カーテンの隙間から差し込む朝の光が、ハルの真っ白な髪を透き通るように照らし出していた。
しっとりとした汗をかいた項に、白銀の髪が張り付いている。ハルは、まるっと大きな目をゆっくりと開いた。とろんと半開きになった灰色の瞳は、まだ眠気でうるうると潤んでいる。くるんと可愛くカールしたまつげが、瞬きに合わせて震えた。
「………んぅ……。……おあ、よ、ぅ……?」
普段以上にぽやんぽやんの頭で、ハルは、んむんむと独り言を漏らす。寝返りを打とうとして、むちむちとした短い手足がシーツの上でもぞもぞと動いた。ぷにぷにとした柔らかくボリュームのある頬が枕に押し付けられ、むにっと形を変える。
「はぅ……くぁー……ん、しょ」
ハルは、白パンのようにむっちりした腕に力を込めて、仰向けから這い上がるようにして、何度もずり落ちながらようやく、上半身を起こした。ぽっこりと膨らんだお腹がパジャマの下で重たげに揺れる。体全体がむちむちしているハルとって、自力で起き上がるという動作だけでも一苦労であった。
ハルはふにふにと自分の手を眺め、枕元に置いてあったタオルをぺたんっと掴もうとする。手先の運動がつたないせいで、掴もうとしているのか、叩いているのかすら、傍からはわからない。
ばんっ、ぺたんっ、ぺんっ。
ようやく掴んだタオルを引きずって、そのまま、とてとて、ぺたぺたと足音を立てて寝室の扉へと向かう。ハルの足首はもちもちとしていて、まるでお餅が重なっているかのようにふっくらと柔らかそうだ。
リビングに出ると、そこには既に美世の姿があった。ハルは、にぱっと表情を輝かせ、るんるんと、弾むような足取りで駆け寄ろうとする。といっても、その重たい体は、ぼすん、べたん、と地面を踏みしめるのに精一杯で、とても走るなんてことは不可能である。
「せん、せ! はる……おあ、よー……っ!」
ハルは、ぴたっと美世の数歩手前で足を止めた。美世から放たれる、刺すような冷たい視線に気づいたからだ。美世はハルの方を見ようともせず、ただ冷徹な声で告げた。
「うるさい。汚い。近づかないで。さっさと着替えなさい」
美世の言葉は短く、氷のように冷ややかだった。ハルは、んっと喉を鳴らして、びくりと肩を震わせる。過呼吸の前兆だ。美世から冷めた声をかけられることは日常茶飯事なのに、ハルは未だに慣れる様子がない。その反応も、美世を苛立たせるひとつの要因であった。美世は、嫌悪感を隠そうともせず、指先一つ触れるのを拒むようにして、予備の服をハルの足元へ放り投げた。
まだ一歳になったばかりのハルにとって、一人で着替えを完遂することは不可能に近い。美世が用意する服はどれも幼子には不向きな、重いフードのついたパーカーや、体にぎゅむっと張り付く短パン、ひらひらのレースがついた靴下だった。
ハルにはまずパーカーの頭を通す穴を探すことさえ難しく、ましてやズボンの足を通す動作は、ぐらぐらと身体のバランスを崩してしまう。
「……んー……んしょ、んしょ……」
ハルは、ぽてぽてっと床に座り込み、必死にズボンに足を入れようとした。ハルの腕は、まるでちぎりパンのように段々になっていて、太い手や指も動かすのに一苦労だ。そして、もちもちとした太ももが布地に引っかかって上手くいかない。足首のぷにぷにとした肉が邪魔をして、踵が抜けないのだ。
「うぅ……っ、せんせ。……これ、……んぅー……でき、ぅ……な、い……」
ハルがすがるような目で美世を見上げ、ぎゅっと美世の服の裾に触れようとした瞬間。
「触るなと言ったはずよ」
美世は、汚物でも避けるかのように、鋭く身を翻した。ハルの小さな手は空を切り、ぺちっと空しく自分の膝を叩く。美世は、苛立ちを隠さずにハルの襟首を掴み、乱暴に着替えさせ始めた。刺激に弱い柔らかな肌を労わる気など微塵もない。ハルの白くもちもちと弾力のある腕を美世の冷たい指先が強く圧迫する。
「ぁうっ、……ん、んぅ……せ、ーせ」
痛みに、ハルの大きな目はじわっと潤む。じわりじわり、と目尻が濡れて、今にも涙が溢れそうになっている。しかし、泣けばさらに嫌われるかもしれないという恐怖で、むにゅむにゅと歯のない口で唇を噛み締める。
そして、着替えを終えると、次は朝食の時間。
テーブルの上に置かれたのは、ハルのための「食事」だった。
それは、生焼けのどろりとした脂身や、泥のような苦い野草、鼻を突くほど生臭い腐りかけの魚や牛乳をすべて混ぜ合わせ、ぐちゃぐちゃに踏み潰したような、吐瀉物の色をしたなにかだった。器からは、幼い子供が到底受け入れられないような、鼻を刺す不快な腐敗臭が漂っている。固形と液状もごった煮状態で、使っている食材が食べられるものであるだけの、食べ物とは到底呼べないなにかである。
ハルは、ひうっと喉を鳴らして、脂肪だらけの小さな手を震わせた。感覚過敏のハルにとって、その悪臭と、舌を焼くような苦味や不気味な脂の感触は、地獄そのものだった。
「ぇ……あ、う……く、しゃ……ぃ。……せん、せ……これ、……あ、あうぅ……」
ハルが、うるうるした目で、助けを求めるように美世を見上げる。しかし、美世はハルなど視界に入れていない。彼女の前には、美しく磨かれた銀の皿に、完璧な形に切り分けられた黄金色の果実が並んでいた。それは、美しく、優雅な弧を描く、美しい三日月の形に切られた最高級マンゴー。
ハルは、うるんだ目で、その輝くような三日月を見つめた。自分の目の前にある、吐き気を催すような泥色の塊とは正反対の、光を放つ宝石のような食べ物。
「……っあ!せんせっ、み……か、つき……っ」
ハルは、もちもちとした短い指を、ふにふにと動かした。表情の薄いもちもち顔には、にぱっと笑顔を乗せる。
ハルはただ、甘い匂いや綺麗な色に釣られたわけではない。美世のことが大好きで、彼女の持ち物に触れたい、同じものを見ていたいという身勝手で無垢なハルのわがままが詰まった結果だ。
ハルは、んしょんしょと、むちむちの身体をゆすって椅子の上で身を乗り出した。ぽっこりと出たお腹がテーブルの縁を圧迫し、ぐににっとへこむ。
ハルの不器用な指先が、美世の皿の端、その美しい果実へと、ぐーっと伸びた。
──その瞬間、美世の瞳が耐え難い嫌悪に染まった。一切の躊躇いなく、手に持っていた銀のフォークをハルの柔らかく白い手の甲に押し当てた。鋭い金属の冷たさに、ハルは、びくんっと身体を大きく跳ねさせる。一度離して、勢いをつける。
そして、磨きあげられた鋭利なフォーク先を容赦なく振り下ろした。
ずぶり、と鈍い音がして、刃先がハルのましゅまろのような柔らかい皮膚を深く突き刺す。
「………っ! ぁ、あ……あ"ぁっっ!!」
最初は声が出なかった。衝撃と鋭い痛みが一瞬遅れて到達する。喉を引き裂くような悲鳴を上げ、全身を硬直させたかと思えば、びくびくびくっと不自然に体を何度も跳ねさせる。神経が過敏な薄い皮膚。そこへ鉄の爪が食い込んだ衝撃に、ハルの大きな目は 目を剥くほどに見開かれ、気付けば大粒の涙がぼろぼろと溢れ出している。
美世はフォークを突き刺したまま、ハルの手をテーブルに縫い付けるように強く押し切った。
「その不潔な手で触れないで、と何度言わせるの?……本当に、存在するだけで迷惑」
ため息混じりな美世の声は、低く、地を這うように冷たい。ハルは、痛みと恐怖で、止まらない痙攣で椅子の上で身体を揺らす。小さくぷりっとした唇からは、はくはくと小さな呼吸が漏れたかと思えば、咳き込み、過呼吸に近くなる。柔らかい白髪が、幼子には不釣り合いな脂汗でびっしょりと湿って、まろい額に張り付く。
「ぁ……ひ、ぐっ……っけほ……ぁ"う……っっ」
突き刺さった場所からは、鮮やかな赤色が溢れ出し、真っ白なハルの手と、美世の黄金色の三日月を汚していく。
「あ"ぁ、ぃ、だ……ひゅ、ぐっ……は……ひゅっ」
ハルは、必死に痛みに耐えようと、むちむちの身体をよじらせた。しかし、美世は突き刺したフォークをさらに、ぐりっと捻り、ハルの柔らかな肉を抉るようにして引き抜いた。
その衝撃で、ハルは椅子からどすんっと無様に床へ転げ落ちた。オムツで膨らんだお尻が床に叩きつけられ、ぽんっ仰向けになる。その拍子に、テーブルの上に置かれていたハルの器が、がしゃりと嫌な音を立てて落下した。
生焼けの脂身と腐った牛乳、生臭い魚が混ざり合った、どろどろの灰色をした流動食が、倒れたハルの顔のすぐ横で、べちゃっ、と飛び散った。鼻を突く強烈な腐敗臭が、声にならない絶叫に悶えるハルの意識を逸らす。
「はぁ……今すぐ死んでくれないかしら」
それはただのひとりごとだった。どうせ、知能の低いハルに言っても伝わらない。それ故に、心の底から這い出でた嫌悪であった。
美世は立ち上がり、ハルのせいで汚れた果実をゴミ箱へと放り捨てると、床で震えるハルを冷たく見下ろした。彼女の靴の先が、ハルのぽっこりと出たお腹のあたりを、ぐいっ、と強く踏みつける。
「ぐ、ぁ……っ、せ、せ……ひっ……」
「その汚い声を聞かせないで、耳障りよ。黙ってそこに散らばったお前の"朝ごはん"を、今すぐ全て食べなさい。従わないならお前を捨てるだけだから、選んでいいわよ」
美世の短い宣告に、ハルの目の前が真っ暗になる。
──捨てる。
それは、美世に言われる少ない言葉のなかで、ハルが最も耐えられないものであった。ハルの望みは、ただ美世といること。そして、美世に話しかけてもらって、笑いかけてもらえて、たくさん撫でて抱っこしてもらえること。それらすべては、美世がいないと叶わないことで、美世じゃなければ意味がない。
まあ、尤も、ハルに対して無関心ときどき嫌悪のみしか抱いていない美世なので、それはハルのひとりよがりの空想でしかない。たとえハルが美世の言うとおりの利口で可愛い子になったとしても、どうにかこうにかハルが変ったとしても、美世の無関心は度を増すだけだろう。
#三日月
26.1.9
1/9/2026, 2:13:47 PM