元では、ハルがとすとすと絨毯を這っている。
一歳を少し過ぎた程度のまだ幼い身体はどこまでも未完成で、無秩序だ。半袖からびよんとこぼれ落ちる二の腕は、手首のくびれなど見えないほどにもちもちとしており、何段もの柔らかな贅肉が重なっている。丸い膝をついてに進むたびに、そのむちむちとした太腿が震えておむつの厚みで膨らんだお尻が左右にぷよぷよと揺れる。
ハルは、美世の傍らに置かれたサイドテーブルに、好奇心の混じった灰色の瞳を向けた。
いつまと変わらないぽやんとした表情のまま、ハルはつかまり立ちを試みようと、テーブルの脚にむちむちの手をかけた。んしょ、んしょっ、と声を漏らしながら、重たい頭と丸々と肥えた胴体を必死に持ち上げようとする。一歳児にとって、自分の重心を制御して立ち上がるという動作は、全身の筋肉を総動員する大仕事だ。
「……んー……んふー……むぅー、んっ……」
ようやく立ち上がったハルの視線の先に、美世が置いたあの二十年もののスプーンがあった。
ハルは、美世に褒めてほしい、あるいは彼女が大切にしているものに触れてみたいという本能的な欲求に突き動かされる。太い指先は極めて不器用で、親指と人差し指で細いものを正確に掴むことは不可能だ。ハルは、もちもちと分厚いてのひら全体を使って、その銀のスプーンを握り込もうと手を伸ばした。
「なにをしているのかしら」
「ぴ、ぇ……ぁっ……?」
「うるさい。それに触らないで、穢らわしい」
氷のような声が、ハルの耳に突き刺さる。
美世はハルがスプーンに触れる寸前、ハルの手を叩き落として奪い返した。触れられそうになったという事実だけで、彼女の端正な眉は不快げに歪んでいる。
そしてその力は、一歳児の脆弱な身体を吹き飛ばすには十分すぎるほどに鋭く、冷たい。支えを失ったハルは、ぼふっと無様に尻もちをついた。おむつの膨らんだお尻が絨毯に沈み、重たい頭を支えきれずに身体がぐりんと大きく傾く。
「ぃ、ぐ……っ!?ふぇ……ひ……ぁうっ!」
打ち付けた大きなお尻の痛みと、突き放されたショックで、ハルは目を潤ませた。美世は、触れられそうになったスプーンに傷がないか確認してから、蔑みを込めてハルを見下ろす。
「二十年もの歳月を経て価値を増すものもあれば、産まれた瞬間から汚物でしかないものもあるわ」
ハルは、美世の言葉の意味を理解できないまま、あうあうと短い手足を動かし、這いつくばって彼女の足元へにじり寄る。美世に見捨てられることへの本能的な恐怖が、ハルを動かしていた。
「せんせ……ぅん……はる……だい、す……」
「黙って、と何度言えば守れるの? お前のような汚物が私を好きだなんて、虫唾が走るわ。視界に入るだけで不愉快なのに、感情を向けられることも迷惑でしかないのよ」
美世の短く切り裂くような拒絶に、ハルの言葉は遮られる。ぴたりと動きを止め、泣きだすこともできずに、むちむちとした肥満体を震わせた。
「二十年経っても、あなたにこの価値は分からないでしょうね」
ハルは、美世が何を怒っているのか正確には理解できない。ただ、「にじゅう」という言葉の響きと、彼女から放たれる強烈な拒絶の気配に、胸が締め付けられる。
ハルは、驚きと悲しみで顔をくしゃりと歪めた。大きな瞳にみるみるうちに涙が溜まり、ふにゃっと半開きだった目元がうるうるし始める。
「ふぇ……ぁ、ぅあっ……せんせ……はる……ご、め……な、さい……」
謝罪の言葉さえ満足に発音できず、ハルはぐらぐらと頼りなく身体を揺らした。
ハルは、美世に許しを乞うように、ぺたぺたと絨毯を叩きながら彼女ににじり寄ろうとした。しかし、美世は汚物を見るような目でハルを一瞥すると、音もなく立ち上がった。
「うるさい」
ハルは、美世の靴を掴もうと、必死に手を伸ばす。幼児の短い指が、彼女のスリッパに届きそうになる。美世はそれをさらりと避けた上で、厚みのある肉塊を踏みつけた。
「お前が20年も生きながらえずに死ぬことを願っているわ」
美世は冷たく言い捨て、ハルをその場に残して去っていく。
ハルは、遠ざかる背中を見つめながら、なにも理解できていない頭で「に、じゅ」という言葉を繰り返した。それが自分には決して辿り着けない、高い壁の向こう側にある何かのように思えて、ハルはただ、むちむちの身体を丸めて、んー、んー、と小さく鳴き続けた。
午後三時。
二十年という歴史を持つ銀のスプーンは美世の手によって厳重に片付けられ、部屋には、自分の靴下すら脱げない無力な幼児の、つたない泣き声だけが虚しく響いていた。
#20歳
26.1.10
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、ハルの真っ白な髪を透き通るように照らし出していた。
しっとりとした汗をかいた項に、白銀の髪が張り付いている。ハルは、まるっと大きな目をゆっくりと開いた。とろんと半開きになった灰色の瞳は、まだ眠気でうるうると潤んでいる。くるんと可愛くカールしたまつげが、瞬きに合わせて震えた。
「………んぅ……。……おあ、よ、ぅ……?」
普段以上にぽやんぽやんの頭で、ハルは、んむんむと独り言を漏らす。寝返りを打とうとして、むちむちとした短い手足がシーツの上でもぞもぞと動いた。ぷにぷにとした柔らかくボリュームのある頬が枕に押し付けられ、むにっと形を変える。
「はぅ……くぁー……ん、しょ」
ハルは、白パンのようにむっちりした腕に力を込めて、仰向けから這い上がるようにして、何度もずり落ちながらようやく、上半身を起こした。ぽっこりと膨らんだお腹がパジャマの下で重たげに揺れる。体全体がむちむちしているハルとって、自力で起き上がるという動作だけでも一苦労であった。
ハルはふにふにと自分の手を眺め、枕元に置いてあったタオルをぺたんっと掴もうとする。手先の運動がつたないせいで、掴もうとしているのか、叩いているのかすら、傍からはわからない。
ばんっ、ぺたんっ、ぺんっ。
ようやく掴んだタオルを引きずって、そのまま、とてとて、ぺたぺたと足音を立てて寝室の扉へと向かう。ハルの足首はもちもちとしていて、まるでお餅が重なっているかのようにふっくらと柔らかそうだ。
リビングに出ると、そこには既に美世の姿があった。ハルは、にぱっと表情を輝かせ、るんるんと、弾むような足取りで駆け寄ろうとする。といっても、その重たい体は、ぼすん、べたん、と地面を踏みしめるのに精一杯で、とても走るなんてことは不可能である。
「せん、せ! はる……おあ、よー……っ!」
ハルは、ぴたっと美世の数歩手前で足を止めた。美世から放たれる、刺すような冷たい視線に気づいたからだ。美世はハルの方を見ようともせず、ただ冷徹な声で告げた。
「うるさい。汚い。近づかないで。さっさと着替えなさい」
美世の言葉は短く、氷のように冷ややかだった。ハルは、んっと喉を鳴らして、びくりと肩を震わせる。過呼吸の前兆だ。美世から冷めた声をかけられることは日常茶飯事なのに、ハルは未だに慣れる様子がない。その反応も、美世を苛立たせるひとつの要因であった。美世は、嫌悪感を隠そうともせず、指先一つ触れるのを拒むようにして、予備の服をハルの足元へ放り投げた。
まだ一歳になったばかりのハルにとって、一人で着替えを完遂することは不可能に近い。美世が用意する服はどれも幼子には不向きな、重いフードのついたパーカーや、体にぎゅむっと張り付く短パン、ひらひらのレースがついた靴下だった。
ハルにはまずパーカーの頭を通す穴を探すことさえ難しく、ましてやズボンの足を通す動作は、ぐらぐらと身体のバランスを崩してしまう。
「……んー……んしょ、んしょ……」
ハルは、ぽてぽてっと床に座り込み、必死にズボンに足を入れようとした。ハルの腕は、まるでちぎりパンのように段々になっていて、太い手や指も動かすのに一苦労だ。そして、もちもちとした太ももが布地に引っかかって上手くいかない。足首のぷにぷにとした肉が邪魔をして、踵が抜けないのだ。
「うぅ……っ、せんせ。……これ、……んぅー……でき、ぅ……な、い……」
ハルがすがるような目で美世を見上げ、ぎゅっと美世の服の裾に触れようとした瞬間。
「触るなと言ったはずよ」
美世は、汚物でも避けるかのように、鋭く身を翻した。ハルの小さな手は空を切り、ぺちっと空しく自分の膝を叩く。美世は、苛立ちを隠さずにハルの襟首を掴み、乱暴に着替えさせ始めた。刺激に弱い柔らかな肌を労わる気など微塵もない。ハルの白くもちもちと弾力のある腕を美世の冷たい指先が強く圧迫する。
「ぁうっ、……ん、んぅ……せ、ーせ」
痛みに、ハルの大きな目はじわっと潤む。じわりじわり、と目尻が濡れて、今にも涙が溢れそうになっている。しかし、泣けばさらに嫌われるかもしれないという恐怖で、むにゅむにゅと歯のない口で唇を噛み締める。
そして、着替えを終えると、次は朝食の時間。
テーブルの上に置かれたのは、ハルのための「食事」だった。
それは、生焼けのどろりとした脂身や、泥のような苦い野草、鼻を突くほど生臭い腐りかけの魚や牛乳をすべて混ぜ合わせ、ぐちゃぐちゃに踏み潰したような、吐瀉物の色をしたなにかだった。器からは、幼い子供が到底受け入れられないような、鼻を刺す不快な腐敗臭が漂っている。固形と液状もごった煮状態で、使っている食材が食べられるものであるだけの、食べ物とは到底呼べないなにかである。
ハルは、ひうっと喉を鳴らして、脂肪だらけの小さな手を震わせた。感覚過敏のハルにとって、その悪臭と、舌を焼くような苦味や不気味な脂の感触は、地獄そのものだった。
「ぇ……あ、う……く、しゃ……ぃ。……せん、せ……これ、……あ、あうぅ……」
ハルが、うるうるした目で、助けを求めるように美世を見上げる。しかし、美世はハルなど視界に入れていない。彼女の前には、美しく磨かれた銀の皿に、完璧な形に切り分けられた黄金色の果実が並んでいた。それは、美しく、優雅な弧を描く、美しい三日月の形に切られた最高級マンゴー。
ハルは、うるんだ目で、その輝くような三日月を見つめた。自分の目の前にある、吐き気を催すような泥色の塊とは正反対の、光を放つ宝石のような食べ物。
「……っあ!せんせっ、み……か、つき……っ」
ハルは、もちもちとした短い指を、ふにふにと動かした。表情の薄いもちもち顔には、にぱっと笑顔を乗せる。
ハルはただ、甘い匂いや綺麗な色に釣られたわけではない。美世のことが大好きで、彼女の持ち物に触れたい、同じものを見ていたいという身勝手で無垢なハルのわがままが詰まった結果だ。
ハルは、んしょんしょと、むちむちの身体をゆすって椅子の上で身を乗り出した。ぽっこりと出たお腹がテーブルの縁を圧迫し、ぐににっとへこむ。
ハルの不器用な指先が、美世の皿の端、その美しい果実へと、ぐーっと伸びた。
──その瞬間、美世の瞳が耐え難い嫌悪に染まった。一切の躊躇いなく、手に持っていた銀のフォークをハルの柔らかく白い手の甲に押し当てた。鋭い金属の冷たさに、ハルは、びくんっと身体を大きく跳ねさせる。一度離して、勢いをつける。
そして、磨きあげられた鋭利なフォーク先を容赦なく振り下ろした。
ずぶり、と鈍い音がして、刃先がハルのましゅまろのような柔らかい皮膚を深く突き刺す。
「………っ! ぁ、あ……あ"ぁっっ!!」
最初は声が出なかった。衝撃と鋭い痛みが一瞬遅れて到達する。喉を引き裂くような悲鳴を上げ、全身を硬直させたかと思えば、びくびくびくっと不自然に体を何度も跳ねさせる。神経が過敏な薄い皮膚。そこへ鉄の爪が食い込んだ衝撃に、ハルの大きな目は 目を剥くほどに見開かれ、気付けば大粒の涙がぼろぼろと溢れ出している。
美世はフォークを突き刺したまま、ハルの手をテーブルに縫い付けるように強く押し切った。
「その不潔な手で触れないで、と何度言わせるの?……本当に、存在するだけで迷惑」
ため息混じりな美世の声は、低く、地を這うように冷たい。ハルは、痛みと恐怖で、止まらない痙攣で椅子の上で身体を揺らす。小さくぷりっとした唇からは、はくはくと小さな呼吸が漏れたかと思えば、咳き込み、過呼吸に近くなる。柔らかい白髪が、幼子には不釣り合いな脂汗でびっしょりと湿って、まろい額に張り付く。
「ぁ……ひ、ぐっ……っけほ……ぁ"う……っっ」
突き刺さった場所からは、鮮やかな赤色が溢れ出し、真っ白なハルの手と、美世の黄金色の三日月を汚していく。
「あ"ぁ、ぃ、だ……ひゅ、ぐっ……は……ひゅっ」
ハルは、必死に痛みに耐えようと、むちむちの身体をよじらせた。しかし、美世は突き刺したフォークをさらに、ぐりっと捻り、ハルの柔らかな肉を抉るようにして引き抜いた。
その衝撃で、ハルは椅子からどすんっと無様に床へ転げ落ちた。オムツで膨らんだお尻が床に叩きつけられ、ぽんっ仰向けになる。その拍子に、テーブルの上に置かれていたハルの器が、がしゃりと嫌な音を立てて落下した。
生焼けの脂身と腐った牛乳、生臭い魚が混ざり合った、どろどろの灰色をした流動食が、倒れたハルの顔のすぐ横で、べちゃっ、と飛び散った。鼻を突く強烈な腐敗臭が、声にならない絶叫に悶えるハルの意識を逸らす。
「はぁ……今すぐ死んでくれないかしら」
それはただのひとりごとだった。どうせ、知能の低いハルに言っても伝わらない。それ故に、心の底から這い出でた嫌悪であった。
美世は立ち上がり、ハルのせいで汚れた果実をゴミ箱へと放り捨てると、床で震えるハルを冷たく見下ろした。彼女の靴の先が、ハルのぽっこりと出たお腹のあたりを、ぐいっ、と強く踏みつける。
「ぐ、ぁ……っ、せ、せ……ひっ……」
「その汚い声を聞かせないで、耳障りよ。黙ってそこに散らばったお前の"朝ごはん"を、今すぐ全て食べなさい。従わないならお前を捨てるだけだから、選んでいいわよ」
美世の短い宣告に、ハルの目の前が真っ暗になる。
──捨てる。
それは、美世に言われる少ない言葉のなかで、ハルが最も耐えられないものであった。ハルの望みは、ただ美世といること。そして、美世に話しかけてもらって、笑いかけてもらえて、たくさん撫でて抱っこしてもらえること。それらすべては、美世がいないと叶わないことで、美世じゃなければ意味がない。
まあ、尤も、ハルに対して無関心ときどき嫌悪のみしか抱いていない美世なので、それはハルのひとりよがりの空想でしかない。たとえハルが美世の言うとおりの利口で可愛い子になったとしても、どうにかこうにかハルが変ったとしても、美世の無関心は度を増すだけだろう。
#三日月
26.1.9
陽光が白いタイルを焼き、眩しさに満ちた昼下がり。美世はテラスの椅子に深く腰掛け、手元の書物に視線を落としていた。その美しい横顔は、周囲の穏やかな空気から切り離されたかのように真剣だ。足元でうごめく幼い存在など、最初から存在しないかのように、彼女の瞳は活字だけを追っている。
そのすぐ近く。ハルは、ぽてぽて、と頼りない足取りでタイルを歩いていた。重心が安定しない幼児特有の歩き方。短い足が交互に繰り出されるたび、もちもちとした太ももが小さく揺れる。ハルは、てく、と一歩進んでは、ふらり、と身体を揺らし、んしょんしょ、と声を漏らして体勢を立て直した。
ハルの視線の先には、庭園に咲き乱れる花々があった。赤、黄色、紫、白。陽光を浴びて輝くそれらは、ハルにとって強烈な色彩の塊である。
ハルは、てちてち、と花壇の縁まで歩み寄り、ぺちっ、と小さな手を石の縁についた。指先はぷにぷにと柔らかく、関節の場所には小さなくぼみがある。ハルは、ぽわん、と半開きの目をさらに細め、目の前の鮮やかな景色を見つめる。
「ん……あか。……きいろ、あお、も。……きれ、ぇー」
ハルは知っている色の名前を一文字ずつ確かめるように呟く。
『きれい』。その言葉すら、吐息とともに消えてしまいそうなほどにたどたどしい。ハルにとって、目の前の景色は「いろ」がたくさんある、不思議で特別な場所だった。
「ん、ふーっ」
ハルは鼻を鳴らしながら、花壇に手を伸ばす。しかし、1歳の幼児にとって、狙った場所へ正確に指を伸ばすのは容易ではない。指先は何度も何度も空を切り、ふらっと上半身が前に傾く。
「あわ、あわ……わわ」
と、両手を回してバランスを取り、なんとか転倒を免れる。
ハルは、ぽやんとした表情のまま、足元に落ちていた花びらを見つけた。それは風に吹かれて集まった、さまざまな色の重なりだった。ハルは、んしょっと腰を下ろす。おむつの膨らみでぽんっと丸くなったお尻が、ぺたりとタイルに吸い付く。そのお腹がぽっこりと突き出たシルエットが、逆光の中に浮かび上がる。
ハルは不器用な手つきで花びらを拾おうとする。人差し指と親指でつまもうとして、肉厚の指先がもちもちしすぎているせいで、掠りもしない。
「ぁ……に、げ……め!」
何度も、しゅるっと指の間から逃げていく。上手くいかないことに、不機嫌にむっとしながらも諦めず、さらに鼻息を荒くして挑戦し続ける。
「ふん……すっ、むぷー……んん」
ようやく掴んだ数枚の花びらを、ハルは大事そうにお餅みたいなてのひらに乗せた。そして、ぴょこっと顔を上げ、テラスに座る美世を見る。
「せんせ……あ、て。……いろ。……いろ、いっぱい」
ハルは、よたよたっと立ち上がる。むちむちした膝を震わせ、じりじりと美世の方へ歩き出した。まあるいてのひらの上の花びらを落とさないように、関節がほとんど無いも同然の肘を曲げて固定しているため、その動きはますますぎこちない。ぴょてっと足がもつれそうになるたび、ハルの顔に緊張が走る。
「ぴょ、ぴょ……ぽす、ぽ、す」
美世の影の内、あと一歩というところでハルは立ち止まった。きゅうっと喉を鳴らしてほんのわずかに笑う。珍しく細められた目が、にへらっと不器用に光る。
「せんせ。……これ、いろ。……きれー、なの。……みる、して」
ハルは、ぷにぷにのてのひらを美世に差し出した。そこには、赤や紫、黄色の破片が混ざり合い、鮮やかなコントラストを描いている。ハルが知る限りの、最高の「いろ」の集まりだ。
しかし、美世はページをめくる手を止めない。視線すら落とさず、ただ冷ややかに、そこに存在し続ける。ハルの差し出した手も、必死に紡いだ言葉も、すべてが無機質な壁に跳ね返される。美世はハルがすぐそばで花びらを差し出していることを完全に把握しているが、それを一顧だにしないことで、ハルの存在を否定し続けていた。
「ん……ぅ?」
ハルは、むちむちと何重にも線の入った首を傾げた。数秒の間を置いてから、もう一度声を出す。聞こえなかったのだと、勘違いしたようだ。
「せんせ、みて。……あか、も……き、ーろ、も……ある。……せんせ……あげる、した」
美世の周囲の空気は、少しの変化もなく凍りついたままだ。ハルがどんなに慕わしげな視線を向けても、甘えてみせても、可愛子ぶっても。その拒絶が揺らぐことはない。ページをめくる、かさり、という音だけが、ハルの言葉を遮るように響く。
無視され続ける時間が長くなるにつれ、ハルの表情からにこにこ笑顔が消えていく。ぽわっ、としていた目は不安げに揺れ始め、うるうると湿り気を帯びていく。大好きな「せんせい」の視界に自分が入っていないという事実は、ハルにとって受け入れられないものだった。
「ん……んぅ……。ね、ね……せんせ……? はる、ここ。……ここ、いる。……みる、して、ね……っ?」
ハルは、びくっと身体を震わせた。美世は徹底してハルを無視し、読書を続けている。その冷徹な横顔には、ハルの焦燥や悲しみに対する関心など微塵も存在しない。
差し出していた腕が、ぷるぷると震えだす。てのひらの上の花びらが、はらりとタイルにこぼれ落ちた。色とりどりの輝きが無慈悲な白さの上に散らばっていく。
ハルはそれに気づく様子もなく、ただひたすらに、一向に自分を見ない美世の瞳を追い求めている。
「んっ、ふぇ……ぇ、ぐっ、ぁ……」
そのストレスでハルの呼吸は乱れ、過呼吸に近くなっていた。泣き出すのを堪えるように、むちむちした手を握りしめる。美世に触れることは許されない。これ以上しつこく話しかければ、もっと無視される。わかっているのに、やめるという理性は働かない。
美世は本を読み終えたのか、静かに本を閉じた。そして、足元で震えるハルに視線を向けることすらなく、ゆっくりと立ち上がり、歩き出す。
そして、その冷たく磨かれた革靴の底が、タイルに散らばったばかりの鮮やかな色彩の上に、何のためらいもなく下ろされる。
──ぐしゃり。
微かな、乾いた音が響いた。薄く繊細な花びらは、硬い靴底とタイルの間で無惨にすり潰され、原形をとどめないほど散り散りになる。ハルが集めた鮮やかな「いろ」は、一瞬にして、ただの汚れたシミへと変わった。
ハルの動きが、ぴたっと止まった。ぽやり、としていた目が大きく見開かれ、みるみるうちに涙が溢れ出していく。大好きな「せんせい」が、自分の一番大切なものを、まるで道端のゴミのように踏み潰した。その事実がハルの小さな胸に耐え難い衝撃を与える。
一方、美世は足裏の感触など気にも留めず、そのまま優雅な足取りでテラスを去ろうと足を進めた。ハルの存在も、ハルが集めた宝物も、彼女にとっては認識する価値すらない塵芥に過ぎない。完璧な無視。
ハルは、呆然と涙を流しながら、自分の足元を見た。
「ぁ……あ……っ」
ハルは、ひっ、と喉を鳴らしてしゃくり上げた。ひっくひっく、と引き攣れた声と同時に、ぽたぽたと大粒の涙が落ちる。立て続けに流れる涙が、無惨に潰された残骸を濡らす。
そしてハルは唐突に、無我夢中で美世の行く手を遮ろうと走り出した。よろよろ、と立ち上がり、おむつで膨らんだお尻を左右に揺らしながら、不器用で転びそうな走りで美世の前に躍り出る。短い足を一生懸命に動かし、てちてちと必死に足元へ縋り付こうとする。
「うっ、やっ! ……やーっ! ……はるの……いろ、さん……! ……せんせ、い、やーっっ!」
ハルは、太い両腕をぶんぶんと振り回し、顔を真っ赤にして抗議の声を上げた。普段のぼんやりした様子は消え、激しい感情の昂ぶりに身体を震わせる。もちもちとした頬は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、ひっ、ひっ、と短い悲鳴のような呼吸を繰り返す。
ぐしゃり、と音を立てて潰された花びらの残骸。それはハルにとって、大好きな美世に見せたかった、この世で一番綺麗なものだった。
「ぅ、あーっ……! ……せんせ、や。……き、らいっ! だい、き……らいっ!!」
ハルは、真っ赤な顔をして叫んだ。むちむちとした小さな拳を握りしめ、地面を、ばんばんと叩く。自分の一番大切なものを平気で踏みつけた美世に対し、ハルの胸の奥から、経験したことのないような熱いなにかが込み上げてくる。
その声が聞こえているだろうに、美世は立ち止まらない。目の前に立ちはだかるハルを、道に転がっている石ころか何かのように、冷たく淡々と避けて歩みを進める。ハルの小さな抵抗など、彼女の歩みを一歩たりとも止めさせる理由にはなり得ない。
ハルにとって、「きらい」は絶望を意味する言葉だ。美世にそんな言葉を言われたら、真っ暗闇に取り残されたときと同じほどに、世界が粉々になる。でも、その言葉も、美世には全く影響がなかった。それがハルをさらに追い詰めた。
「ううーっ! ……はる、……おこ、た! ……せんせ、いじ、わる……っ!」
ハルは、だんっと膝をつきながらも、去りゆく美世の裾を掴もうとぷにぷにの手を伸ばした。しかし、美世は汚いものを避けるように、鋭く一歩退いてそれを回避する。ハルの手は虚しく空を切り、勢い余って、どてんっとタイルに転がった。
ぽっこりと出たお腹が地面に打ち付けられ、ハルは、だんっと鈍い音を立てて倒れ込む。
「ん……ぁ……、あうぅぅ……っ!!」
ハルは、顔を地面に伏せたまま、激しく泣きじゃくった。むちむちとした手足でタイルを叩き、全身で拒絶と悲しみを表現する。普段のぼんやりとしたハルからは想像もつかないほど、その泣き声は大きく、激しく、庭園に響き渡る。
美世は一度も振り返らない。ハルが地面でのたうち回り、どれほど喉を枯らして叫んでも、彼女の背中には一欠片の慈悲も浮かばなかった。
ハルは、ぐらぐらと頭を揺らしながら顔を上げ、散り散りになった花びらの残骸を見つめた。潰され、茶色く変色し始めたそれは、もう二度ときれいな色には戻らない。
「あぅ……っ、ん、んやー……っ!!」
ハルは、自分を置き去りにして遠ざかる美世の背中を濡れた瞳で見つめ続ける。本能的な見捨てられ不安が、ハルの小さな心を激しく締め付けた。どんなに無視されても、宝物を踏みにじられても、ハルは美世しか寿司じゃない。
ハルは、ぴとりと自分の掌を頬に当ててしゃくり上げながら、去っていった美世の幻を追いかけるようにその場に丸まった。
#色とりどり
26.1.9
薄暗い昼下がり、室内はしんと静まり返っている。窓の外では、音もなく白い粒が空からこぼれ落ちていた。
ハルは厚手のカーペットの上に、とてんと座り込み、窓の向こうをぼんやりと眺めている。
一歳半になるその体躯は、幼児特有のむちむちとした肉付きに溢れていた。おむつの膨らみで丸々と膨らんだお尻、ちぎりパンのように段がついた太もも、そして手首のくびれに埋まった柔らかな肌。白髪の頭を少し傾けると、重たそうな頬の肉がぷにっと垂れ下がった。
その大きな目は、とろんと半開きで、潤んだ灰色を湛えている。
空から舞い降りる白い欠片に、ハルの視線はゆっくりと吸い寄せられていた。
「……ん、……しろ……?」
つぶやきは、空気に溶けるほどにか細い。
ハルは、短い指先をむにっと動かし、窓の方へと手を伸ばした。しかし、短い腕では遠く及ばない。ハルは、んしょっと声を漏らしながら、四つん這いになって這い進む。
膝をつくたびに、もちっとした足の肉が床に押し付けられ、きゅっきゅっと可愛らしい音が鳴る。移動のたびに、おむつの重みで腰が左右にふりふりと揺れた。
ようやく辿り着いた窓辺。ハルはぴとっと、冷たいガラスに小さな手のひらを押し当てた。
「……ゆ、き……? せんせ……ゆき……ふ、てる」
ハルは期待に満ちた、きゅるんとした瞳で振り返った。
部屋の奥、アンティークの椅子に腰掛け、優雅に本を捲っているのは美世である。
美世は、ハルの呼びかけに視線すら向けない。ハルの存在そのものを、部屋に置かれた薄汚れたガラクタか何かのように、徹底して無視している。
ハルは、美世の反応がないことに少しだけ不安を覚え、眉をしゅんと下げた。
それでも、外で踊る白銀の世界はあまりに美しく、幼いハルの好奇心を刺激してやまない。ハルは立ち上がろうとして、ぷるぷると短い足を震わせた。
「ん、く……」
むちむちの足に力を込め、窓枠を掴んでぐいっと体を持ち上げる。不安定な重心が揺れ、転びそうになりながらも、なんとか立ち上がった。
窓に張り付くようにして、ハルは外を見つめる。
「……きら、きら……。……ゆき、さわる……する」
ハルは、美世の方をもう一度見た。
大好きな「せんせい」に、この不思議な白いものを教えてあげたかった。自分ひとりでは届かない、あの冷たそうな輝きを、一緒に見てほしかった。
ハルは、つたない足取りで美世の方へと歩き出す。
てち、てち、と。たどたどしい音を立てる。時折、自分の足のもつれに驚いて、とと、とよろけながら、必死に距離を詰めていく。
美世の足元まであと数十センチというところで、ハルは止まった。
美世の冷徹な眼差しが、本から外れ、足元の"肉の塊"へと向けられたからだ。
「……せんせ。……ゆき、しろ。……おそと、しろ。……はる……みる、する」
ハルは、期待に胸を膨らませ、ぼんやりした目をわずかに細めて笑った。その小さな、柔らかそうな手が、美世のスカートの裾に触れようとした、その瞬間。
「触るななと言ったはずよ。汚いわね」
氷のように冷たく、刃物のように鋭い声が、ハルの動きを凍りつかせた。美世は、汚れ物を見るような蔑みの視線で、ハルを射抜く。
「お前のような汚物と、雪を眺める趣味などないわ。……いい加減離れてくれるかしら。目障りよ」
ハルの笑顔が、一瞬でびたっと止まった。
くるりと輝いていた瞳は、見る間に恐怖と悲しみに染まり、うるうると涙を蓄え始める。美世の言葉は短く、慈悲の欠片もない。ハルにとって、それは何よりも恐ろしい拒絶だった。
「ん、あ……ぅ……、せん、せ……。……ごめ、なさ……」
ハルは、触れようとした手をぎゅっと握りしめ、胸元に引き寄せた。
触れてはいけない。何度も言われて、理解できても、行動には移せない。ハルにとって、理解することと、受け入れられることは違うのだ。
ハルの小さな体は、恐怖でがたがたと震え出した。
先ほどまで美しく見えていた雪も、今はただ、自分を美世から遠ざける冷酷な壁のように感じられた。
美世は、ハルの絶望など一瞥もせず、再び本に目を落とした。
「雪なんて、ただの凍った水に過ぎないわ。お前と同じ、価値のないゴミよ」
ハルは、声も出せずに立ち尽くした。
とろんとしていた目は、今はただ虚空を見つめ、大粒の涙がふるりと、もっちもちの頬を伝って落ちた。
外では依然として、雪が美しく舞っている。
暖かな室内で、世界で一番大好きな人の隣にいながら、ハルの心には、外の雪よりも冷たい孤独が静かに積もっていった。
「……は、る……いい、こ……する、の。せん、せ……」
消え入るようなハルの独り言に応える者は、誰もいない。美世に冷たく突き放された瞬間に、ハルの幼い世界は音を立てて崩れ去っていた。
「……あ、ぅ……ん……ふぇ……」
ハルのぽやっとした大きな瞳が、みるみるうちに潤み、溜まった涙が限界を超えて決壊する。
一歳半の幼児にとって、大好きな「せんせい」からの拒絶は、世界の終わりも同義だった。ぼろぼろと大粒の涙が、もっちりした桃色の頬を伝い、床へと滴り落ちていく。
「……あ……ぅ、……あぁぁぁ……っ……ん……んんーっ!」
一度溢れ出した感情は、もう止まらない。ハルは顔を真っ赤に上気させ、ひっく、ひっくと短い呼吸を繰り返しながら激しく泣きじゃくった。
幼い子ども特有の、ふっくらと丸いお腹が、泣き声に合わせて波打つように上下する。ちぎりパンのように段がついた手足は、やり場のない悲しみに震え、ぷるぷると小刻みに揺れていた。
ハルはその場に力なく、とてんと座り込んだ。
おむつで丸く膨らんだお尻が床を叩き、むにっとした太もものが左右に広がる。ハルは短い腕を顔に押し当て、溢れる涙と鼻水を拭おうとしたが、不器用な手付きでは顔中をぐちゃぐちゃに汚すだけだった。
「……せ、んせ……ん……あぁっ、うぅ……っ。……や、ぁっ、なの……や……っ」
泣き声は次第に、言葉にならない叫びへと変わっていく。
ハルは必死に美世の気を引こうと、あるいは許しを乞おうと、その潤んだ瞳を美世へと向けた。しかし、視界は涙で遮られ、大好きな人の姿は白くぼやけて見えない。
窓の外では、依然として雪がしんしんと降り積もっている。その白さは残酷なほどに清らかで、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったハルの醜態を、いっそう際立たせていた。
一方、ハルがどれほど激しく泣き叫ぼうとも、美世はぴくりとも動かない。彼女の視線は手元の本に注がれたままで、ページを捲る指先には一切の迷いも、動揺もない。
ハルの叫びは美世にとっては不快な雑音ですらなく、ただの無価値な現象に過ぎなかった。
視界の端で、白い肉塊が泣き崩れ、床を汚している。その事実が、美世の嫌悪をいっそう深いものにする。彼女はハルの泣き声に重なるように、ただ冷ややかに、心の内でその存在を否定していた。
「……ん、はぅ……ぅ……せん……せ、……みる、して……。……あ、ぅ……」
ハルは、這うようにして美世の足元へ近づこうとした。
むちむちの膝を床に擦り付け、必死に手を伸ばす。しかし、美世に触れればどうなるか、辛うじて残っているつたない記憶が、ハルの動きを躊躇わせる。
美世はハルが自分の衣服に触れる寸前、汚らわしいものを避けるようにすっと足を引いた。
その徹底した拒絶に、ハルはさらなる絶望を味わうだけだ。
「……あ……ぁぁ……う……あぁぁん!」
ハルは顔を床に伏せ、今度こそ大きな声をあげて泣いた。
とろんと半開きだった目は、今は涙で真っ赤に腫れ上がり、ぎゅっと閉じられている。泣き疲れて、体力が削られていく。それでも、幼児の激しい感情は収まるどころか、行き場を失ってハルの小さな体の中に積もっていくが、変わらず部屋の中にはハルの泣き声だけが響き渡っている。
美世は一切の声をかけず、慰めの手を差し伸べることもない。彼女にとってハルは嫌悪の対象であり、あるいはただの「玩具」でしかない。同等の一人の人間として扱うつもりなど、毛頭なかった。
ハルは、泣きすぎて熱くなった頬を、冷たい床にぴたっと押し付けた。床の冷たさが、外の雪を連想させる。
さっきまで「きらきら」と喜んでいた雪は、今はもう、自分を凍りつかせる恐ろしいものにしか思えなかった。
「……せん、せ……。……ん、ぅ……ごめ、なさ……」
しゃくり上げながら、ハルは何度も、何度も謝罪を口にする。
何に対しての謝罪なのか、自分でも分かっていない。ただ、美世が怒っていること、自分が嫌われていること、それだけがハルの全てだった。
「……なんの謝罪なのかしら。うるさいから黙ってくれない?」
美世は吐き捨てるように、冷たく言い放つ。ハルに向かって放った言葉というより、うんざりとしたひとりごとのようだった。
ハルの幼児らしい、丸みを帯びた背中は、泣き声を抑えようとしているせいで、ひきつけを起こしたようにぴくりと上下し続ける。
美世の冷徹な沈黙と、ハルの絶望的な泣き声。
二人の間には、窓の外に積もる雪よりも深く、決して埋まることのない断絶が横たわっていた。
どれくらい経ったのか。美世は、ようやく一区切りついた本を静かに閉じる。
パタン、という乾いた音が、ハルの泣き声を一瞬だけ遮る。ハルは期待を込めて、びしょびしょの顔を上げた。
しかし、美世はハルを一瞥だにせず、ただ優雅に立ち上がると、部屋を出て行こうとした。
ハルは、去りゆく背中を追いかけようとしたが、痺れた足が動かない。
「……ん、あ……っ、まつ……し、て……、……せ、んせ……っ」
力なく伸ばされたハルの手のひらは、不器用な形をして虚空を掴む。美世の衣擦れの音だけが、ハルの耳に残った。
後に残されたのは、薄暗い部屋と、降り続く雪、そして独り泣き続ける、無力な幼児の姿だけだった。
振り絞るようなハルの声に応える者は、誰もいない。
ただ、昼下がりの静寂と、窓の外の白銀だけが、幼児の絶望を静かに見守っていた。
26.1.7
#雪
冬の柔らかな陽光が、塵ひとつないリビングのフローリングに、細長い模様を描いていた。
美世は窓際のパーソナルチェアに腰掛け、一冊の詩集を開いている。ページを繰る指先は白く、陶器のように滑らかだ。傍らのサイドテーブルには、湯気を立てるアールグレイが置かれ、ベルガモットの香りが室内の冷えた空気に混じり合っていた。
その完成された静寂を乱す小さな音が、部屋の隅から聞こえてくる。
ハルの身体は、この月齢の子供らしく、どこまでも柔らかで丸みに満ちていた。まるっと突き出たお腹がパジャマを押し上げ、その下にはおむつの厚みで膨らんだおしりがある。
ハルは、むちむちとした短い腕を床につき、反動をつけてゆっくりと立ち上がろうとしていた。
「ん、……んしょ、……んしょ……っ!」
ハルは、お餅のような白い足の裏を床にぺたぺたと吸い付かせ、慎重に膝を伸ばしていく。肉付きの良いむちむちの太ももがぷるぷると震え、ようやく立ち上がると、彼は大きく一歩を踏み出した。
まだ重心の取り方がおぼつかない。
ぽてんと大きく膨らんだおしりを左右に揺らし、むちむちとした短い足で懸命にバランスを取りながら、一歩ずつ進んでくる。ぱんぱんに張ったぽんぽこお腹が、歩くたびにパジャマの下で重たげに揺れていた。
ぺた、ぽす。
ぺた、ぽす。
幼児特有の、股関節を大きく開き、足裏全体で床を叩くような歩き方。おぼつかない足音を立てながら、とてとてとたっぷりの時間をかけて歩いている。
ハルは、丸っこいお腹を突き出し、両腕を左右に広げてバランスを取りながら、ほんの少しずつ美世の方へと進んでいった。一歩進むたびに、しっとりと柔らかい足の裏が床を叩き、小さな音が静かな部屋に響いた。
「……はぁ、る……んぅ……んしょ、せん……せ」
ハルは、もちもちとした頬を上気させ、小さな口をんあっと半開きにしている。そこからちょこんと覗く舌先が、集中しているのか時折震えていた。
美世は本から目を上げず、ただ冷徹に、そのハルが近づいてくる気配だけを察知していた。
ようやく美世の足元、あと数十センチというところまで辿り着いたハルは、力尽きたようにその場にぺたんと座り込んだ。むにむにとした太ももが床に広がり、幼く柔らかな肌が光を反射する。
「ん、せん、せー……」
ハルは、灰色の瞳に純粋な光を湛え、美世を見上げた。
彼は、美世の膝に頭を預けたいという本能的な欲求に駆られていた。ぷにぷにとした小さな手を伸ばし、美世の汚れのないスカートの裾に触れようとする。
美世は、ページをめくる手を止めずに、視線だけを足元へ落とした。そして、吸い込まれるような速さで足を引いた。
「触らないで、と言ったはずよ」
冷たく、一切の揺らぎのない声。
ハルの手が空を切り、床をぽすんと叩いた。ハルはびくんと身体を跳ねさせ、弾かれたように手を引っ込める。もちもちの顔が、恐怖と悲しみでくしゃりと歪んだ。
「はぁ……本当に、汚らしい」
「……あぅ……ごめ、なさい……。はる、いっしょ……いる、した、い……」
たどたどしい言葉が、ハルのぷにゅっとした唇から漏れる。ハルは、美世に拒絶されることが何よりも恐ろしい。けれど、彼は美世のそばを離れることができない。彼にとって、美世という存在だけがただ大好きだった。
美世は、足元で今にも泣き出しそうに震えるハルを一瞥した。
汗でふわふわの白髪が額に張り付き、ゆるゆるの口元からはよだれが一筋、床へと垂れようとしている。その惨めで、動物的な「生」の質感。
はぁ、と強くため息を吐く。苛立ちが存分に含まれたものだった。
「そこに座っていてもいいけれど。その代わり、動くことも、喋ることも禁じるわ。それが、私と一緒にいるための条件よ」
「………っ!!」
ハルは、はっと息を呑み、必死に涙を堪えた。
美世はハルを見ていない。再び本を開き、活字の海へと戻っていく。けれどハルにとっては、この空間に存在することをわずかに許されたと、浅ましい勘違いをしてしまう。
ハルは、ぽてんとしたおしりを落ち着かせ、お餅のような足先を丸めて、美世の指示通りじっと動かずに座り込んだ。
お腹が空いて、内臓がきゅうっ、ぐーっ、くーっ、と鳴る。冷たい床が、ぷるぷるの肌を冷やしていく。それでもハルは、美世の横顔を視界の端に入れるだけで、ひどく安心した。
美世にとって、それは鑑賞物としての沈黙だった。
ハルにとって、それは「一緒」という名の、孤独な望みの形だった。
窓から差し込む冬の光は、やがて影を長く伸ばし、二人の距離を残酷なまでに鮮明に描き出している。
2026.1.6
#君と一緒に