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 薄暗い昼下がり、室内はしんと静まり返っている。窓の外では、音もなく白い粒が空からこぼれ落ちていた。
 ハルは厚手のカーペットの上に、とてんと座り込み、窓の向こうをぼんやりと眺めている。
 一歳半になるその体躯は、幼児特有のむちむちとした肉付きに溢れていた。おむつの膨らみで丸々と膨らんだお尻、ちぎりパンのように段がついた太もも、そして手首のくびれに埋まった柔らかな肌。白髪の頭を少し傾けると、重たそうな頬の肉がぷにっと垂れ下がった。
 その大きな目は、とろんと半開きで、潤んだ灰色を湛えている。
 空から舞い降りる白い欠片に、ハルの視線はゆっくりと吸い寄せられていた。

「……ん、……しろ……?」

 つぶやきは、空気に溶けるほどにか細い。
 ハルは、短い指先をむにっと動かし、窓の方へと手を伸ばした。しかし、短い腕では遠く及ばない。ハルは、んしょっと声を漏らしながら、四つん這いになって這い進む。
 膝をつくたびに、もちっとした足の肉が床に押し付けられ、きゅっきゅっと可愛らしい音が鳴る。移動のたびに、おむつの重みで腰が左右にふりふりと揺れた。
 ようやく辿り着いた窓辺。ハルはぴとっと、冷たいガラスに小さな手のひらを押し当てた。

「……ゆ、き……? せんせ……ゆき……ふ、てる」

 ハルは期待に満ちた、きゅるんとした瞳で振り返った。
 部屋の奥、アンティークの椅子に腰掛け、優雅に本を捲っているのは美世である。
 美世は、ハルの呼びかけに視線すら向けない。ハルの存在そのものを、部屋に置かれた薄汚れたガラクタか何かのように、徹底して無視している。
 ハルは、美世の反応がないことに少しだけ不安を覚え、眉をしゅんと下げた。
 それでも、外で踊る白銀の世界はあまりに美しく、幼いハルの好奇心を刺激してやまない。ハルは立ち上がろうとして、ぷるぷると短い足を震わせた。

「ん、く……」

 むちむちの足に力を込め、窓枠を掴んでぐいっと体を持ち上げる。不安定な重心が揺れ、転びそうになりながらも、なんとか立ち上がった。
 窓に張り付くようにして、ハルは外を見つめる。

「……きら、きら……。……ゆき、さわる……する」

 ハルは、美世の方をもう一度見た。
 大好きな「せんせい」に、この不思議な白いものを教えてあげたかった。自分ひとりでは届かない、あの冷たそうな輝きを、一緒に見てほしかった。
 ハルは、つたない足取りで美世の方へと歩き出す。
 てち、てち、と。たどたどしい音を立てる。時折、自分の足のもつれに驚いて、とと、とよろけながら、必死に距離を詰めていく。
 美世の足元まであと数十センチというところで、ハルは止まった。
 美世の冷徹な眼差しが、本から外れ、足元の"肉の塊"へと向けられたからだ。

「……せんせ。……ゆき、しろ。……おそと、しろ。……はる……みる、する」

 ハルは、期待に胸を膨らませ、ぼんやりした目をわずかに細めて笑った。その小さな、柔らかそうな手が、美世のスカートの裾に触れようとした、その瞬間。
「触るななと言ったはずよ。汚いわね」
 氷のように冷たく、刃物のように鋭い声が、ハルの動きを凍りつかせた。美世は、汚れ物を見るような蔑みの視線で、ハルを射抜く。

「お前のような汚物と、雪を眺める趣味などないわ。……いい加減離れてくれるかしら。目障りよ」

 ハルの笑顔が、一瞬でびたっと止まった。
 くるりと輝いていた瞳は、見る間に恐怖と悲しみに染まり、うるうると涙を蓄え始める。美世の言葉は短く、慈悲の欠片もない。ハルにとって、それは何よりも恐ろしい拒絶だった。

「ん、あ……ぅ……、せん、せ……。……ごめ、なさ……」

 ハルは、触れようとした手をぎゅっと握りしめ、胸元に引き寄せた。
 触れてはいけない。何度も言われて、理解できても、行動には移せない。ハルにとって、理解することと、受け入れられることは違うのだ。
 ハルの小さな体は、恐怖でがたがたと震え出した。
 先ほどまで美しく見えていた雪も、今はただ、自分を美世から遠ざける冷酷な壁のように感じられた。
 美世は、ハルの絶望など一瞥もせず、再び本に目を落とした。

「雪なんて、ただの凍った水に過ぎないわ。お前と同じ、価値のないゴミよ」

 ハルは、声も出せずに立ち尽くした。
 とろんとしていた目は、今はただ虚空を見つめ、大粒の涙がふるりと、もっちもちの頬を伝って落ちた。
 外では依然として、雪が美しく舞っている。
 暖かな室内で、世界で一番大好きな人の隣にいながら、ハルの心には、外の雪よりも冷たい孤独が静かに積もっていった。

「……は、る……いい、こ……する、の。せん、せ……」

 消え入るようなハルの独り言に応える者は、誰もいない。美世に冷たく突き放された瞬間に、ハルの幼い世界は音を立てて崩れ去っていた。

「……あ、ぅ……ん……ふぇ……」

 ハルのぽやっとした大きな瞳が、みるみるうちに潤み、溜まった涙が限界を超えて決壊する。
 一歳半の幼児にとって、大好きな「せんせい」からの拒絶は、世界の終わりも同義だった。ぼろぼろと大粒の涙が、もっちりした桃色の頬を伝い、床へと滴り落ちていく。

「……あ……ぅ、……あぁぁぁ……っ……ん……んんーっ!」

 一度溢れ出した感情は、もう止まらない。ハルは顔を真っ赤に上気させ、ひっく、ひっくと短い呼吸を繰り返しながら激しく泣きじゃくった。
 幼い子ども特有の、ふっくらと丸いお腹が、泣き声に合わせて波打つように上下する。ちぎりパンのように段がついた手足は、やり場のない悲しみに震え、ぷるぷると小刻みに揺れていた。
 ハルはその場に力なく、とてんと座り込んだ。
 おむつで丸く膨らんだお尻が床を叩き、むにっとした太もものが左右に広がる。ハルは短い腕を顔に押し当て、溢れる涙と鼻水を拭おうとしたが、不器用な手付きでは顔中をぐちゃぐちゃに汚すだけだった。

「……せ、んせ……ん……あぁっ、うぅ……っ。……や、ぁっ、なの……や……っ」

 泣き声は次第に、言葉にならない叫びへと変わっていく。
 ハルは必死に美世の気を引こうと、あるいは許しを乞おうと、その潤んだ瞳を美世へと向けた。しかし、視界は涙で遮られ、大好きな人の姿は白くぼやけて見えない。
 窓の外では、依然として雪がしんしんと降り積もっている。その白さは残酷なほどに清らかで、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったハルの醜態を、いっそう際立たせていた。
 一方、ハルがどれほど激しく泣き叫ぼうとも、美世はぴくりとも動かない。彼女の視線は手元の本に注がれたままで、ページを捲る指先には一切の迷いも、動揺もない。
 ハルの叫びは美世にとっては不快な雑音ですらなく、ただの無価値な現象に過ぎなかった。
 視界の端で、白い肉塊が泣き崩れ、床を汚している。その事実が、美世の嫌悪をいっそう深いものにする。彼女はハルの泣き声に重なるように、ただ冷ややかに、心の内でその存在を否定していた。

「……ん、はぅ……ぅ……せん……せ、……みる、して……。……あ、ぅ……」

 ハルは、這うようにして美世の足元へ近づこうとした。
 むちむちの膝を床に擦り付け、必死に手を伸ばす。しかし、美世に触れればどうなるか、辛うじて残っているつたない記憶が、ハルの動きを躊躇わせる。
 美世はハルが自分の衣服に触れる寸前、汚らわしいものを避けるようにすっと足を引いた。
 その徹底した拒絶に、ハルはさらなる絶望を味わうだけだ。

「……あ……ぁぁ……う……あぁぁん!」

 ハルは顔を床に伏せ、今度こそ大きな声をあげて泣いた。
 とろんと半開きだった目は、今は涙で真っ赤に腫れ上がり、ぎゅっと閉じられている。泣き疲れて、体力が削られていく。それでも、幼児の激しい感情は収まるどころか、行き場を失ってハルの小さな体の中に積もっていくが、変わらず部屋の中にはハルの泣き声だけが響き渡っている。
 美世は一切の声をかけず、慰めの手を差し伸べることもない。彼女にとってハルは嫌悪の対象であり、あるいはただの「玩具」でしかない。同等の一人の人間として扱うつもりなど、毛頭なかった。
 ハルは、泣きすぎて熱くなった頬を、冷たい床にぴたっと押し付けた。床の冷たさが、外の雪を連想させる。
 さっきまで「きらきら」と喜んでいた雪は、今はもう、自分を凍りつかせる恐ろしいものにしか思えなかった。

「……せん、せ……。……ん、ぅ……ごめ、なさ……」

 しゃくり上げながら、ハルは何度も、何度も謝罪を口にする。
 何に対しての謝罪なのか、自分でも分かっていない。ただ、美世が怒っていること、自分が嫌われていること、それだけがハルの全てだった。

「……なんの謝罪なのかしら。うるさいから黙ってくれない?」

 美世は吐き捨てるように、冷たく言い放つ。ハルに向かって放った言葉というより、うんざりとしたひとりごとのようだった。
 ハルの幼児らしい、丸みを帯びた背中は、泣き声を抑えようとしているせいで、ひきつけを起こしたようにぴくりと上下し続ける。
 美世の冷徹な沈黙と、ハルの絶望的な泣き声。
二人の間には、窓の外に積もる雪よりも深く、決して埋まることのない断絶が横たわっていた。

 どれくらい経ったのか。美世は、ようやく一区切りついた本を静かに閉じる。
 パタン、という乾いた音が、ハルの泣き声を一瞬だけ遮る。ハルは期待を込めて、びしょびしょの顔を上げた。
 しかし、美世はハルを一瞥だにせず、ただ優雅に立ち上がると、部屋を出て行こうとした。
 ハルは、去りゆく背中を追いかけようとしたが、痺れた足が動かない。

「……ん、あ……っ、まつ……し、て……、……せ、んせ……っ」

 力なく伸ばされたハルの手のひらは、不器用な形をして虚空を掴む。美世の衣擦れの音だけが、ハルの耳に残った。
後に残されたのは、薄暗い部屋と、降り続く雪、そして独り泣き続ける、無力な幼児の姿だけだった。
 振り絞るようなハルの声に応える者は、誰もいない。
 ただ、昼下がりの静寂と、窓の外の白銀だけが、幼児の絶望を静かに見守っていた。



26.1.7
#雪

1/7/2026, 2:35:12 PM