※お題に関係しない内容です
8年前、仕事で街中のお宅を訪問して調査やヒアリングを行い、それらの情報をもとに指示書や図面を作成する仕事をしておりました。震災に関連した業務であったことから、現地の方より不満の声や罵声を受けることは日常茶飯事で御座いました。私もまだまだ未熟ですし、二十代も半ばと若いこともありましたから浴びせられる言葉に憤慨する日も、悔しさに涙する日も御座いました。
そんな中にあっても、この仕事を続けることは私にとってとても重要な事だったので御座います。これまでに私について話をしてきましたが、やはり自衛官として過ごしたことや、志を持って職務にあたっていたこともありますから、いち民間人として過ごす日々の中でも何かお役に立ちたいという思いは御座いました。誰かの為に何か少しでもお力になれることはないかと考えているときに、このような仕事と縁を持ちました。
一日の達成目標などもございまして、日々精進してより多く のお宅を回り、より多くの声を聞くために同僚と勉強会などをして効率や作業の質の向上に邁進していました。
この仕事は、一種のサンプリングとしての一面も持ち合わせておりましたし、ご近所様同士で情報共をされているお宅では殊更に注意を払って仕事を進めなければなりませんでした。時には行政の担当者様と共に訪問をして、住民様の意向を可能な限り反映できるようにと調整をすることも御座いました。
毎日変わり映えのない単調な仕事ではあるものの、決して簡単なものでは御座いませんでした。調査をする者のなかには、ズボラな者や無責任で遊び感覚な者もおりました。そうした面々と衝突することは多々ありましたが、互いに意見を交換することはありませんでした。私や、ともに勉強会などをして向上をと奮闘するスタッフは、彼らのような適当な者からしてみればいい迷惑でしかなかったのです。私たちが余計な盛り上がりをすれば、彼らの仕事の程度も具合も周囲から見れば悪目立ちしてしまうのです。彼らにとってすれば、私たちはさぞ滑稽で迷惑な者として見えていたのでしょう。
私たちの仕事というのは、調査書類を手に住民様を尋ねて測量や聞き取りを行い、その場で簡単なポンチ絵を書いて写真撮影をする。住民様の希望や要望などを控えて持ち帰り、ポンチ絵を清書して提出。これをもとに行政やJV(共同企業体)が今後の流れや施工方法を決定します。
聞き取りの際、私はできる限り世間話をして住人様の人となりや抱える悩みや問題を聞くようにしておりました。震災後に抱えるストレスも、こうして話を聞いていけば少しは発散できるのではないかと考えていたからこそのことですが、住民様より謝辞を頂くと意味のあることなのだと実感しておりました。
世間話のなかで、ただただ吐き出したい想いや悩み、不満や不安を聞いて寄り添っていくことで今後の暮らしやすさに繋がるのではないかと信じておりました。やはり、訪問時こそ罵詈雑言を受けても静かに話を聞いてみると、怒りを顕にしていた住民様も落ち着いてきます。最後まで親身になって聞き役に徹することで、私たちの仕事はより意義深いものになっていました。なかには本当に危険な場面も御座いましたから、その際には後日改めて行政の担当者と共に伺うことで解決をしておりました。
訪問時に玄関先で訪問理由と以後の作業について説明をすれば、その後は世間話をするのが私の仕事の姿勢でもあり楽しみでもありました。作業中に声をかけて頂くこともあり、そうした時は椅子に掛けて住民様より頂いたお茶菓子や果物に一息つきながら他愛のない話に盛り上がることも御座いました。作業時間の内、長い時には六割が世間話ということも御座いましたが、この頃には図面の聖書なども含めて余裕のある勤務状でしたので問題になることは御座いませんでした。
こうして訪問を繰り返しておりますと、住民様の思い出話などを聞く機会も多いので御座います。この地に越して来た時のこと、或いは生まれ育ったこと。結婚をして子供に恵まれ、家族と沢山の時間を過ごしたこと。家を買い、或いは建てたときのこと。振り返れば懐かしくあたたかい思い出や、甘酸っばい、ときに苦い思い出。訪問をすれば、その数だけ話を聞きく。そのどれもが、こうした姿勢でいなければ聞くこともなかったもので、触れることもなかったでしょう。そうして沢山の方々のセピア色の記憶を辿る話に胸を熱くすれば、涙することも少なくは御座いませんでした。
ご高齢の方のお宅を訪問すると、色々なお話を聞かせていただくことがよくありました。孫子の話はとりわけ嬉しそうに話すもので、聞き手に徹する私も自分事のように嬉しく、そしてとても幸せな気持ちになりました。気心知れた知己の話や、ご近所さんの話など同じことを何度も繰り返し話されるのを見ては、私は自分の祖母や亡くなっている祖父のことなどと重ねることも御座いました。
輝かしい記憶やほろ苦い思い出など、これまで本当にたくさん聞いて触れてきました。そして、その中でも戦争や抑留の話は私の産まれる前のことで、壮絶な人生を余儀なくされた方、大切な人を失った方々が体験した話は今でもよく覚えています。そして、これはあるお宅を訪問した際に涙ながらにお話を聞かせてくださった高齢の旦那様の壮絶で悲しい、そして強く生きて歩いてきた険しい道のりについての話で御座います。
訪問時の私よりもずっと若い、寧ろ幼ささえ残る年頃、何気ない日常が戦争によって大きく変わってしまった。友や家族と笑いあって過ごした地元を、故国を離れ国と家族と大切な人のために、なによりも生きて故国の地を踏む為に必死に戦った。
仲間が減っていくなかでも、僅かばかりの希望にすがりただただ帰ることだけを心に踏ん張った。上官の話で、日本が大変だと聞いて居ても立っても居られなくなる焦燥感や悲哀に胸が苦しくなった。
生きて帰還した日本で目にしたのは、空襲や爆撃によって変わり果て町並み。家族は、母や兄弟は無事かと締め付けられる思いで家へ走れば、よく帰って来たと方方から声をかけられた。やっとの思いで帰りついた家に、愛して育ててくれた母も、まだまだ甘え盛の妹も、父や私の代わりに家を頼むぞと託した弟もいなかった。
抑えきれぬ戦争への憎しみと、やり切れない悔しさ。お国のために頑張って参りましたと戸を開けば、涙を流し喜び労う母の姿があると思っていた。兄は帰って来ましたと笑顔をすれば、兄ちゃんと抱きつく妹を慰めてやるはずだった。不在の間、良くぞ母と妹、家を支えて守ってくれたと褒めて抱きしめてやるはずだった。誰一人の声も聞くことができない、温もりを感じることも出来ない。他愛ない話をすることも、喧嘩をすることも、笑顔を見ることもできなくなってしまった。
幼馴染にして、気心知れた将来を誓い願った愛する人も、いつも大きな声で溌剌としていた近所のおじさんもいない。国も、町も、家族も大切な人たちも何一つ、誰一人守れなかった。勇んで戦地へ行った人、できることならどこにも行かず、愛する人のもとで平穏に過ごしていたいと唇を噛み締めた人も、日の丸を振って見送った人たちも、誰一人居なくなった。ほんの少しの時間で、何もかもが変わってしまった。
暫くして復興が進み、元通りとはいかずとも賑わいの活気に灰色だった世界が色と光を取り戻しはじめた頃、遠く離れた病院に運ばれた人がいると報せを受けた。
駆けつけたそこに見える世界は、復興がすすむ世界にぽつんと取り残された戦場の様だった。ばくばくと強く打つ心臓が苦しいが、治療を続ける私を待つ人の元へ覚束無い足を一歩一歩と動かした。
目にしたのは赤が滲む包帯を所々に巻かれ、すこし痛々しそうにして微笑みをこちらに向ける幼馴染の姿だった、よく無事であったと、よく生き残ってくれたと傍に寄れば優しく抱きしめて労いの言葉をかけてくれた。駆り出された戦地で壮絶に戦い、生き抜いた先で孤独と絶望に身を焼かれた私に神様は大切な宝物を守ったのだと褒めてくれているような気がした。子供のようにみっともなく涙を流し嗚咽する私に、しゃんとしなさいと涙を流しながら笑顔を見せる彼女の姿に、私の心の中で燻っていた戦争の火種が静かに消えた。
彼女が退院をしたときには、仕事を見つけ必死に働いていた。こうしていると戦争があったこと、戦地に赴いて震える指で引き金を絞ったことも、銃後を想い必死に生きて帰ったことも無かったかのように世界が動いていた。仕事を終えて家に帰れば、あたたかく迎えてくれる家族がある。戦争さえなければ、特別なこともない当たり前のことと思っていた。
暮らしが落ち着き、私は幼馴染と契りを交わした。どんなときも支え合って、敬い愛し合って力の限り強く生きていこう。いつまでも隣で笑って手を取り合っていこうと誓って夫婦となり、互いにたったひとつの家族になった。
壮絶な人生と、歩んできた険しい道のりを話して聞かせてくださった旦那様。震える指で目元に残る涙を拭うと、そっと優しく隣に座る奥様の手を握る。私がたった一人守った愛する人なんだと照れる姿に、私はまた一粒の涙を流しながら幸せを感じました。
涙を流しながら旦那様が話をしてくださるなか、私も同様に涙が止まりませんでした。私の曽祖父やその親戚もまた戦争によって人生を大きく変えられたからということもございまして、旦那様の話が重なってしまったのです。 親戚から戦争について話を聞くことはありませんでしたが、祖母や祖父から聞いた話は私の心に強く焼き付いていたのです。
親類のなかには大切な何かひとつでも、誰かの大切な人ひとりでも助けたいと思い自衛官になった人が多いことは知っていました。そして、幹部自衛官として、部隊指揮をとっている人もいるのだと聞いておりました。
だから私も兄も自衛官になり、事ある時はと備えていました。必死に勉強をして飛び込んだ自衛隊の道は、病気がきっかけで退職することになって志を貫き尽くすことの出来ないままに遂にお役に立つこともできなくなったのです。せめて何か一つ、誰かのために僅かながらでもこの身を使えないかと考えて復興事業、この仕事に就いたので御座います。話を聞いてくれてありがとうと、涙を流しながら手を握る住民様。罵倒しながらも、最後には申し訳ないと頭を下げ、どうか元気に頑張ってくださいと真剣な面持ちで肩を叩く住民様。こうして沢山のお声を頂いて、私は私に出来ることをしっかりとやれているのだなと感じていたので御座います。そして、この胸の中にあった想いが旦那様の大義された話で打たれ涙を流したので御座います。
何の役にもたたず、自暴自棄になったり自己嫌悪で不貞腐れていた私は、話を聞いて情けなく格好悪いと自分を恥じました。
人間が存在する限り、例えどんなに小さな争いも尽きることは無く幾度も悲劇を繰り返していきます。
だけど、戦争なんて間違った選択をしないで欲しいと全ての国の、国民の上に立つ方に願ってやみません。
いつの頃からか四季を感じないという声を聞くことが増えたが、例えばその中でも秋が無くなったと感じる声が最も多い。専門家の中にさえ、春と秋がなくなって夏と冬のふたつしか感じられないという人もいる。
だけれど、秋を感じる瞬間はまだまだ沢山あると私は思っている。時折ふき抜ける風に冷りとしたものを感じたり、夕方はどこかもの寂しさを日暮れに感じたりする。そして、朝晩は確実に冷えてきたことも季節の移ろいを肌で感じる。
夏が終わった、とは思えない。日差しはまだまだ暑く影に逃げなければ汗が滲む。騒がしく声を上げ、命の灯火のゆらめきと共に必死に生きる蝉の気配も感じられなくなった。
ところで、セミといえばアブラゼミやツクツクボウシなどは皆知っていると思う。そして、セミは種類によってなく時間や感覚がそれぞれ異なる。そう思えば、ヒグラシなんてのはイメージがつき易いかもしれない。彼らは夕方に鳴くのだけど、あの鳴き方は何とも物寂しさを覚える。そして、ヒグラシに秋をイメージする人は少なくないが彼らは夏の夕方に鳴く蝉で、実の所は秋のイメージと差異がある。
今日の私の作品、といえるほど大したものでは無いのだけれど、この話にいくつかのワードが頻出している。それは、「さみしさ、さびしさ」で正に私の今の心の中のよう。
空を見上げれば、夏の雲の代わりに秋雲が悠々と渡っている。悩み葛藤し霧雨で霞む私の心とは裏腹に、目の前に広がるのは家路が恋しくなる秋晴れの広い空。優しく心地よい風と秋を知らせる青空は、私に気張れと声をかけているようだ。
今日の投稿は短文で失礼いたします。というのも、私の投稿する作品は長いもので四千字程になるものもあることから、読み手の負担となるのでは無いかと懸念しております。
私は、基本的には三千字以上の文章を意識的に、そして意欲的に書いています。ですが、お気に入りに登録してくださった方々、もっと読みたいと応援してくださる方々が、抵抗なく読み始めることの出来るものも作らなければと感じた次第で御座います。
私の、このアプリでの活動の目標や意義というのは、より多くの人が面白いと思ってくださる作品を投稿すること。そして、ほんの僅かでも参考に慣れるような作品を書くこと。
そして、最も重要なところですが、このアプリで百万字を達成することで御座います。現在、私が投稿した作品の文字数がどれほどのものか分かりません。少なくとも十万字に届いていればいいなと、期待しながら活動に専念しています。また、私にとっての「書く習慣」の場での執筆と投稿の意義は、国語力や作文力、文章力の向上と想像力の研鑽です。読み手がより想像し易く、話によっては没入感を味わうことの出来る作品をいつの日か書き上げて見せるという意欲もあります。
私は、なるべく正しい文章の書き方に気をつけています。改行や段落のみならず、句読点や感嘆符、そして疑問符や括弧の使い方と、使う際のルールについて心がけています。ですが、先日に検索サイトで当アプリを検索してみたところ、たくさんの方の投稿作品(の中の一部)を読むことの出来るサイトに辿り着きました。
サイト内で私の投稿を見かけたため目を通してみたところ、改行などが無効となっており非常に読み難いものとなっておりました。
「書く習慣」、この場で皆様が目にする私の作品が少しでも読みやすくあればと願ってやみません。こんなことを書き連ねておりましたら、また長文となってしまいますので、本日はこれにて。
明日は土曜日でございます。お休みの方はしっかり休養なさって、お休みを満喫してくださいませ。
お仕事の方、頑張りましょう。私も頑張りますので、お休みの日へ駆け足をしましょう。
お休みの方は、お疲れ様でした。
お仕事の方は、ご安全に。
初めてレシピを参考にしながら料理に挑戦をしたのは小学3年生の夏休み、ホットプレートで炒め物か何かを作ったと記憶している。広島県の生まれだもんでモダン焼き(広島のお好み焼き、私の地元の呼称)なんかも作ったりしたもんだ。年の離れた父代わりのような姉のアドバイスを聞きながら、慣れないターナーの扱いに苦戦して完成したものは輝く宝石のように輝いて見えた。家族が口々に美味しいと感想を口にするもんでとても嬉しかった、そして飛び切り美味しさが増すのを感じた。
料理の楽しさ、食べたいものを自分で作ることの面白さ、作ったものを美味しいと食べてくれる喜びを知った私は、夏休みの間は毎日のように新しい料理を作っていた。失敗をして、形が崩れ、味が整わず悔し涙を流したことも嗚咽して姉の腕に抱かれたこともある。けれど、その失敗で挫けることなく姉と二人、時には妹と私の二人だけで甘味作りもしたりしては料理にのめり込んでいった。
小学6年生のいつだったか、母の夕飯作りを手伝っていた時のこと、白菜を刻んでいた時に指を深く切ってしまった。事故などは慣れぬうち、そして慣れ始めと慣れてしばらくすると発生する可能性が高くなる。ハインリッヒの法則を見れば直感的にわかる事だが、当時の私は怪我こそしないものの危うい場面が幾度と見られた。指を切ったのは、それ故のことだろう。慣れ初め、小さな危険因子に気が付かず、気づいても気にも留めず注意を払わなかった。
切った瞬間は何も感じなかった、ドクドクと脈打ち溢れ出る血を見た時に置かれた状況を理解して痛みを自覚した。左手親指の先は表皮も真皮も超えて深く切り込まれており、落ちたものは白菜と共に赤一色のまな板の上にあった。泣き叫ぶ私の状況を理解した兄が私の親指の根元を強く握って止血を試みて、母が張った氷水に私の手を無理やり押し込んだ。激痛に泣き叫び、喚き、大粒の涙を流し続ける私に兄が優しく励ましながら頭を撫でた。どれほどの時間が経ったのだろう、実際には数分だったのかもしれないと思うが私には何時間もそうしていたように思えた。
兄や母の処置が良かったのだろう、傷口は塞がり血が滲むことはもう無くなっていた。ズキズキと、それでいてしっかりと鼓動に併せて強く痛む指先に涙は枯れ果てても、私はいつもでもべそをかいていた。兄の膝の上で指から目を背ける私に、兄弟が慰めの声をかけ、兄と母は消毒や傷の保護と処置を続けてくれていた。ガーゼが指先に触れる時、包帯がガーゼに触れる時、テープを貼る時、何をする時にも激痛を伴う度に枯れたはずの涙が再び流れた。数日後に傷の状態を見ようと、ひとり包帯を解いてみたときには只々、途方に暮れてどうしたものかとあぐねいていた。滲出液とともにびっちりと一体化して固まってしまったガーゼや絆創膏は、私の傷口から離れそうにはなかった。
バケツにぬるま湯を張り、傷にしみないか不安な気持ちを抱えながらそっと指先をふやかしてみることにした。無理に剥がしたりしなかったことが幸いして、傷を悪化させることも、沁みることも、少しの痛みを感じることもなく綺麗になっていく指先に心を撫で下ろした。乾かして改めて消毒と傷の保護をして数日様子をみてみれば、傷は癒えて綺麗な指に戻っていた。失った部分は歪な形になっていたが、強く刺激しない限りは痛みを感じることは無くなっていた。
包丁が、料理が怖くなった私は随分と長いあいだ料理が出来ないでいた。21歳の冬、ルームシェアをしていた会社代表や同僚にご飯や弁当を作ることになった私は、昔の痛い記憶、そしてトラウマを振り払ってレシピサイトを眺めていた。代表が大量の加熱用のまぐろブロックを買ってきたものだから、その処理をどうしたものかと頭を抱えていた。
加熱用のまぐろは血合いの臭みが強いため、酒や生姜などで臭み抜きをして竜田揚げや煮物にしていった。冷凍庫や冷蔵庫に無秩序に、そして無作為に放り込まれている食材は全て料理をしてご馳走に変えていけば、再び料理の楽しさ面白さを感じることが出来ていた。私の作る料理を美味しいと言って喜んでくれる代表や同僚に、私は料理が、食事がもたらす幸せを実感した。それからは皆と現場で汗を流し、帰宅すれば全員の夕飯と翌日の朝食やお弁当の用意をするようになった。月に一万円の手当も貰えるようになった、食費などの経費の管理も任せて貰えるようになった。毎日の食事の用意は大変だったが、感謝されることが嬉しく、必要とされていると感じるとやる気も湧いた。事務作業も頼られるようになり、使い方も知らぬパソコンを独学で学び、オフィスソフトに悩まされた。負担は大いに感じていたが、大好きな料理と事務の手伝いで月々の手当は増えていき、喜ぶ姿もまた増えたことで活力に変わっていた。
代表たちのもとを離れ、ひとりアパートを借りて新しい職場と出会いと仕事に不安を抱えながらも料理をしている時だけは自分らしく、そして楽しく過ごすことができた。自分だけの空間で、自分の食べたいものだけを作ることのできる暮らしに料理好きは加速していった。フライパン、鍋、ターナー、菜箸にお玉など思い思いに好きなデザインやメーカーのものを揃えていけば新しいレシピも創作料理も増えた。
和食しか作って来なかったが、気がつけば中華料理にも興味を持ち始めていたころ、月々の支出はさらに増えていた。日本中華も好き、四川料理も好きと来ればさらに沼に嵌っていくのは必至だった。恋人にも料理を振舞っては二人で幸せを噛み締め、料理が人生にとって重要なものであるという実感と果てない高揚感や幸福感が私を包み込んだ。
いま私は恋人もいなければ、職場でのパワハラや病気の母のことなど不安や懸念、心痛で精神的に追い込まれている。けれど、料理のことを考えている時、YouTubeで料理系クリエイターの動画を観ているとき、そして料理している時には他では決して味わうことの出来ない満足感を噛み締めている。
ストレスのせいだろうか、さらに料理への意欲と関心が高くなった。だから料理に関連するものも
増えた。例えば中華なら、北京鍋と広東鍋があるし、ジャーレンと中華お玉は鉄とステンレス。その他に鉄フライパンが一つと、パンケーキ用の鉄フライパンが一つ。南部鉄器の玉板も増えて、私の家はこの子達で大所帯になっている。
南部鉄器の玉板は良い、フッ素加工のものでは味わえない美味しい卵焼きが焼けるし、程よい大きさから餃子や目玉焼きにも重宝する。活躍の幅は広く、適切な手入れさえしていれば真っ直ぐ育ってくれる。そして卵焼きを焼きあげる時間が早くなったことも、私の生活をさらに豊かにしてくれた。というのも、私は大量に作り置きをして冷凍するのだけれど卵焼きもその限りだ。何枚も焼いて、切り分けて包んで冷凍すればお弁当や朝ごはん、夕飯にだって頂けるのだ。
中華鍋は北京鍋と広東鍋で使い分けをするが、炒め物も揚げ物も、煮物も、料理なら大抵のものはあっという間に大量に、美味しく作り上げることができる。中華の調理道具たちというのは本当に万能で和食を作りたい時にも、その秘めた力を余すことなく発揮してくれる。そして、調理器具や道具ではないが中華は調味料も豊富であることから、これらの新顔も増えて、キッチンに収まりきらなくなってしまった。中華との出会いは、初めて料理をした時の感動を鮮明に思い出させてくれるほどに素敵なものだ。
いつまでも長ったらしく、そして私にしては珍しく言葉が乱れながらも書き連ねた今日の私は、いつになく素直に語ることが出来たのではないだろうか。私の投稿はいつも無駄に長い、いやいや長く書いている節もあるのだけれど付き合って読んでくださる方々への感謝は尽きない。昔から作文など自分の思いの丈を文字にして、文章に起こすことが好きで堪らない。文章を書くこと、活字を読むことは語彙力の向上に良いなんてことをたびたび耳目する。そんなことはどうでもいいし、私には語彙力など微塵もない。ただただ、好きなことを好きなだけ書き連ねている。それこそ無秩序である。
それでも、読んでくださる方々。応援してくださる方々の存在は私の活力と、継続力と幸せの大きな支えになっている。だからこそ、こうしてアプリを続けていられる。好きな文章を書いて、誰かが背中を押してくれる、それだけが私の生きていく糧になっている。
いま、精神的に弱っていることや不安定なこともあっていつに増して話がまとまらず、綺麗に締められない。けれど、ただ語りたかった。いま、これを読むあなたに甘えたかったのだ。
きっとこの先、このアプリでの活動とあなた達と紡いだ時間は忘れたくても忘れられない、尊い記憶として私の胸に光り続けるのだろう。
久しぶりに釣りに行きたいな、釣って捌いて食べたい。久しぶりに行軍に行きたいな、疲れて喉が渇いて辛いのに、そこに生を感じて明日の糧としたい。
今日は疲れたから休みの日でいいか。休みはまったり惰眠を貪りたいから、気が向けば次の休みにしようか。朝から酒を飲みたいし、映画鑑賞に耽るつもりだったから明日でいいか。明日から仕事だし、体力を温存しておくか。
大人になると、とにかく時間を無駄にする。ただただ無意味で無意義に、限りある時間をドブに捨てる。いまこの時は、もう二度と訪れることの無い瞬間であるということを忘れて無秩序に時間を貪る。
歳を重ねることは理解をしていても実感をするのは、凡そ自分に出来ることの数が減った時、そして可能性を自ら過小評価 したときだ。どんな挑戦も、学びも、趣味も遊びも、歳の数に関係なく無限大の可能性がある。そして、それは誰にも当てはまる。
言い訳をするのは簡単で、人は言い訳のためなら無意識に時間を割けるものだ。なんら価値のない時間にこそ人は無意識に時間を注ぐが、これにいち早く気づくことができた時、無限の価値と可能性を見出すことができる。
難しいことでは無い、やればいいだけだ。休みの日、ダラダラといつまでも寝たいものだ。しかし、休みの日こそ普段よりも早く起きよう。何気ない日常に強い変化を感じることができる。散歩へ出かけるもよし、何も考えずコーヒーを飲むも、茶を飲むも良し。身支度を済ませ、シャキリと目を冷ましたならば思い思いのことに時間を活用してみよう。これまでの怠惰に時間を捨てたことを悔やみ、これからは何でもやれると意欲が高まるのを感じるだろう。
眠ければ、小一時間の昼寝を楽しみにして過ごせばいい。早朝からやれるだけのことをやれば、その充実感と達成感は心に余裕と幸福感をもたらしてくれる。そして、それらのあとに昼寝をすれば惰眠を貪るのとは違う格別なひと時を体感することができるだろう。
平日に言い訳をするなら、休日こそ真剣に自分と向き合おう。平日に時間が取れないなら、休日こそ朝早く起きてでも無理やりに時間と意欲を注ごう。休日の趣味の疲れは、仕事へ悪影響与えることは無い。充実感や降伏感、、爽快感も得られるならば週明けの活力になるだろう。
休日こそ全力で休みたいのなら、朝早く起きて掃除や炊事、なんでもいいから早めに片付けてしまえ。驚くほど休みを長く感じるぞ。きっと、それを繰り返していくうちに暇を持て余し、高まった意欲は新しい活動へと自分自身を向かわせてくれるだろう。誰しも目の前には幾つもの扉が、或いは道が開けている。でも、それは自ら見ようとしなければ見えやしない。見えた時、どれを選ぼうとせずとも迷うことなく興味と関心のままに歩み始めているはずだ。
何をしてもいい、どんな過ごし方をしてもいい。どんな生き方も自由で、どのように歩いていくのかも選べるのだ。しかし、決して限りある人生を無駄にしてしまうようなことは避けなければならない。いつの日か、しておけば良かったと悔いるような生き方は避けなければならない。いつだって、何度だってチャレンジはできる。けれど、若かりし頃と年老いた頃とでは可能性こそあれど難易度が上がり、ハードルは高くなり、幅も狭まる。
やってできないことは無い、やればやっただけの価値がある。しかし、やって得られる成果はどれだけ活力を注ぐことが出来たのかによって変化する。活力は誰もが持つが、身体は確実に老いる。酸化防止に、老衰防止に食事を見直しても運動を継続しても体の中の細胞は確実に老いて役目を果たして終わっていく。人の体はその果てにあるのだから仕方の無いことだが、気力と活力で如何にできることに全力を注ぐかで最期の時に得られるものは変わる。
どんな人にも、幾つの人にも時間は平等に流れる。けれど、終の瞬間は皆違う。それがいつなのか、どのような形で訪れるのかなど誰にも分からない。なれば今を無駄にすることなく、流れる一秒一秒に心血を注がなければ、必ず後悔をする時が来る。
幸せに生を謳歌したいのなら、子供のように無邪気に今を生きなければならない。大人は生きていくために、誰かを守るために、養うために仕事をして稼ぎを得なければならない。子供のようには生きられないと感じるだろう、だから休日こそ満喫しよう。充実させようと努力しよう。
子供の頃に、今ほどあれこれ考えて生きていた人は多くは無い。けれど、将来の夢や目標のために全力だった人はとても多い。
大人は要らぬことに頭を使い、要らぬことに耳を傾け、要らぬことに心を壊す。
子供のように行きなさい。私もそうあろうと決めたのだ、生きやすさは自らの手で作り、掴み取らなければならない。
幸せは大それたことではない、ほんの少しの変化から生み出す価値のあるものに過ぎない。
難しいことでは無い。
やってみよう、これから一緒に。
点呼を終えトイレへ駆け込めば、同じことを考える同期たちで溢れかえっている。起床ラッパの吹鳴から二分以内に集合と整列を終えて点呼の用意が出来ていなければならず、朝はとにかく忙しない。消灯後は基本的にはトイレに行くことなどは許されず、どうしても我慢ができない時は静かにこっそりと隠れて駆け込んだ。見つかれば叱られる為、我慢をすることになるが朝は早くから班長達が動いているから身動きが取れない。そのために点呼の後にトイレへと急ぐのだが、混雑しているトイレにダムの決壊のサイレンに焦る自分と闘わなければならない。
各班事に舎前に整列して食堂へ早足行進を行うと、部隊の先輩方が挨拶をしてくれる。元気な人や眠そうな人、低血圧なのか倒れそうな人もいるが皆食堂入口から連なる列に並んで様々に会話を始める。私たちもまた、午前の稼業の話をして気持ちを高めて心の用意をしていた。
朝は食の細い私も陸上自衛隊に入隊してからは大食らいに変わっており、高校時分に野球部だった同期は私の倍以上の米を平らげる。おかわりはできないが、最初に装うときに食べたい分だけ盛り付けて席に座るが、食べ残しは禁止なのは言うまでもない。調子に乗って山盛りにした同期は苦しそうにしている。食事を終えて食器を返却すれば、ベッドメイクや課業の準備のために営内へ戻る。
平日は何も無い限りは「揚げ床」と呼ばれる状態、つまり全てを規定の畳み方と重ね方で仕上げる。そして、いま一度身なりを整えて雑嚢に必要なものを入れて班員同士、ベッドバディ同士で確認を行う。0750 ( 07時50分 ) に区隊全員で舎前に集合すれば、総数は凡そ三十名にもなるが課業によっては別区隊との合班になるので六十名程になる。引率学生(または引率班長)が号令を掛け、足を揃えて行進する。
この日、午前の課業は第二キャンブの第二教場で座学と小銃の分結 (分解結合) の予定になっているため、暫く歩くのだが途中で区隊長が声を挙げる。朝から元気に行くぞと、駆け足を行うという。担え銃(になえつつ) から控え銃 (ひかえつつ) へ体制を切り替えれば駆け足の号令が響く。「いち、いち、いちに。いち、いち、いちに。歩調数え! いちにさんしごろくしちはち」 区隊長の掛け声に応えながら食後の重い腹に苦しみながら走り続ける。
昼の食事ラッパが鳴ると少し安堵するのは皆同じなのだろうか、表情が明るくなる。しかし、この日は普段なら笑顔の同期が顔を引き攣らせている。無理もない、顔を引き攣らせているのは入隊前に野球部の活動で膝を痛めている。そして、午後の課業は全て戦闘訓練。気持ちが暗くなってしまうのも頷けるが、私は彼に励ましの声をかけて背中を叩いた。
辛い、しんどい、水が欲しい。出発点から順に第一から第五堆土(たいど) が盛られており、第一堆土までは第一匍匐(ほふく)による前進を行う。そして、堆土を追う毎に匍匐姿勢も変化する。第五堆土までたどり着くと照門を起こして、セレクターを「ア(安全装置の意)」から「タ(単発の意)」に切り替える。そして、「一班、目標前方サンマルの稜線の散兵。突撃イチ、射撃はじめ!」の号令と共に「バンッ!」と大きな声を発する。続いて、「一班、打ち方やめ。突撃二、稜線へ走り散兵を各個に刺突撃破!」と、突撃の号令で皆と一斉に全力で走り、的(てき、まと)に銃剣を突き立て、前蹴りを入れる(実際にはその振りを行う)。
本来は突撃までが一連の流れだったため、駆け足で引き返して原点(前進行動開始地点)に整列するが区隊長の思いつきで戦闘訓練場は地獄と化していた。突撃を終えた地点から原点まで第五匍匐による前進を行うことになり、八十メートル以上を腕の力だけで戻る拷問を受ける。区隊長の声掛けに返事をすれば草や土が口の中に入るのも辛いが、何よりも匍匐前進を繰り返し行えどまるで進んでいる気がしないのだ。
戦闘訓練開始から二時間、一度全員に集合がかけられた。「休憩したいものはいるか」との区隊長の声に程よく手を抜いて楽ができている者や、部活のノリでおちゃらけている者は「なし!」と答える。周りを見れば私を含めて半数は休憩をしたいと考えていた為、「なし!」の声に困惑する。もちろん、班長方や区隊付きや区隊長方もこれに気づき怒号に喉を震わせる。発する言葉は、「お前らは周りも見ず、自分らのことしか考えんのか! 周りを見てみろ、半数以上は真面目に取り組んで真剣に全身全霊で望んどるんど。抜けるところも抜かず、自衛官として必死に励んどるんぞ。恥を知れ!」といったもので、その怒気に全員が緊張に身体を固くした。結局、私を含め半数の同意の元に休憩はなしとなった。しかし、私たち半数は個別に小休止を各自の判断で行って良しとの指示を受けたため全力で行って帰ってきては一息ついてを繰り返した。
日中こそ暑さを感じ初めるも、朝晩はまだまだ冷え込んでいる。夕方になり時折吹く風に肌寒さを感じながら、早足更新で武器格納庫へ戻ったときには正に満身創痍だった。武器の格納を無事に終えた面々の目の前で、格納時(返却時)に不備のあった者がペナルティとしての腕立て伏せをしている。
全員の格納が終わると、武器格納庫の前で解散し各班事に別れてそれぞれの行動に移った。私の班は一度営内にもどり、ジャー戦(B2装、迷彩作業帽と迷彩服、下はジャージ)に着替え食堂に向かった。朝と昼はがっついて食事を摂ったが、夕食は少なめにしている。これは私だけでなく、この後に私と行動を共にする同期十六名全員だ。
ジャージとスポーツキャップ、履きなれたランニングシューズで準備運動を行い、次いでサーキットトレーニングを実施した。息を整え、二列縦隊になり1名が列外にて号令 を行い、毎日恒例の二十キロ走が始まった。この二十キロ走は、最初からこの距離では無かった。当初はとりあえず十キロほど走ろうかと志し同じくする同期二人と始めたもので、次第に参加させて欲しいと同士が増えていった結果、全員の練度も向上し、併せて走る距離も伸びていった。
二十キロまでは全員で徐々にペースを上げながら走り込む、それ以降は各自別れて好きなだけ走る。しかし、結局また合流して掛け声なしで走り抜ける。仕上げにもう一度サーキットトレーニングを行えば終わりだ。二十キロ走と、個別のランニングで日々の走行距離は二十五キロほどになる。
営内に戻り着替えを済ませ、隊員浴場で汗を流し一日の疲れを癒す。体力錬成に時間を使うため、私たちの時間は限られているが部隊の先輩や仲の良い同期と他愛のない話に浸れること時間は平日の唯一の娯楽だ。部隊の先輩には同じ連隊に、同じ小隊に来てくれとお誘いを受け、中隊事務のゴリラ一尉(私がそう呼んで慕っていた幹部、ボディビル部)は熱烈な勧誘を受ける。ときに小突き会いながら無邪気に笑い合えるこの空間が何よりも好きだった。
営内に戻ると、清掃やプレス(アイロンを強くかけてシワを取り、折り目をつけメリハリを付けること)
を行い半長靴の手入れを済ませる。夜の点呼もあるからとにかく忙しない 。夜の点呼はいろいろ事件が起こるもので、一日の中で特に緊張する。ある時はたった一人のミスで凡そ百二十名が雨降るなか筆たて伏せを延々と課された。もちろん一人のミスであれど、その一人の責任では無い。周囲が情報共有やフォローを行わなかった、つめりはそれぞれの監督不行届によって招いた結果だ。そういうことも起こり得るのが夜の点呼だから、何も起こりませんようにといつも願っていた。
点呼の後は消灯まで、思い思いにのんびりと自由な時間を満喫していた。ベッドでゴロゴロしながら漫画を読む者や、テレビを見て笑い転げる者。私は年長者の同期と一日の振り返りをするのが日課で、この日も反省すべきところ、良かったところを出し合って励ましあった。
ベッドに入り、消灯ラッパを聴くと一日の終わりを実感して眠気が襲ってきた。また明日も頑張ろう、明日の課業はほぼ全てが座学だから居眠りをしないようにしないといけない。気を引き締めよう。
一般曹候補生で自衛官の道を歩き始めた私は、前期教育隊でこのように過ごした。学校の思い出はいいものがあまりない、正確には自分に自信が無いからか思い返してみても語れる話がない。
自衛官として過ごした時間は長くはなかった、病気によって夢を、道を絶たれ絶望の縁に立たされ投げやりになったこともあった。けれど、自衛隊生活の中でも前期教育隊は思い出が詰まっていて思入れも深い。二十キロ走を毎日頑張っていたが、たまに違うことにも全力だった。
課業終了して、食事を終えて同期たちと営庭に集合。中隊事務所に声をかけて借りてきたバットやクラブ、そしてソフトボール。たまにこうして課業終了後は別々に行動する同期たちも全力で遊んでいたが、部隊の先輩方が混ざってくれることも嬉しかった。学生生活では感じられなかったもの全てが、前期教育隊に詰まっていた。課業終了後、それは学校生活でいうところの放課後といえるだろうか。私にとっての唯一の暖かく幸せな時間の記憶だ。