NoName

Open App

 柔らかな陽だまりが落ちる午後のリビング。静謐な空気の中、美世は上質なソファに深く腰掛け、アンティークのカップを傾けていた。その指先が弄んでいるのは、ある名門ブランドが二十年前に限定生産したという、繊細な細工が施された銀のティースプーンだ。
 二十年。その歳月を経てなお、一点の曇りもなく洗練された美しさを保ち続ける銀器。美世にとって価値があるのは、そうした、完成と維持された美だけであった。
 足元では、ハルがとすとすと絨毯を這っている。
 一歳を少し過ぎた程度のまだ幼い身体はどこまでも未完成で、無秩序だ。半袖からびよんとこぼれ落ちる二の腕は、手首のくびれなど見えないほどにもちもちとしており、何段もの柔らかな贅肉が重なっている。丸い膝をついてに進むたびに、そのむちむちとした太腿が震えておむつの厚みで膨らんだお尻が左右にぷよぷよと揺れる。
 ハルは、美世の傍らに置かれたサイドテーブルに、好奇心の混じった灰色の瞳を向けた。
 いつまと変わらないぽやんとした表情のまま、ハルはつかまり立ちを試みようと、テーブルの脚にむちむちの手をかけた。んしょ、んしょっ、と声を漏らしながら、重たい頭と丸々と肥えた胴体を必死に持ち上げようとする。一歳児にとって、自分の重心を制御して立ち上がるという動作は、全身の筋肉を総動員する大仕事だ。

「……んー……んふー……むぅー、んっ……」

 ようやく立ち上がったハルの視線の先に、美世が置いたあの二十年もののスプーンがあった。
 ハルは、美世に褒めてほしい、あるいは彼女が大切にしているものに触れてみたいという本能的な欲求に突き動かされる。太い指先は極めて不器用で、親指と人差し指で細いものを正確に掴むことは不可能だ。ハルは、もちもちと分厚いてのひら全体を使って、その銀のスプーンを握り込もうと手を伸ばした。

「なにをしているのかしら」
「ぴ、ぇ……ぁっ……?」
「うるさい。それに触らないで、穢らわしい」

 氷のような声が、ハルの耳に突き刺さる。
 美世はハルがスプーンに触れる寸前、ハルの手を叩き落として奪い返した。触れられそうになったという事実だけで、彼女の端正な眉は不快げに歪んでいる。
 そしてその力は、一歳児の脆弱な身体を吹き飛ばすには十分すぎるほどに鋭く、冷たい。支えを失ったハルは、ぼふっと無様に尻もちをついた。おむつの膨らんだお尻が絨毯に沈み、重たい頭を支えきれずに身体がぐりんと大きく傾く。

「ぃ、ぐ……っ!?ふぇ……ひ……ぁうっ!」

 打ち付けた大きなお尻の痛みと、突き放されたショックで、ハルは目を潤ませた。美世は、触れられそうになったスプーンに傷がないか確認してから、蔑みを込めてハルを見下ろす。

「二十年もの歳月を経て価値を増すものもあれば、産まれた瞬間から汚物でしかないものもあるわ」

 ハルは、美世の言葉の意味を理解できないまま、あうあうと短い手足を動かし、這いつくばって彼女の足元へにじり寄る。美世に見捨てられることへの本能的な恐怖が、ハルを動かしていた。

「せんせ……ぅん……はる……だい、す……」
「黙って、と何度言えば守れるの? お前のような汚物が私を好きだなんて、虫唾が走るわ。視界に入るだけで不愉快なのに、感情を向けられることも迷惑でしかないのよ」

 美世の短く切り裂くような拒絶に、ハルの言葉は遮られる。ぴたりと動きを止め、泣きだすこともできずに、むちむちとした肥満体を震わせた。

「二十年経っても、あなたにこの価値は分からないでしょうね」

 ハルは、美世が何を怒っているのか正確には理解できない。ただ、「にじゅう」という言葉の響きと、彼女から放たれる強烈な拒絶の気配に、胸が締め付けられる。
 ハルは、驚きと悲しみで顔をくしゃりと歪めた。大きな瞳にみるみるうちに涙が溜まり、ふにゃっと半開きだった目元がうるうるし始める。

「ふぇ……ぁ、ぅあっ……せんせ……はる……ご、め……な、さい……」

 謝罪の言葉さえ満足に発音できず、ハルはぐらぐらと頼りなく身体を揺らした。
 ハルは、美世に許しを乞うように、ぺたぺたと絨毯を叩きながら彼女ににじり寄ろうとした。しかし、美世は汚物を見るような目でハルを一瞥すると、音もなく立ち上がった。

「うるさい」

 ハルは、美世の靴を掴もうと、必死に手を伸ばす。幼児の短い指が、彼女のスリッパに届きそうになる。美世はそれをさらりと避けた上で、厚みのある肉塊を踏みつけた。

「お前が20年も生きながらえずに死ぬことを願っているわ」

 美世は冷たく言い捨て、ハルをその場に残して去っていく。
 ハルは、遠ざかる背中を見つめながら、なにも理解できていない頭で「に、じゅ」という言葉を繰り返した。それが自分には決して辿り着けない、高い壁の向こう側にある何かのように思えて、ハルはただ、むちむちの身体を丸めて、んー、んー、と小さく鳴き続けた。
 午後三時。
 二十年という歴史を持つ銀のスプーンは美世の手によって厳重に片付けられ、部屋には、自分の靴下すら脱げない無力な幼児の、つたない泣き声だけが虚しく響いていた。



#20歳
26.1.10

1/10/2026, 2:53:26 PM