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 陽光が白いタイルを焼き、眩しさに満ちた昼下がり。美世はテラスの椅子に深く腰掛け、手元の書物に視線を落としていた。その美しい横顔は、周囲の穏やかな空気から切り離されたかのように真剣だ。足元でうごめく幼い存在など、最初から存在しないかのように、彼女の瞳は活字だけを追っている。
 そのすぐ近く。ハルは、ぽてぽて、と頼りない足取りでタイルを歩いていた。重心が安定しない幼児特有の歩き方。短い足が交互に繰り出されるたび、もちもちとした太ももが小さく揺れる。ハルは、てく、と一歩進んでは、ふらり、と身体を揺らし、んしょんしょ、と声を漏らして体勢を立て直した。
 ハルの視線の先には、庭園に咲き乱れる花々があった。赤、黄色、紫、白。陽光を浴びて輝くそれらは、ハルにとって強烈な色彩の塊である。
 ハルは、てちてち、と花壇の縁まで歩み寄り、ぺちっ、と小さな手を石の縁についた。指先はぷにぷにと柔らかく、関節の場所には小さなくぼみがある。ハルは、ぽわん、と半開きの目をさらに細め、目の前の鮮やかな景色を見つめる。

「ん……あか。……きいろ、あお、も。……きれ、ぇー」

 ハルは知っている色の名前を一文字ずつ確かめるように呟く。
 『きれい』。その言葉すら、吐息とともに消えてしまいそうなほどにたどたどしい。ハルにとって、目の前の景色は「いろ」がたくさんある、不思議で特別な場所だった。
「ん、ふーっ」
 ハルは鼻を鳴らしながら、花壇に手を伸ばす。しかし、1歳の幼児にとって、狙った場所へ正確に指を伸ばすのは容易ではない。指先は何度も何度も空を切り、ふらっと上半身が前に傾く。

「あわ、あわ……わわ」

 と、両手を回してバランスを取り、なんとか転倒を免れる。
 ハルは、ぽやんとした表情のまま、足元に落ちていた花びらを見つけた。それは風に吹かれて集まった、さまざまな色の重なりだった。ハルは、んしょっと腰を下ろす。おむつの膨らみでぽんっと丸くなったお尻が、ぺたりとタイルに吸い付く。そのお腹がぽっこりと突き出たシルエットが、逆光の中に浮かび上がる。
 ハルは不器用な手つきで花びらを拾おうとする。人差し指と親指でつまもうとして、肉厚の指先がもちもちしすぎているせいで、掠りもしない。

「ぁ……に、げ……め!」

 何度も、しゅるっと指の間から逃げていく。上手くいかないことに、不機嫌にむっとしながらも諦めず、さらに鼻息を荒くして挑戦し続ける。

「ふん……すっ、むぷー……んん」

 ようやく掴んだ数枚の花びらを、ハルは大事そうにお餅みたいなてのひらに乗せた。そして、ぴょこっと顔を上げ、テラスに座る美世を見る。

「せんせ……あ、て。……いろ。……いろ、いっぱい」

 ハルは、よたよたっと立ち上がる。むちむちした膝を震わせ、じりじりと美世の方へ歩き出した。まあるいてのひらの上の花びらを落とさないように、関節がほとんど無いも同然の肘を曲げて固定しているため、その動きはますますぎこちない。ぴょてっと足がもつれそうになるたび、ハルの顔に緊張が走る。

「ぴょ、ぴょ……ぽす、ぽ、す」

 美世の影の内、あと一歩というところでハルは立ち止まった。きゅうっと喉を鳴らしてほんのわずかに笑う。珍しく細められた目が、にへらっと不器用に光る。

「せんせ。……これ、いろ。……きれー、なの。……みる、して」

 ハルは、ぷにぷにのてのひらを美世に差し出した。そこには、赤や紫、黄色の破片が混ざり合い、鮮やかなコントラストを描いている。ハルが知る限りの、最高の「いろ」の集まりだ。
 しかし、美世はページをめくる手を止めない。視線すら落とさず、ただ冷ややかに、そこに存在し続ける。ハルの差し出した手も、必死に紡いだ言葉も、すべてが無機質な壁に跳ね返される。美世はハルがすぐそばで花びらを差し出していることを完全に把握しているが、それを一顧だにしないことで、ハルの存在を否定し続けていた。

「ん……ぅ?」

 ハルは、むちむちと何重にも線の入った首を傾げた。数秒の間を置いてから、もう一度声を出す。聞こえなかったのだと、勘違いしたようだ。

「せんせ、みて。……あか、も……き、ーろ、も……ある。……せんせ……あげる、した」

 美世の周囲の空気は、少しの変化もなく凍りついたままだ。ハルがどんなに慕わしげな視線を向けても、甘えてみせても、可愛子ぶっても。その拒絶が揺らぐことはない。ページをめくる、かさり、という音だけが、ハルの言葉を遮るように響く。
 無視され続ける時間が長くなるにつれ、ハルの表情からにこにこ笑顔が消えていく。ぽわっ、としていた目は不安げに揺れ始め、うるうると湿り気を帯びていく。大好きな「せんせい」の視界に自分が入っていないという事実は、ハルにとって受け入れられないものだった。

「ん……んぅ……。ね、ね……せんせ……? はる、ここ。……ここ、いる。……みる、して、ね……っ?」

 ハルは、びくっと身体を震わせた。美世は徹底してハルを無視し、読書を続けている。その冷徹な横顔には、ハルの焦燥や悲しみに対する関心など微塵も存在しない。
 差し出していた腕が、ぷるぷると震えだす。てのひらの上の花びらが、はらりとタイルにこぼれ落ちた。色とりどりの輝きが無慈悲な白さの上に散らばっていく。
 ハルはそれに気づく様子もなく、ただひたすらに、一向に自分を見ない美世の瞳を追い求めている。

「んっ、ふぇ……ぇ、ぐっ、ぁ……」

 そのストレスでハルの呼吸は乱れ、過呼吸に近くなっていた。泣き出すのを堪えるように、むちむちした手を握りしめる。美世に触れることは許されない。これ以上しつこく話しかければ、もっと無視される。わかっているのに、やめるという理性は働かない。
 美世は本を読み終えたのか、静かに本を閉じた。そして、足元で震えるハルに視線を向けることすらなく、ゆっくりと立ち上がり、歩き出す。
 そして、その冷たく磨かれた革靴の底が、タイルに散らばったばかりの鮮やかな色彩の上に、何のためらいもなく下ろされる。
 ──ぐしゃり。
 微かな、乾いた音が響いた。薄く繊細な花びらは、硬い靴底とタイルの間で無惨にすり潰され、原形をとどめないほど散り散りになる。ハルが集めた鮮やかな「いろ」は、一瞬にして、ただの汚れたシミへと変わった。
 ハルの動きが、ぴたっと止まった。ぽやり、としていた目が大きく見開かれ、みるみるうちに涙が溢れ出していく。大好きな「せんせい」が、自分の一番大切なものを、まるで道端のゴミのように踏み潰した。その事実がハルの小さな胸に耐え難い衝撃を与える。
 一方、美世は足裏の感触など気にも留めず、そのまま優雅な足取りでテラスを去ろうと足を進めた。ハルの存在も、ハルが集めた宝物も、彼女にとっては認識する価値すらない塵芥に過ぎない。完璧な無視。
 ハルは、呆然と涙を流しながら、自分の足元を見た。

「ぁ……あ……っ」

 ハルは、ひっ、と喉を鳴らしてしゃくり上げた。ひっくひっく、と引き攣れた声と同時に、ぽたぽたと大粒の涙が落ちる。立て続けに流れる涙が、無惨に潰された残骸を濡らす。
 そしてハルは唐突に、無我夢中で美世の行く手を遮ろうと走り出した。よろよろ、と立ち上がり、おむつで膨らんだお尻を左右に揺らしながら、不器用で転びそうな走りで美世の前に躍り出る。短い足を一生懸命に動かし、てちてちと必死に足元へ縋り付こうとする。

「うっ、やっ! ……やーっ! ……はるの……いろ、さん……! ……せんせ、い、やーっっ!」

 ハルは、太い両腕をぶんぶんと振り回し、顔を真っ赤にして抗議の声を上げた。普段のぼんやりした様子は消え、激しい感情の昂ぶりに身体を震わせる。もちもちとした頬は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、ひっ、ひっ、と短い悲鳴のような呼吸を繰り返す。
 ぐしゃり、と音を立てて潰された花びらの残骸。それはハルにとって、大好きな美世に見せたかった、この世で一番綺麗なものだった。

「ぅ、あーっ……! ……せんせ、や。……き、らいっ! だい、き……らいっ!!」

 ハルは、真っ赤な顔をして叫んだ。むちむちとした小さな拳を握りしめ、地面を、ばんばんと叩く。自分の一番大切なものを平気で踏みつけた美世に対し、ハルの胸の奥から、経験したことのないような熱いなにかが込み上げてくる。
 その声が聞こえているだろうに、美世は立ち止まらない。目の前に立ちはだかるハルを、道に転がっている石ころか何かのように、冷たく淡々と避けて歩みを進める。ハルの小さな抵抗など、彼女の歩みを一歩たりとも止めさせる理由にはなり得ない。
 ハルにとって、「きらい」は絶望を意味する言葉だ。美世にそんな言葉を言われたら、真っ暗闇に取り残されたときと同じほどに、世界が粉々になる。でも、その言葉も、美世には全く影響がなかった。それがハルをさらに追い詰めた。

「ううーっ! ……はる、……おこ、た! ……せんせ、いじ、わる……っ!」

 ハルは、だんっと膝をつきながらも、去りゆく美世の裾を掴もうとぷにぷにの手を伸ばした。しかし、美世は汚いものを避けるように、鋭く一歩退いてそれを回避する。ハルの手は虚しく空を切り、勢い余って、どてんっとタイルに転がった。
 ぽっこりと出たお腹が地面に打ち付けられ、ハルは、だんっと鈍い音を立てて倒れ込む。

「ん……ぁ……、あうぅぅ……っ!!」

 ハルは、顔を地面に伏せたまま、激しく泣きじゃくった。むちむちとした手足でタイルを叩き、全身で拒絶と悲しみを表現する。普段のぼんやりとしたハルからは想像もつかないほど、その泣き声は大きく、激しく、庭園に響き渡る。
 美世は一度も振り返らない。ハルが地面でのたうち回り、どれほど喉を枯らして叫んでも、彼女の背中には一欠片の慈悲も浮かばなかった。
 ハルは、ぐらぐらと頭を揺らしながら顔を上げ、散り散りになった花びらの残骸を見つめた。潰され、茶色く変色し始めたそれは、もう二度ときれいな色には戻らない。

「あぅ……っ、ん、んやー……っ!!」

 ハルは、自分を置き去りにして遠ざかる美世の背中を濡れた瞳で見つめ続ける。本能的な見捨てられ不安が、ハルの小さな心を激しく締め付けた。どんなに無視されても、宝物を踏みにじられても、ハルは美世しか寿司じゃない。
 ハルは、ぴとりと自分の掌を頬に当ててしゃくり上げながら、去っていった美世の幻を追いかけるようにその場に丸まった。



#色とりどり
26.1.9

1/9/2026, 9:55:34 AM