『愛を注いで』
机上に放ったキャラメルは溶けてしまった。
先から喧しい耳鳴りの奥、遠い場所で汽笛が鳴いている。あれはきっと愛の唄だと。筋張った手で頭を撫でたあの人はいない。
父さん。とうさん。泣いて縋ることも許さなかった。許されていなかった。
長い休みの僅かな隙間。鉄の小箱でゴトゴト揺られ、遠いとおい町の外れのボロ屋まで会いに来てくれた人はもういない。
花畑
まるで、空の上にいるようだと思った。
「お前にも見せてやりたいなぁ」
花を揺らす風に紛れて懐かしい声が聞こえた気がして辺りを見回せど、当然ながら姿はない。そもそもその姿すら曖昧な記憶の中に佇んでいるだけで、はっきりと思い出すのは彼が書いて寄越す手紙の几帳面な文字だった。
空の上は、それはそれは綺麗な青色で。海の中にいるようでもあって不思議な心持ちになるのだと、それを私達にも見せてやりたいと、兄は何度も葉書に綴っていた。
「──どう? おばあちゃん」
「そうねぇ。とても綺麗だわ」
隣に並ぶ孫が教えてくれたネモフィラ畑は。見渡す限りを青に塗られた世界は。どうしてだか歪んで見えた。
雨に佇む
真っ直ぐに。いつも真っ直ぐに伸びていた背筋は今、萎びた草のように曲がり。俯いた顔はきっと、普段の凛とした貴方の面影もないくらいに悲壮を映しているのでしょう。
そうして幽鬼のような足取りで私の前までやって来る。
3年前からずっと変わらない。否、段々と貴方は此方側に近付いている。まるでそれが唯一の希望のように。
嗚呼。もし、まだ私に身体が残っていたならば。もし、貴方と言葉を交わせたのならば。貴方を止めることが出来たのかもしれない。別の希望を示せたのかもしれない。
けれどもそれは叶わない。
死者の私に許されているのは、ただひとつ。
傘もささずやって来る貴方を迎え、悲嘆に暮れるその姿を見ていること。それだけ。
向かい合わせ
どうして私達は分かれてしまったのでしょうね。
額を合わせた片割れが痛みを堪えるように言葉を紡ぐ。
どこまでも、どこまでも同じ姿形であるのに。
心の持ちようも、肉に隠れて見えないものまでもが全て。寸分違わず同じであるのに。どうして分かれてしまったのでしょうね。
まるで、そのことが最大の過ちであるかのように。絡めた指を震わせて、罰に怯える罪人のような声で音を紡ぐ。
「──ほんとうに。なぜでしょうね」
同じように震わせた声に、閉ざされていた瞼がひらく。
真っ青な瞳。海を思わせるそれに映るもうひとりを見返して、私は憂いを乗せて囁いた。
「かみさまはいじわるだわ」
あなたといっしょなんてまっぴらよ。
鏡
翡翠を嵌めた瞳。月光を閉じ込めた髪。陶器さながらの滑らかな肌。硝子細工に似た指。
父様の最愛をそっくり写したそれは今や、無惨にも罅割れ、光のない虚ろな顔で私を見つめている。
「可哀想」
割れた肌に指を這わせた私の呟きは誰にも拾われない。
あなたが。あなたが悪いのよ。あなたが私の父様を奪ったのだから。
最後に聞いたのは、憎しみに満ちた声だった。
可哀想な私の姉。最初に父様に愛された子。貴女を想って創られた私を妬み、狂って死んだ憐れな娘。
けれど、その死を他人は知らない。彼女を一番に愛した父様ですら。
「人形に成り代わられた気分は如何?」
割れた鏡の奥。映った私は微笑っていた。