「お気に入り」登録をして頂いている皆様、日頃は私の拙い話を見ていただき誠にありがとうございます。
多忙の折、なかなか執筆出来ていません。仕事で目を酷使していることが要因か、目も霞んでおり非常に難儀していまして、更新頻度が一時的に下がってしまうかもしれません。お楽しみいただいて下さいます方には、申し訳の次第もございません。短文であれば執筆できるのですが、私には短文でお話を構成することに寂しさを感じておりまして、毎度の長文は意図してのもので御座いますことをお伝え致します。短く話を要約して文章を書くことは、もちろん出来るのですが文章力を養うという目的でこのアプリを使用させていただいておりますので、敢えて短文での構成を避けております。
また、4月からは転職などの生活の変化も重なることから、新しいお話を執筆するということがなかなかに難しくなってしまう可能性があることについても併せてお伝えさせて頂きたく存じます。とはいえ、まったく更新をしない訳でもアプリの利用を停止するつもりは御座いません。ぜひ、今後とも楽しみにしていただいて、楽しく読んでいただけましたら幸いで御座います。軽い気持ちで利用を開始した本アプリでございますが、気がつけばたくさんの方が「お気に入り」に登録して下さいましたことで、いつも新しい話を書くということが楽しみになっております。もちろん皆様に置かれましては、それぞれにお思いのこともあるかと存じます。しかしながら、こうして私が書いている稚拙な文章に目を通していただいて「また読みたい」と思って頂いていると自惚れるだけでやる気が漲るのです。どうぞ生暖かい目で見守って頂き、応援していただけますと有難く存じます。
これまでの話では私の人生で経験してきたことなどをもとにしていますが、4月からは国家資格取得などを目指して勉学にも励んで参りますので、よりスパイスの効いた話を書けるのではと考えております。こうして経験や体験したことなどを文章に起こすことで、改めてその時のことを振り返ることが出来ます。当時に立ち返って見ることで、今更ながら新たな発見をすることが出来ます。あの時分の考えや思いも、今ならば違う角度から考察することが出来る、とても有意義な事だと思います。自分自身のことを思い出しては文字に起こし、改めて反省をしたり後悔をして素直な気持ちで自己研鑽を積むことができる。そうも考えて活動をしています。
さて目の疲労の為に執筆が滞っている旨を謝罪させて頂きましたのに、いつまでも駄文を綴っておりますのは、今になって目が慣れてきたからで御座います。「何かと思って読んでいれば、結局いつもと同じで長ったらしい文章ではないか」とお思いのこととは存じますが、私も全く同じ気持で御座います。短いご挨拶で終えるつもりで降りましたが、目が慣れてきてしまったもので頭がフル回転をはじめました。私の中のやる気スイッチが押下されたように、頭の中に文字にしたい気持ちや言葉というものが、目まぐるしく流れていくので御座います。仕事から帰ってきて真っ先にお酒を飲むことが私の楽しみであり疲労からの逃避で御座いますが、こうして執筆モードに突入してしまえば、むしろこちらが何よりもの逃避術。私は小学生の頃から作文などといった、自分の思いや考えを文字にすることが何よりも得意で御座いましたが、これを具体的に説明するととても複雑になってしまいます。今、こうして文字を綴っておりますのも会話をするのと全く同じ状態であり、難しいことを考えず文章が出来上がっていくのです。私の書いた話は、概ね二千字ほどから構成されておりますが執筆時間は凡そ20~30分程。何故こうも時間がかかっているのか、それはこのアプリでは長文を書いておりますと動作が重くなるのです。そのために一字あたりの処理速度が低下して、入力に対する反応が鈍くなることで全体的な作業時間が増えてくるのです。これを回避するために一度、投稿をして保存をして再度編集をするといった非常に手間のかかることをしております。
私がこのアプリで長文を書く際の手間暇について触れましたが、これはなにも不便な事ではなく仕方の無いことであると考えております。先日の投稿では、保存はされるが正しく反映されないという不具合もありました。開発者様は、このような長文を想定しておられなかった可能性も御座いまして、これは私の都合が要因のものと思われます。投稿(保存)をしては編集を繰り返していますと、アプリの動作も不安定になってしまいます。「メモ」を目的としたアプリなどで下書きをと考えたこともありますが、段落や改行の処理を後から行うというのは骨が折れます。下書きについては諦め、こちらでアプリとスマホに負担をかけながら話を書くことに集中することに。しかし、重い。実に重いのです。文字を入力すればするほどにどんどん挙動が不安定になっていく。その為、誤字や脱字については確認を行っておりますが、私の見落としが散見されるかもしれません。
さて、今の思いを駄文にてぶつけさせて頂いたが、これも私にとっての「現実逃避」の術のひとつ。会話好きの私には打って付けであるといえる。こうして意図して長い文章を書くことで、他の余計な気持ちや考えが遮断されるのだ。公私のストレスや悩み事など、実に小さくどうでも良いことなのだと実感する。故に、私はまたこうして文字を書き連ねていく。
今回は導入や話し方について、変化をつけたがこれも実に有意義であった。普段はしないやり方というものに、敢えて挑戦することでさらなる発展が期待できる。実際、私は今後の文章について課題を見つけることが出来た。この課題をどのように処理をしていくのか、酒を楽しみながら考えるとしよう。
子供の頃というのは、男の子は特にそうだが色々な昆虫を手に取り、観察をしたり遊んだりしたのではないだろうか。かく言う私もその一人だ。家の周りや活動範囲内というのは、木々が生い茂り草花が鮮やかに世界を彩っていた。そんな環境で学校帰りや、休日には親に怒られるまで昆虫を追いかけて遊んでいた。ここまでなら可愛い子供をイメージするだろうが、私は違った。ダンゴムシを見つければ焚き火の中に放り込んでみたり、セミを見つければおもちゃの小さな箱の中に押し込んで土に埋めたりした。ダンゴムシを窓のサッシに設置して、そこにチョロQを走らせたりもした。蟻を見つけては蜂蜜やオリゴ糖をかけて反応を面白がったり、モンシロチョウを見つければ片っ端から木の枝で叩き落として土に埋めた。
好奇心や探究心の塊だった私に、いきものの命などという考えはまるでなかった。否、自覚をしていたかったというべきだろうか。近所のケーキ屋の軒先に地域猫用の餌が置かれていたのを見た私は、洗剤を混ぜたり適当なものを混ぜ込んだりした。そこに悪意や殺意、傷つけようなどという考えも気持ちも、想像すらなかった。ただひたすらに思うままに動いていた。家の前を流れる穏やかな川に降りて水生昆虫を探したり、探検をした。丸太が流れ着いているのを見かけたのは、大雨の次の日だった。雨が降ると恐ろしくなるようなうねりを上げて、茶色い濁流となって轟音を響かせる川に自然の怖さを感じたものだ。丸太を観察してみたくて川に降りたが、この時は当時仲のよかった友達と一緒だった。彼と共に、丸太の近くに堆積していた石を避ける。丸太の片方を持ち上げると猫がいた。生きていたのか、既に無くなっていたのか分からない。分からないのは、私がその丸太を何度も猫の上に落としたからだ。息があるのかどうかも確認もしないままに、興味だけでそんなことをしたあとで考えてしまった。私が殺めたのか、既に息絶えてそこにいたのか。川に流されて尽きたのか、やはり私が普段は使わない頭を全力で回転させたが意味の無い事だった。前後の記憶が曖昧で、よく思い出せない。これは今でも思い出せない。
どの様ないきものも尊い命だ。この世に生きる儚い命だ。いつ尽きるとも知れぬ切ない命。例え悪意がなくとも、殺生は許されない。傷つけること、傷つけようとすること、侵害しようとすることは命を軽んじているということである。この地球上に生まれて、ここの役割を果たすために必死に生きる小さな虫たちにも、私たちと同じだけ重く尊い命がそこにある。人間の生死を目にし、耳にした時ショックを受けるように、そんな小さな命も同じように扱わなければならない。人間というのは存在しているだけで地球環境にとっては、害をなすものでしかない。しかし、虫やというのは環境を維持するためにそれぞれの役割を意図せず果たしている。生きることで環境のために貢献している。動物たちもそうだ。しかし人間というのは文明社会を築くために、あらゆるものを侵害し、身勝手に侵略し侵食してきた。今もまたその真っ只中にある。
人間は、生かされていることを忘れてはならない。植物や虫、動物の存在あって人間という脆弱で傲慢な生き物は生きながらえている。私は、この愚かで矮小な人間の先頭にいる。悔やんでも悔やんでも、悔やみきれない。奪った虫の命やあの日の猫のことを思う、後悔や罪悪感で押しつぶされそうになる。もしもあの時、猫と命を奪っていなかったとしても、その亡骸をぞんざいに扱ったことに違いはない。か弱く儚いいきものの尊厳を踏みにじったことの事実は、たとえ私がどれだけ自責しようと変わらない。私は実に愚かで稚拙な人間だ。
仏教には地獄という考え方がある。私のように弄ぶように命を奪うことを繰り返した人間は、間違いなく地獄に堕ちる。死後、この魂は地獄で自らが犯した罪の重さと愚かさに苛まれ押し潰され続けるのだ。この先、どれだけ善行に励もうがそんなことは関係の無いことだ。たとえ虫のような小さな生き物だろうと、人間と同じたった一つの命なのだ。子供の頃に、自らの行いを恥じ、自覚したときから私は私が殺めてしまった虫たちのことを忘れたことは無い。
小学生の時に大切な友人を病気で失った私は、命の儚さ切なさ、重みをよく分かっていたはずだ。それにもかかわらず人間以外には、とても酷いことをしてきた。なんて醜い人間なんだ私は。この話を読んだ人は私のことを嫌うだろう。私のことを愚かで傲慢で、身勝手で馬鹿な人間だと罵るだろう。しかし、私にはそれだけの原因がある。理由と事実があるのだ。軽蔑してくれたっていい。どのように償っていいのかなど、分かるはずがない。ありえない数の命を奪ったのだ。人にやさしく、親切に接して尽くしたところで何にもならない。いつも思い出しては苦しくなる。辛くなる。
嗚呼、私はなんて馬鹿なのだろう。
私の家族の中には絆や団結力など、血が繋がっている家族が持っているはずのものはなかった。幼い頃から、暴力で物事を解決する長男に殴られて育った。父親のいない家族の中では長子の姉がその役目を担うしかなく、姉は様々な重荷を背負っていた。次男の兄はマイペースだが感情的で、いつも拗ねたり喚いたりやしていた。そんな兄弟を見ていた私は、活発で人になつきやすく好奇心旺盛だがそれでいて至極冷静だった。末子の妹は、幼い頃は甘えん坊だったが男勝りで我の強い内弁慶娘になった。母はというと、若い頃にレディースでやんちゃをしていたりしていたこともあって何かあると怒鳴りあげるような性格だった。叱ることの出来ない親で、感情むき出しで怒鳴り散らしていた。もちろん、普段は優しい。父がいないのは、私が3歳の頃に亡くなったからだ。地元の極道の組員だった父は、カタギに戻ったあとも家族を大事にはしなかった。酒ばかり飲んで、金が尽きれば家のものを質に入れてはまた酒を買った。姉が大切にしていた陶器の貯金箱を壊して、その金でパチンコや競馬にも使った。到底、父とは呼べないような人間だった。それどころか人間としての品格を疑うような、自分勝手でだらしない人間だった。
そんな父は、長男だけはとても可愛がった。だから私たち兄弟には、父との親子らしい思い出などひとつもない。私には1度だけ肩車をしてもらった記憶があるが、あれはきっと気まぐれだったのだろう。家族は誰も父のことを良くは思わない。そして、一人だけ父に大切にされていた長男を家族皆が嫌った。私は人懐こい性格だったため、幼い頃から兄や兄の友達と毎日のように遊んでいた。その中には実の姉のように慕っていた、また実の弟のように可愛がってくれていた人もいた。その人が引っ越して行くことを知った時はとてもショックを受けたが、そんな私を長男は様々な遊びで慰めてくれた。もちろん、兄弟いつも仲良いわけが無く兄と喧嘩した時は殴られたひもした。私も包丁を持ち出して殺してやると暴れたりもした。とはいえ、やはり基本的には長男とは仲良くしていた。
私以外の家族から冷たくあしらわれていた長男は、いつしか非行に走るようになった。否、自分の存在を暴力や危険行為や迷惑行為という形で示したかっただけなのだろう。そうする他、自分自身を見てくれることがないと考えたのだろう。長男は小学生四年生の頃には、授業中に抜け出して学校内で遊び回っていた。学校中で長男のことが噂になり、危険だから関わらないようにしようといった雰囲気が流れていた。ただ、私には心強かった。悪口を言われたり、叩かれたりした時は兄に相談すればすぐに解決した。兄が相手を半殺しにするからだ。もちろん、私はそれが嬉しかったし間違っているとは思わなかった。兄は腫れ物扱いをされるが、私にはヒーローだった。私自身はクラスの中では弟のような立場だったので、普段はみんなから可愛がって貰っていた。
兄成長するにつれて、その行動が派手になっていった。しかし、成長するにつれて兄弟に手を挙げることはなくなった。しかし、小遣いを強請っては煩いと一蹴されては暴れていた。私の家族には、お小遣いなんて贅沢なものはなかった。友達はみんないつも財布をもっていたが、私たちにはそれがなかった。だから、長男の気持ちはよく分かっていた。中学に上がった長男は、女子に暴力を振るったり暴れ回っていたりして生徒指導の先生にボコボコにされることがよくあった。こう書くと、生活指導の先生が暴力野郎のように思うかもしれないが私たちには父のような存在だった。よく家に来ては、お菓子やケーキをくれたり相談に乗ってくれていたからだ。まだ小学生の私にも、中学に来たらよろしく頼むと笑顔を見せてくれていた。
中学を卒業した兄は、高校に通っていたが中退。バイトをしていたがこれも直ぐに辞めてしまった。どこでどのように知り合ったのか、暴走族のメンバーや暴力団に関係のある人間と遊ぶようになっていた。私もよく学校をサボって一緒にカラオケに行ったり、家で遊んだりしていた。皆優しくあたたかかった。きっと長男にとって家族から貰えない温もりや一体感を、彼らといることで得ていたのだろう。母や兄弟は長男のこの行動をよく思わなかった。不良とつるむな! と怒鳴っては長男の話など聞かず、気持ちも考えないで突き放していた。私はこの時には長男の孤独が痛いほどよくわかっていた。長男の抱える寂しさや、心の苦しみ。どれだけ叫んでも誰も耳を傾けてはくれないことへの絶望や苛立ちは、行動や言動を目にすれば明らかだった。不良グループとか変わっていれば、トラブルは付き物だ。リーダーの女に手を出しただのと因縁をつけられて、夜の海浜公園でリンチにされて肋骨を骨折した兄がボロボロで帰ってきた。翌日に病院へ連れていったのだが、その日のうちにいつも遊んでいる不良メンバーが家に来て土下座をして謝罪をしてきた。勘違いだったこと、リンチをして申し訳なく思っていること。今後も遊ばせて欲しいということを謝罪とともに懇願していた。母はこれを拒絶。長男のためではなく、純粋に不良が嫌いだからだ。顔を見せるな!二度と近づくな! と追い出したが、それ以降も長男は彼らと遊んでいたし私も仲良くしていた。
隣町の警察署から家に電話が入ったのは、しばらくしての事だった。物を盗んで通報するで駆けつけた警察から逃げるために、たまたま鍵が着いたままの原付を盗んだのだという。原付は使われていない田んぼに捨てられていたそうだ。家庭裁判所は鑑別所での指導が妥当と判断し、兄は家を去った。家族は皆、兄がいなくなって清々したと口々に胸をなでおろしていた。私にはそれが悲しかった。だから、面会には行かないが手紙は書いたし出所が決まればパーティの用意もした。家に帰ってきた長男は涙を流してありがとうと抱きしめてくれた。保護観察処分もついたので、長男と共に保護士の住職の元へ通った。坐禅をして読経を聞いて、お茶菓子を頂きながら説法を聞いた。こうして兄も穏やかになって行ったが、家族が何も変わらなければ問題は解決しない。結局、家族の態度が長男を硬化させた。
1年後の冬だった。日の出を見てくると言って家を出た長男は、帰ってこなかった。二ヶ月後に朝刊を手にした祖母が家を訪ねてきて、記事の内容を指さした。名前こそ書いては無いものの、長男ではないかと言う。まさかと思っていると、後日警察署から長男を逮捕したと連絡を受けた。拉致誘拐、監禁、暴行、恐喝や強盗で逮捕されたのだという。そして、兄と共に逮捕されたのは私もよく遊んでいたメンバーだった。少年院に送られた兄へ、欠かさず手紙を書いてその日あったことを話し合った。面会には行かなかった。私とは温度差のある家族と面会に行くのが嫌だった。外面のいい家族が嫌いだった。所内でてんかんを発症した長男は医療少年院へ移され、その半年後に家に帰ってきた。帰ってきた兄はグループホームにお世話になるようになって、そこでできた友達のことを楽しく話すようになった。それが嬉しくてたまらなかった。
その後に私は仙台に渡ったので、長男の状況が分からなかった。しかし、3年後に兄から連絡が来た。母から連絡先を教えてもらったと喜んでいた。帰ってきたら遊ぼうと、一緒に酒を飲もうと話した。そして、私は確認をしてみたこれまでの行動やその真意について。やはり、孤独から逃れるためだと言っていた。私がいつも変わらず接していたから、それがいつもいつも嬉しかった。救いだったと言ってくれた。
宮城から帰ってきて何度か顔を合わせたが長男が来る時はいつも出勤前で時間が無く二言三言しか話せなかった。グループホームで知り合った奥さんと、その連れ子を連れてきていた長男は幸せそうだった。だが、母は一方的に縁を切った。疎遠になってしまった長男が、どこでどう暮らしているのか分からない。分からないが、私が彼を想う気持ちはずっと変わらない。
きっと、また私だけでも縁を取り戻して一緒に酒を呑んだり釣りに出かけたりするんだ。
仙台で初めて自分で借りて住んだ部屋は、毎日昼夜問わずラップ音なのか音が鳴り響いていた。壁や天井や床が鳴るなら家鳴りで片付けられたが、カーテンレールから音が鳴ったり窓が大きな音を立てたりとおかしなことが続いていた。
照り返しの厳しいむすような暑さに心身ともに疲弊していた夏の日、仕事が早く片付いたので近所のスーパーで酒と夕飯の材料を買い込んで帰宅。駐車場に車を停めて、共用階段を登り左に折れた廊下を月あたりまで進むと私の部屋だ。鍵を開けて部屋に入るとサウナのように暑苦しい空気が立ち込めているが、二階の角部屋でそれも西に面していることがそれを助長していた。手を洗い、リビング奥のガラスの引き戸を引くとカーテンが揺れていた。窓は閉めておりエアコンもプラグを抜いている。引き戸の為、開け閉めしたところで空気の流れは生じない。この時はきっと外から帰ってきて扉を開け閉めしたことで、空気が動いてカーテンを揺らしたのだと考えた。後日、リビングの引き戸を全開にしたまま仕事に出かけた。帰宅して鍵を開けて扉を開き、引き戸の先に垂れるカーテンが目に入る。揺れていない。試しに玄関扉を開け閉めしてみるが、カーテンは揺れるどころか少しもなびくことは無かった。気持ちの悪さを感じながらも特に気にすることなく過ごしていると、やはりたまに揺れるカーテンを目にする。そして、カーテンレールは誰かに強く叩かれたように音を鳴らす。窓ガラスは小石が当たっているかのような高い音を鳴らし、床は人の歩くような音を鳴らしている。下階の同僚からは自室が変だと呼び出され、駆けつけてみれば意味不明な現象を目の当たりにした。社長と打ち合わせの為、恋人を残して部屋を後にすれば帰宅して目にするのは怯える恋人。私の居ない部屋で、シャワーがひとりでに勢いよく流れだし私の歌声が聞こえると訴える。恋人と電話をしていると、恋人が部屋に持ち込んだヘアアイロンの箱が大きな音を立てて弾き飛んだこともある。人が蹴り飛ばしたような凹みまで出来ていた。
私には幼い頃から人と違うことがあった。それは他の人には見えないものが見えるということだが、幼い頃というのは私には当たり前に自然と見えるものだったので特別意識をしたことは無かった。しかし兄弟に指摘されたことで、他の人には見えないものを見ているのだと知った。成長するにつれて見える頻度や度合いは随分と減ったが、いまでも聞こえたり感じたり頭の中のスクリーンに目には見えないものを見たりすることはある。例えば、兄を助手席に乗せて仕事帰りの帰路を運転していると先の横断歩道を人が歩いているのが見えて還俗をする。すると助手席の兄は何事かと疑問を口にする。歩行者が歩いていたことを伝えると、そもそも周囲に人はいなかったという。おかしいなと考えてみれば、そうか確かに人はいなかったのだ。横断歩道を渡る黒い影のような足しか見えていなかったと思い出す。仕事帰り、夕方も日が沈みかけて暗がりが広がる頃。同じく兄を助手席に乗せて運転をしていると、少し先に煙とも霧とも違う白いモヤが立ち込めていた。速度を落としながらそのモヤの中を進むが、視界が悪い。時間にしてみればほんの数秒だがとても長く感じる。白い空間を抜けて兄にあれはなんだったのかと訊くが、やはり何も無かったという。この体験は過去にもあった。あれは夏も終わりが近づき、夕方から少しずつ過ごしやすい気温になってきた頃だった。件のアパート下階に住む同僚と稲川淳二の怪談ナイトを楽しんだあとの事。仙台で怪談ナイトで涼しくなった後、南相馬に向けて車を走らせていた。南相馬市に入ろうかという辺り、暗闇に包まれた34号線を走っていると100メートル程先の右手に民家が見えた。夜遅いがお風呂を沸かしているのだろうか、家の横手に見える煙突から白い煙が上がっていた。更に湯気なのか煙なのか、家周辺も真っ白い空間が拡がっていた。やけに白いし濃いなと同僚に話しかけてもなんの反応もしない。減速して徐行を始めるが、白いものはずっと広がっているようでなかなか抜け出せない。二十秒ほど徐行しただろうか、後ろから接近していたのであろう車が横をエンジンを唸らせながら走り去る。気がつけば白いものは消えていた。ミラーで後ろを見ても、さっきまで拡がっていた白いそれは忽然と消えていた。同僚に先程のものはなんだったのだろうと尋ねてみるが、そんなものはなかった。私がひとりで変なことを言っているから独り言だと思って無視していたという。今起きていたことを説明すると、気味が悪いから今は忘れようという。この同僚も私と同じく感受性が高いのか人に見えないものを見たりすることがある。そんなふたりでいながら、私には見えて同僚には見えなかったのだから尚更に気味が悪い話だ。次の週末に南相馬での仕事を終えて仙台に向かう際に、あの時に体験したあれはなんだったのか。そこに何があるのか帰りがてら確認をしてみようと二人で話しながら車を走らせていると、二人の記憶通りの場所に到着したが肝心の民家がなかった。民家があったはずの場所は木々が生い茂る林だった。こうなると更に訳が分からないが、謎は深まるばかりで考えるだけ無駄だった。なぜこの二件とも同乗者には見えていなかったのか、そもそもあれはなんだったのか分からない。
仕事場でパチンコやスロットが大好きな職人さんと話をしていると、勝っただの負けただのと毎日一喜一憂しては私に話をしてくれる。そんなある時、いつものように話を聞いていると知らないパチンコ店が頭の中に浮かんだ。そのパチンコ店の場所がどこか分からないが、大手であることは名前で分かった。気になりながらも職人さんの話を聞いていると、今度は入店して行く様子や職人さんがいつも遊んでいるスロット台の椅子に座る様子が主観で見えてきた。気になって訊いてみれば、まさにその店のその席であっていると言っては何故分かるのかとはしゃいでいた。分からないが今見えたのだと言えば、幽霊やらオカルトなんぞは信じないが、目の前でこんなことがあると信じられると目を輝かせている。最近は負けてばかりと話を聞いていたからか、買って欲しいと思っている自分がいたからなのか分からないが続きが見えてきた。それは、どこの何という台で何回転まで遊んでその後にどこの何という台で遊べば当たるというものだ。私自身、俄には信じられないが見えたことをそのまま伝えてみる。疑いもせず、こんなことがあった後だからと喜んでいた。
翌朝、現場で顔を合わせた彼は透視能力ってのは本当にあるんだなと興奮していた。私の言った通りに動いてみれば、その通りの台で回転数で当たったという。それも二十万円ほど勝てた、負けを取り返したと喜んでいた。この話というのは、実はこの不思議な予知能力なのか透視能力なのか分からないが、これが出来なくなるというオチがある。理由は単純なもので、私が欲をかいたからだ。私が言った通りのことをして勝ったなら私にもお小遣いをと欲張ったことから、パタリと見えなくなってしまった。しかし、その後に二度ほど透視のような事を体験したことがある。アプリで青森の方と知り合い、夜な夜な通話をしていた。青森に住んでいる同い年という事しか知らなかったが、その日は色んなことを知ることになった。いつものように通話をしていると、古い民家が見えてきたのだ。二階建ての入母屋造の母屋と、母屋と繋がっている木造のガレージ。恐らく元々は納屋だったのだろうことは、様子を見て分かった。通話をしながらもイメージの中で動いてみると、ガレージの中にあるガラス戸から家の中に入ることが出来た。ガラス戸を入ってすぐ右手に廊下が伸びており、その廊下を歩くと左手に十二畳程の広い和室。その和室に入ると左手に真っ直ぐ二階へ伸びる階段があった。階段を登り切ったところで突き当たりを右に曲がると、扉ではなくカーテンが入口に掛かっていた。カーテンを開けると、通話をしている相手と、何かのキャラクターが散りばめられた黄色いカーテンが見えた。和室のその部屋には大きな布団が一枚敷かれており、黒い猫と白い猫が一匹ずつ寝転んでいた。
今見えたものを話してみると、間違いなく今住んでいる実家だという。不思議なことがあるもんだと驚いていたが、私がそういうものに感が働くと知ったのだろうか相談を持ちかけてきた。聞くと、黄色いカーテンで隠している窓の外にいつも決まった時間に人影が現れるという。何かわからないか、若しくは対処法はないかという。私は感が働くが、所謂霊能者や霊媒師とは違うので適当なことは言えないと断ったが、今も頭の中で見える状況から察するにただの通りすがりの魂だろうと伝えておいた。というのは、窓の外に霊道が走っていたからだ。
私は見えたり聞こえたり感じたりするが、相談した霊能者の先生によればとにかく連れてきやすい体質だという。いつどこで憑依されてもおかしくないのに、一人しか憑依していないのは守護している存在が龍神様であるからだと言う。そして、この龍神様は白龍様でとても慈悲と慈愛に満ちた存在なのだそうだ。一人憑依しているのは、白龍様が引き込んだからだと。自ら命を絶ってしまった後悔や口惜しさ、寂しさや苦しみに苛まれていたところに私が通りかかったので取り憑いたのだそうだ。私についていけば、浄化されて天国に上がれるからという理由で悪さをする気は全くないことから守護に阻まれなかったという。今まで、夜に誰もいないのに耳元で名前を呼ばれたり話しかけられたりしたのも私に取り憑こうとしたものが寄ってきていたからだという。
霊能者に言わせてみれば、私は太陽のような存在なのだそうだ。私の傍にいれば次第に浄化されていくのだという。暖かくてとても穏やかな温もりと優しさを感じるのだという。白龍様の力もあるそうだが、私のエネルギーの強さが白龍様の姿や力を強くしているそうで合わせてまさに拠り所なのだという。加えて私のお人好しというのか、優しすぎる性格故に私を頼ってきてしまうのだという。私に取り憑いた女性の霊もただ浄化されたいだけで、なにか影響を与えるつもりはなくそっとしておけばいいとの事。しかし、いま彼女の気配はどこにもない。彼女の気配があった時は、定期的に陰湿な夢を見ていたがパタリとみていない。いや、それが昨年末頃に夢で見た。いつも夢の中で見ていた建物は真夜中なのだろうかあかりもなく真っ暗で、カビ臭く湿気が酷くジメジメしており床も軋んでいた。それが、昨年末に見た夢では明るくて暖かい空間に変わっていた。サンルームから見える庭には手入れが行き届いていないのか花や雑草が繁茂しており、雲ひとつない空からは暖かな日差しが差し込んでいた。夢の中でいつも見てきた為、一階も二階も間取りは覚えていた。私は明るく不気味さなどなくなったこの家をひたすら探索していたが突然誰かに呼びかけられたような気がして目が覚めた。私は、あの日から私に取り憑いていた彼女が天国に旅立っていったのだと感じている。どうか安らかに眠って欲しい。
どうしようもなく傷ついたり、些細なことで塞ぎ込んだりしたことは誰でも一度や二度あるのではないだろうか。自身に向けられた悪意や、挫折や躓きから気持ちが下向いてしまう。そして、そこに追い打ちをかけるように辛いことが重なり心を苦しめる。私の人生はまさにそうであった。しかし私の周囲には相談を出来る人というのがなかなかいなかったが為に、自分の力だけで乗り越えることしか出来なかった。乗り越えられたのだからいいのだろうが、人の真っ直ぐな善意や協力でもって共に乗り越えてみたかったのだ。気持ちによりそう人間すらいなかったのだから、私の人生とは実に情けのないものだとしみじみと感じる。
友人や知人が方を落とし、目を伏せている時というのはどうしたものかと自分も気持ちが落ち込んでしまう。なんと声をかけると良いのか、なんと励ませば良いのかまるで分からない時がある。もちろん、簡単に声をかけることは誰でも出来るだろうし、今までもそうしているだろう。私もそうだ。しかし、相手が真っ直ぐ気持ちや想いを伝えてくれればいいのだがそうもいかないといというのはあれものだ。相手が深く塞ぎ込んで閉まっているときや、心を抉られるように傷ついているとき。紛らわせることの出来ない苦しみや悲しみに苛まれているとき。なんと言葉にして良いのか分からないあ程に追い詰められているとき。そんな状況では、どれだけ親しい仲であろうと解決することは実に難儀な事だろう。かと言え、何も声をかけない訳にもいかない。これが恋人同士であれば、こうしたことから喧嘩に発展することもあるだろう。なぜ声をかけてくれなかったのか、心配もしてくれないのかなどと責め立てられてしまうこともあるだろう。誰も見な人間だ、そうした時冷静に話し合える人というのはなかなかいない。人というのはむき出しの感情に敏感に反応するからである。そして、恥ずかしながら私もその一人だ。故に、普段は心を無にするように心がけているが、いやなに簡単なことではない。未熟な人間なもので、ついと反応してしまうのだ。
人というのは我儘なもので、放って置かれるとそれはそれで腹が立つが干渉されることも嫌う。人には適度な距離感であるパーソナルスペースがあるように心のパーソナルスペースも存在する。そしてその上で適度な接点というのがある。人の気持ちというのもここに触れるか触れないかというのが実はとても重要で、たとえどのような言葉や気持ちもこの距離のどこからかけられるかで大きく変わってくるものだと考える。人それぞれに心地の良い距離感というのが物理的にも、精神的にも存在している。その距離の遠いところからかけられる言葉というのはまるで響きもしないが、触れられたくないというギリギリのところからかける言葉や伝えた想いはズシンと響く。簡単に言えば人は欲張りなのだ。もちろん、これは本人の無意識の中でのことで、責めるというのは間違いであることは言うまでもない。
例え仲の良い気心知れた人間から情を寄せられようが、見ず知らずの人間から情を寄せられようが人というのはその一時というのはか心が動く。嬉しくなったり、憤慨したりする。自身の情緒を察して、或いは気持ちを汲んで同じ思いで寄り添おうとしてくれる人間は少ないよりは多い方がいい。というのは、誰も見向きもしないよりは一人でも多い方な気持ちの面では有意義だからだ。もちろん、意に反する言葉もあるだろうがこれはとても大事な事だ。いちいち余計なところへ気持ちを向けることができるからである。いつまでも一点に集中し続けると上手くいかなくなるのは、何事も共通している。しかしながら人というのは寄り添われるとありがたくも感じるが、ときに疎ましくも感じるもの。自身の情緒に同調し寄り添おうとされると、それが意にそぐわないということもある。つまりどっちつかずで我儘で勝手なのだ。いやなに、それは何も悪いことではない。大事なのはそういった人間の単純さと面倒な所を意識していけことだ。その上で上手く付き合うことに他ならない。
恋人が機嫌を悪くしている時、なんと声をかけたらいいのだろうと悩んだことはあるのではなかろうか。なぜ機嫌が悪いのだろう、具合が優れないのだろう。これは考えても仕方の無いことだ。何故ならば、恋人であれ家族であれ所詮は他人で、一人の人間なのだ。では、できることはなにか。 簡単な話だ。聞けばいい。まずは聞くのだ。それが自信に向けられた文句や恨み節でもまずは耳を傾け、相手の心情に寄り添うのだ。その上で、自分自身の感情や勝手な気持ちは置いておいて相手の立場になって客観的に考えてみる。そうすることで、なかなか見えないものがみえてくるものだ。
簡単に言えば、人というのは同情されることに良くも悪くも敏感だ。それでいて無関心を貫かれるとへそを曲げるのだ。上手く付き合うには無責任な干渉を避け、寄り添うこと。場合によっては突き放すということがとても大切だ。
私の人生、周囲に情を分かった人は余りいないが
いつもどんな時も寄るも離れるも上手く付き合いをしてくれた大人たちがいた。今思えば、これは彼らなりの同情故の行動だったのだろう。