》永遠に
泣くことは悪いことではないのだと、昔むかしに出会ったひとは言っていた。
悲しい時に流す涙は心の整理をしてくれるのだと、優しい顔で教えてくれたことを覚えている。
重くて苦しい感情を包んで外に出すことで、傷付いた心を癒やしてくれるのだとも。
だから私は今、泣くまいとしている。
心中が乱雑に散らばったままで良い。深く、深く傷付いたままで良い。泣いて終わりにはしたくない。忘れたく、ない。
この傷は、この思い出は、このままずっと持っていたいのだ。
》時間よ止まれ
ああ腹が立つ!
こんなことってないわ。屈辱も屈辱よ。
一体誰が濡れ雑巾なんかを廊下に置いていたのかしら。理由があろうが無かろうが関係ないわ。誰が通るかも分かりゃしないのに、不用心にもほどがある。
何処の誰かも分からない無頓着な当番のせいでアタシったら、とんだ恥をかいたじゃない!
集会帰りの群れの中。アタシだけが気付かずに踏んづけてすっ転んだものだから、今じゃすっかり笑われ者よ。
ああもう本当に腹立たしいったら。
もしも時間を止められたならアタシ、あの場の一人ひとりを丁寧に殴って、記憶を飛ばしてやるんだから!
》胸の鼓動
「わたくしね、怖いのよ」
出会い頭に飛び込んだ私の腕の中で、真っ黒な瞳を潤ませて彼女は言った。
何が怖いのかと問うた私を前に、黒真珠のような大きな瞳をさらに揺らめかせ、紅を差すまでもなく赤い唇が紡ぐ。
「わたくしね、知ってしまったの。だから怖いの。とっても怖いのよ。あなたが渡してくださった紙の束。そう、本に書いてあったわ。今は規則正しく鳴っているあなたの音だって、いつかには小さくなって止まってしまうのでしょう?」
それを思うとわたくし、もう恐ろしくなってしまって。
ひとりぼっちは嫌だと言った彼女は、その瞳にも負けないほどの大きな涙の粒をこぼして縋る。精一杯に踵を上げて近付いた距離で、小さな彼女はわたしに願った。
「ねぇ、ねぇ。約束して。いつかあなたの音が、この胸の音が止まってしまう日が来たならば」
わたくしを先に殺して頂戴ね。
囁かれた懇願。弾かれたように顔を上げたわたしの眼に映るのは、蠱惑に歪んだ瞳。
執着とも呼べるその心を前にして、わたしの鼓動が変に跳ねた。
》神様が舞い降りてきて、こう言った
ごめんね、やっぱり駄目だったみたい。
そう言ったあのひとは、立ち尽くすだけの私の頭を優しく撫でて地に落ちた。足元で骸となったひとはもう、何の言葉も与えてはくれない。
あのひとは誰よりも優しく、何よりも美しいひとだった。争いを厭い、悲しみに寄り添うひとだった。
もし、この世界に神様とやらがいるのなら、それはこのひとのようなものなのだと、誰もが思うようなひとだった。
だから人は、あのひとを神にした。
献身を利用し、人を神として本物に刃を向けた。
──その結果がこれだ。
雷に灼かれた大地に音はない。あのひとが愛した世界は、こうも愚かであったのかと嗤ってしまう。
嗚呼もうじき私を迎えに奴らが来る。使いどもの羽音は喧しくていけない。
もう少し静かにせよと天を仰いだ時、こちらを見下ろす作り物めいた顔が微笑んで、真白の腕が差し伸べられた。
「帰りましょう。私の愛しい子」
『君と出逢って』
知らなくても良かったことを、たくさん知った。
煙草の苦さや、お酒の熱さ。夜遊びの愉しさと、若さ故の不自由と。ふたり分け合った秘密の甘さと。
知らなくても生きていけたことを、教えてもらった。
知らなかったら良かったことを、知ってしまった。
恋の苦しさと、頬の熱さ。片思いの楽しさと、若さ故の過ちと。ひとりぼっちの寂しさと。
知りたくなかったことを、知ってしまったんだ。