夜の海
「ここは夜でも静かだね」
空に浮かぶ月を眺めてそう言った貴方は山のほうの出だというから、此処の賑やかさを知らないのでしょう。
目を閉じ、耳を澄ませば聞こえる、岩に当たって砕ける波の音。浜に残された泡の割れる音。遠い海の底で唄う船の声。嵐の訪れを告げる魚の囁き。
それから、砂を踏んでやってくる彼の足音。
これから交わされる私達の会話も、行われる秘め事も。
すべてこの賑やかさの中に消えてしまうのを、貴方はきっと知ることはないのでしょう。
上手くいかなくったっていい
おやおや、どうしたんですか。今にも死にそうな顔をして。いつになく真面目に此の世を嘆いているじゃあありませんか。
ははあ、さては何かありましたね。「何かとはなんだ」と? それは分かりませんよ。この私であっても、此の世の全てを知るなんて不可能ですからね。
とはいえ貴方のことですから。己の不甲斐なさに思うことがあったんでしょうねぇ。本当に面倒……いえ。馬鹿真面目だこと。ああ、これ褒め言葉ですからね。
まぁまぁ。どうしたって思うようにいかない時がありますよ。神たる私ですら、貴方の全てを知りません。人である貴方なら、尚更でしょう。
不安に思うこともあるでしょう。怒りを覚えることもあるでしょう。けれど、ね。
もう少し肩の力を抜いてみてはいかがです。そのうちなんとかなりますよ。貴方たちを長く見てきた私が言うのだから信じてみなさい。
さぁ、ほら。今はただ、ゆっくりおやすみなさいな。
優しくしないで
わたしはあなたがきらい。
その顔も仕草も態度も声も何もかもがきらい。
あなたはわたしを好いていると言うけれど、あなたの好きは重さのないものなんでしょう。
あなたの好きと、私の好きでは重さが違うのよ。
聖人だなんだと言われるあなたには、きっと理解ができないわ。俗物のわたしの言葉なんて、きっと。
分かったのなら、早くわたしの前から立ち去って。慰めなんていらないの。涙を拭ってほしくもないの。抱きしめてほしくも、ないのよ。
わたしはあなたがきらいなんだもの。
楽園
空に浮かんだ庭園には、それはそれは美しいひとが暮らしていたらしい。
長く透き通った髪を風に遊ばせて、小鳥も恥じ入るほど澄んだ声で自由気儘に歌い暮らすその日々は、大地から離れられない人間にとって天上の理想そのものだったのだとか。
「けれども、ねぇ。それならなぜ、そのひとは翼を棄ててしまったの?」
私なら、ずっとそこにいたでしょうに。
窓辺から空を見上げて呟いた少女へ、語り部は淡く微笑んだ。
「退屈だったからさ」
刹那
瞬きのひとつも許さぬと、疵を遺して君は逝く