「キズナアイ」がスリープから目覚め、三年前に止まった時計の針が、カチコチと回り始めた。VTuberというものの存在を初めて知ったのは、「電脳少女シロ」がきっかけだったが、強く惹き込まれ、魅力に虜になったのはキズナアイを知ってからだった。
歌もトークも、企画も何もかもが新鮮だった。彼女の存在は生きることに悲観的になっていた当時の私を支えてくれていた。最悪な選択肢をいくつも考えては、理性で間違いが怒らないように律していた。起きて仕事に行き、疲れ帰って眠りにつく。少しの時間も考える隙を無くすようにしていた。そうでなければ、家族を、自分を終わらせてしまうと強く感じていた。なんのために生まれて、どうして今を生きているのか。果たして、今、私は生きているのか。息をして、食事を摂って、風呂に入って暖かい布団で眠る。起きたらばルーティンのように仕事に向かう。これは生きているのとも死んでいるのとも違うのではないか、馬鹿みたいに下らない事で頭が埋め尽くされる感覚すら覚え始めていた。
なんの予定もない日曜日の朝だ。仕事は休みだが何をするでも無く、その気力すらもないが休日も早朝に起きるというルールだけは自分に課して守り続けている。なんの気なしにYouTubeを開いて、再生リストから好きな歌い手の曲を長そうかと思っていたところ目にとまり、私の興味を全て持っていったのがキズナアイ、彼女だった。淀み、霞んでいた私の世界は鮮やかな色を取り戻し、リズムよく心地よいテンポとともにフルカラーに咲いた。
なにかを変えたい、現状を打破したい、打開したい、好きなことをして、好きなものを食べて、自分の周りを好きで埋めつくしたい。そう思うのに、目の前の現実に目を向けた時、私は酷く絶望し落胆しては重く息を吐いていた。そんな私の沈んだこころが、いつまでも行っては返るを繰り返す秒針がチクタクと軽快に時を行きはじめた。
幸せの形はそれぞれあれど、幸せの定義はそれぞれあれど、嫌なことも辛いことも、悲しいことも忘れられる一瞬という時間があれば、私はそれを幸せだと感じたんだ。大それたものじゃない、言うほど特別なことではないけれど、確かに私を励まし、慰める、その短い時間に私は生を実感したのだから幸せと言わずしてなんといおう。
電脳少女シロわキズナアイがきっかけで、その存在を知り、知ったことで生きる理由を見つけた。そして、そこから沼るまでそう長い時間は必要なかった。「にじさんじ」、「ホロライブ」、「あおぎり高校」、「ぶいすぽ!」、「ミリプロ」など多くの箱を、各社のタレントを推すようになった今があるのは彼女たちのおかげだ。そして、電脳少女シロは今も変わらぬ幸せを分けてくれている。古参も新参も隔てない業界が確立され、賑わい、活気に満ち満ちている。
三年前にスリープに入ったキズナアイ、私たちの日常からひとつ、大切な宝物が姿を消した。スリープに入っても彼女のチャンネルには足繁く通った。彼女の歌を聴きたかった、彼女の姿を見たかった、彼女の声に元気をもらいたかったから。
突如としてカウントダウンが始まったとき、身体に電撃が巡ったような感覚が全身を震わせた。カウントダウンとともに、眠っていた間に流れた時間が急速に回り始めたように思えた。そして、また会えるのではないか、とんでもなく嬉しいサプライズが待っているのではないかと興奮が冷めぬままこの時を迎えたんだ。
おかえり
キズナアイ。
あなたの物語がまた始まるのを
今か今かと待っていたんだ。
日本中の、世界中のファンがこの時を切望していたんだ。
また新たな伝説を、記録を作っていってほしい。
誰かを笑顔にする、特別で大切な尊い活動を
心から応援しています。
風邪をひき、一週間かかって治ったと思えば耳下腺が晴れて大変な思いを致しました。こんな状況にあって仕事は休めず、免許の更新も済ませなければならず、それはそれは怒涛の日々でございました。
毎朝四時二十五分に起床し、起きがけに着替えを行った後に丁寧に歯磨きや舌のクリーニングを行い、洗顔をしてスキンケアをこれまた丁寧に済ませる。スキンケア の間にケトルのスイッチを押し、スキンケアが終わればすぐに朝食を頂くことができるよう細やかな段取りも忘れない。そして、荷物を確認したらば五時十五分に家を出る。現在の職場(出張先)は部屋を出て二分で会社に着く。車に乗りこみ、正しくポジショニングを行い、エンジンを始動。ミラーを確認しライトを点灯させ出発。
これは私の単なるルーティンでしかないが、この一連の流れが崩れるとストレスを感じる。これ程まで早くに家を出るのだから遅刻をすることは、まず有り得ない。けれど、出発に十五分の遅れでもあれば頭の中では「まずい、いつもより到着が遅れる。自分的に遅刻だ」 、と焦燥感に駆られるのだ。
現場に到着すると、門を解放し現場を巡回する。その後は書類の用意を済ませたり、一日の段取りを考えては時間をまったりと過ごす。これはどこの現場に行っても変わらぬ事で、私の基本ルールの上に成り立っているストレス対策でもある行動パターンのひとつだ。
現在の現場は今月末で竣工するが、それと共に私もこの会社を後にする。方方から 「うちに入社してくれないか」、とありがたい声掛けを頂く。しかし、私の中でどこか自信がなく、腑に落ちないところがあるのか前向きには考えが及ばない。工期の長い別現場の内定は貰ってはいるが、そちらへ行く気にもならない。いま、私が見ている現場は管理だけでなく作業的なことも自由にできる。もちろん、施工管理を行う現場監督である以上、普通は作業を行うことは褒められることでは無い。
先程の、工期が長い現場はこの春から始まるが、中小企業ではないため作業的なことは一切を行ってはならない。職人上がりの私には、それはとても息苦しいことであると同時に、私が先方の求める人材として見合うのかという自信のなさが、私の足を止めている。
春からの、この現場に入ることになれば給料も跳ね上がる。そうなれば実家のためにこさえた借金も すぐに完済できる 。しかし、それ以上に私の心が負債を抱えていくような気がしてならない。残業なんてのはこの仕事は当たり前であり、私自身も好きなこともあり負担は一切感じない。国交相の工事であるため、土日祝は休工事となるだろう。そうなれば、それらの休みで試験対策も出来るし、趣味に 没頭 できるだろう。けれど、先方はレベルの高い人材を欲している。
聞くところによれば、コンサル各社から先方へ職員のエントリーがあったがすべて書類選考で落としている。面談まで漕ぎ着けたのは、この度の選考で私が第一号。本来であれば、社に持ち帰り審議をして採否が決まる。ところが、面談から半日と経たず内定の報せを受けたのだ。
もちろん、面談のなかで現時点で私ができること、できないこと、得手不得手、仕事への取り組み方や姿勢を伝えたうえでの決定。これ程嬉しいことは無いが、同時に私なんかでいいのかとプレッシャーに押しつぶされそうになっている。先方は私の得意なこと、分野で負担なく業務が行えるように配置をすると配慮をしてくれている。コンサルに身を置いて、大手は今回で二社目だが、前回の大手別会社の時とは話が違う。一人一人に求められる能力が高いのだ。私は即座に契約を解除されるのではと膝を抱えて震えている。
しかしながら、とりあえず先のことは考えるだけ無駄である。杞憂も不安に悩む時間も、心配事のほとんどは実際には起こらない。そして、人生はどのような局面においても「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」、と構えて振る舞うことが大切だ。
人間、生きていればそれだけで儲けもの。命あればとりあえずはいいのだ。命あればこの先の事などどうとでもなる、どうにでもできる。失敗をしようと、何かを失おうと、人の欺きや悪いに虐げられ貶められようと、生きていればどうということはない。
人生、過去を振り返り嘆くは易い。先見えぬ未来に、将来に、どれだけフォーカスを当てられるか。ピントを絞っていくことができるか。まさに今、何ができるか、なにをするのかが要だ。「言うは易し、行うは難し」、この言葉があるけれど私が思うに、これは「考えるだけ無駄である。思ったのならまずはやってみよ」というもの。
何も考えることが悪いことではなく、口にするだけが悪いことではない。いいからとりあえずトライしてみようよというのが、私のスタンス。そこで失敗しても挫けてもいい。とりあえず生きているじゃないか、心臓は動いているじゃないか。
どうにでもなるが、どうにかしなければ、どうともならない。変化は変化させようという力による作用から始まる。ただ立ち尽くしていても、黙って見ていても何も起こらない、何も、始まらない。何も始まらないのだから、理想の先も、終わりもない。
法華経の教えに「還著於本人」という考え方がある。こらは、「還って本人に着きなん」というもので、善い行いは善いものとして、悪しき行いは悪しき事として巡ってくるというもの。人にやさしくしたならば、何かの時に誰かから優しく施しを受けることもあるし、人に不敬でもってぞんざいに振る舞えば、縁は絶え、信用は地に落ち、何かの時の助けなどなくなる。
また、この考え方というのは自身の言行の一つ一つが、自身の未来を分かつとも捉えることができる。自分の努力は、様々な宝として手元に残り続ける。
私はなやみ苦しんだ時、いつもこうして自分を律している。弱虫になることも、泣き虫になることもある。そんな時は私自身が、逃げ腰の私を慰め、背中を押してやる。
もしも、いま苦しいと、辛いと下を向く人がいるならば、まずはそんな自分自身を赦し受け入れてあげて欲しい。対話は相手の手を取るところから始まる。下を向いて、正面のものさえ視界に映らない自分自身に手を差し出そう。その手に自分自身が気がついたのなら、涙に濡れる頬を優しく拭って抱きしめよう。
そうしたら、次にやることはただ1つ。
泣いていた自分と、自分の弱音で自分を押さえつけていた弱虫で泣き虫な自分と、手を振ってバイバイだ。
さっきまで涙していた自分はもういない、手を繋いでブンブンと手を振りながら楽しそうに歩く姿が横にみえるだろう。
ただいま鼻水と咳と喉の痛みに、満身創痍の只中にございます。
これが「風邪の悪戯」 でございます。
さてさて、本当に辛い状況にありながらもお仕事をお休みすることはできません。故に、身体に鞭打ってでも働かなければならない私でございまが、こちらでの執筆を何よりも楽しみにして過ごしております。
しかし、なかなか時間を取れず終いで現在に至るまで投稿ができておりません。心待ちにして下さっておられる方も、おられた方も私のことを忘れてしまったのではないかと一抹の不安を抱きながらも、執筆と投稿が出来ないなか仕事に励んでおりますれば、どうか今一度お時間を頂戴できますまいか。
インフルエンザと風邪に気をつけて!
だば、まんず今日はもう寝っペし!
へばまんず!
お気に入りに登録下さった皆様、本年も私の作品(実話に基づく)にお目を通して頂き誠にありがとうございました。
拙い文章でありながら長文であるという点では、非常に読み難いものであると存じます。私の作品は平均して文字数が三千字ほどあるかと存じます(恐らく)が、あたたかく見守ってくださったこと、「また読みたい」とお気に入りに登録下さったこと感謝の念に絶えません。
私の本アプリにおける活動指針としまして、「極力正しい文章を書く」というところに力を置いており、そこに付随して読み易く、情景を思い浮かべることのできるものを書くことを念頭にしております。
段落や改行だけでなく、括弧の使い方、感嘆符や疑問符の用い方、注釈や補足など文章を書く上で必ず付いて回る必要な作文ルールについても学び直しをしながら執筆しております。心のどこかでは、たくさんの方々が投稿されております様に、小説やポエムのような文体や構成を取り入れて作品を生み出したいと考えているのですが、私のスタイルとして肌に合わないこと、私にそれだけの実力がないことから筆が進まない状況で御座います。
私の妹が二次創作作品のうち、小説を読んでいるのですが、私の作品を私が執筆したものと言及せず読んでもらったところ「長いし読み難い」 、そう指摘を受けました。然るに、私の文章はやはり読み続けるには読者の負担が大きいと言えます。或いは読者を選ぶ、そんな拙いものであると反省をしております。
しかしながら、やはり文章を書くことが好きであることや、スタンスや念頭にある指針を曲げることはできません。我儘ではありますが、どうか今後もお付き合い頂けますと幸いに存じます。
前回の執筆以降は新しい現場配置にて多忙につき、投稿が出来ていない状況で御座いました。しかし、現場も一段落ついたことで心の余裕も時間も確保できる様になりましたので、再び投稿を再開できたらと意気込んでおります。
それはそうと、インフルエンザが猛威を振るい、多くの地域で警報が発令されております。皆様に置かれましては周囲は如何な状況でしょうか。私の周囲では、やはり感染者が増えており多くの職人様が休養を取られております。
本年八月には私もコロナウイルス感染症を患い、長いあいだ苦しい時間を過ごしました。現在はインフルエンザに感染しない、感染させないよう自他ともに注意をしております。皆様もどうか、新年を気持ちよく迎えられますよう、来年一年を健康に過ごせますよう心よりお祈り申し上げます。
では、みなさま来年もどうぞ宜しくお願い致します。
※お題に関係しない内容です
8年前、仕事で街中のお宅を訪問して調査やヒアリングを行い、それらの情報をもとに指示書や図面を作成する仕事をしておりました。震災に関連した業務であったことから、現地の方より不満の声や罵声を受けることは日常茶飯事で御座いました。私もまだまだ未熟ですし、二十代も半ばと若いこともありましたから浴びせられる言葉に憤慨する日も、悔しさに涙する日も御座いました。
そんな中にあっても、この仕事を続けることは私にとってとても重要な事だったので御座います。これまでに私について話をしてきましたが、やはり自衛官として過ごしたことや、志を持って職務にあたっていたこともありますから、いち民間人として過ごす日々の中でも何かお役に立ちたいという思いは御座いました。誰かの為に何か少しでもお力になれることはないかと考えているときに、このような仕事と縁を持ちました。
一日の達成目標などもございまして、日々精進してより多く のお宅を回り、より多くの声を聞くために同僚と勉強会などをして効率や作業の質の向上に邁進していました。
この仕事は、一種のサンプリングとしての一面も持ち合わせておりましたし、ご近所様同士で情報共をされているお宅では殊更に注意を払って仕事を進めなければなりませんでした。時には行政の担当者様と共に訪問をして、住民様の意向を可能な限り反映できるようにと調整をすることも御座いました。
毎日変わり映えのない単調な仕事ではあるものの、決して簡単なものでは御座いませんでした。調査をする者のなかには、ズボラな者や無責任で遊び感覚な者もおりました。そうした面々と衝突することは多々ありましたが、互いに意見を交換することはありませんでした。私や、ともに勉強会などをして向上をと奮闘するスタッフは、彼らのような適当な者からしてみればいい迷惑でしかなかったのです。私たちが余計な盛り上がりをすれば、彼らの仕事の程度も具合も周囲から見れば悪目立ちしてしまうのです。彼らにとってすれば、私たちはさぞ滑稽で迷惑な者として見えていたのでしょう。
私たちの仕事というのは、調査書類を手に住民様を尋ねて測量や聞き取りを行い、その場で簡単なポンチ絵を書いて写真撮影をする。住民様の希望や要望などを控えて持ち帰り、ポンチ絵を清書して提出。これをもとに行政やJV(共同企業体)が今後の流れや施工方法を決定します。
聞き取りの際、私はできる限り世間話をして住人様の人となりや抱える悩みや問題を聞くようにしておりました。震災後に抱えるストレスも、こうして話を聞いていけば少しは発散できるのではないかと考えていたからこそのことですが、住民様より謝辞を頂くと意味のあることなのだと実感しておりました。
世間話のなかで、ただただ吐き出したい想いや悩み、不満や不安を聞いて寄り添っていくことで今後の暮らしやすさに繋がるのではないかと信じておりました。やはり、訪問時こそ罵詈雑言を受けても静かに話を聞いてみると、怒りを顕にしていた住民様も落ち着いてきます。最後まで親身になって聞き役に徹することで、私たちの仕事はより意義深いものになっていました。なかには本当に危険な場面も御座いましたから、その際には後日改めて行政の担当者と共に伺うことで解決をしておりました。
訪問時に玄関先で訪問理由と以後の作業について説明をすれば、その後は世間話をするのが私の仕事の姿勢でもあり楽しみでもありました。作業中に声をかけて頂くこともあり、そうした時は椅子に掛けて住民様より頂いたお茶菓子や果物に一息つきながら他愛のない話に盛り上がることも御座いました。作業時間の内、長い時には六割が世間話ということも御座いましたが、この頃には図面の聖書なども含めて余裕のある勤務状でしたので問題になることは御座いませんでした。
こうして訪問を繰り返しておりますと、住民様の思い出話などを聞く機会も多いので御座います。この地に越して来た時のこと、或いは生まれ育ったこと。結婚をして子供に恵まれ、家族と沢山の時間を過ごしたこと。家を買い、或いは建てたときのこと。振り返れば懐かしくあたたかい思い出や、甘酸っばい、ときに苦い思い出。訪問をすれば、その数だけ話を聞きく。そのどれもが、こうした姿勢でいなければ聞くこともなかったもので、触れることもなかったでしょう。そうして沢山の方々のセピア色の記憶を辿る話に胸を熱くすれば、涙することも少なくは御座いませんでした。
ご高齢の方のお宅を訪問すると、色々なお話を聞かせていただくことがよくありました。孫子の話はとりわけ嬉しそうに話すもので、聞き手に徹する私も自分事のように嬉しく、そしてとても幸せな気持ちになりました。気心知れた知己の話や、ご近所さんの話など同じことを何度も繰り返し話されるのを見ては、私は自分の祖母や亡くなっている祖父のことなどと重ねることも御座いました。
輝かしい記憶やほろ苦い思い出など、これまで本当にたくさん聞いて触れてきました。そして、その中でも戦争や抑留の話は私の産まれる前のことで、壮絶な人生を余儀なくされた方、大切な人を失った方々が体験した話は今でもよく覚えています。そして、これはあるお宅を訪問した際に涙ながらにお話を聞かせてくださった高齢の旦那様の壮絶で悲しい、そして強く生きて歩いてきた険しい道のりについての話で御座います。
訪問時の私よりもずっと若い、寧ろ幼ささえ残る年頃、何気ない日常が戦争によって大きく変わってしまった。友や家族と笑いあって過ごした地元を、故国を離れ国と家族と大切な人のために、なによりも生きて故国の地を踏む為に必死に戦った。
仲間が減っていくなかでも、僅かばかりの希望にすがりただただ帰ることだけを心に踏ん張った。上官の話で、日本が大変だと聞いて居ても立っても居られなくなる焦燥感や悲哀に胸が苦しくなった。
生きて帰還した日本で目にしたのは、空襲や爆撃によって変わり果て町並み。家族は、母や兄弟は無事かと締め付けられる思いで家へ走れば、よく帰って来たと方方から声をかけられた。やっとの思いで帰りついた家に、愛して育ててくれた母も、まだまだ甘え盛の妹も、父や私の代わりに家を頼むぞと託した弟もいなかった。
抑えきれぬ戦争への憎しみと、やり切れない悔しさ。お国のために頑張って参りましたと戸を開けば、涙を流し喜び労う母の姿があると思っていた。兄は帰って来ましたと笑顔をすれば、兄ちゃんと抱きつく妹を慰めてやるはずだった。不在の間、良くぞ母と妹、家を支えて守ってくれたと褒めて抱きしめてやるはずだった。誰一人の声も聞くことができない、温もりを感じることも出来ない。他愛ない話をすることも、喧嘩をすることも、笑顔を見ることもできなくなってしまった。
幼馴染にして、気心知れた将来を誓い願った愛する人も、いつも大きな声で溌剌としていた近所のおじさんもいない。国も、町も、家族も大切な人たちも何一つ、誰一人守れなかった。勇んで戦地へ行った人、できることならどこにも行かず、愛する人のもとで平穏に過ごしていたいと唇を噛み締めた人も、日の丸を振って見送った人たちも、誰一人居なくなった。ほんの少しの時間で、何もかもが変わってしまった。
暫くして復興が進み、元通りとはいかずとも賑わいの活気に灰色だった世界が色と光を取り戻しはじめた頃、遠く離れた病院に運ばれた人がいると報せを受けた。
駆けつけたそこに見える世界は、復興がすすむ世界にぽつんと取り残された戦場の様だった。ばくばくと強く打つ心臓が苦しいが、治療を続ける私を待つ人の元へ覚束無い足を一歩一歩と動かした。
目にしたのは赤が滲む包帯を所々に巻かれ、すこし痛々しそうにして微笑みをこちらに向ける幼馴染の姿だった、よく無事であったと、よく生き残ってくれたと傍に寄れば優しく抱きしめて労いの言葉をかけてくれた。駆り出された戦地で壮絶に戦い、生き抜いた先で孤独と絶望に身を焼かれた私に神様は大切な宝物を守ったのだと褒めてくれているような気がした。子供のようにみっともなく涙を流し嗚咽する私に、しゃんとしなさいと涙を流しながら笑顔を見せる彼女の姿に、私の心の中で燻っていた戦争の火種が静かに消えた。
彼女が退院をしたときには、仕事を見つけ必死に働いていた。こうしていると戦争があったこと、戦地に赴いて震える指で引き金を絞ったことも、銃後を想い必死に生きて帰ったことも無かったかのように世界が動いていた。仕事を終えて家に帰れば、あたたかく迎えてくれる家族がある。戦争さえなければ、特別なこともない当たり前のことと思っていた。
暮らしが落ち着き、私は幼馴染と契りを交わした。どんなときも支え合って、敬い愛し合って力の限り強く生きていこう。いつまでも隣で笑って手を取り合っていこうと誓って夫婦となり、互いにたったひとつの家族になった。
壮絶な人生と、歩んできた険しい道のりを話して聞かせてくださった旦那様。震える指で目元に残る涙を拭うと、そっと優しく隣に座る奥様の手を握る。私がたった一人守った愛する人なんだと照れる姿に、私はまた一粒の涙を流しながら幸せを感じました。
涙を流しながら旦那様が話をしてくださるなか、私も同様に涙が止まりませんでした。私の曽祖父やその親戚もまた戦争によって人生を大きく変えられたからということもございまして、旦那様の話が重なってしまったのです。 親戚から戦争について話を聞くことはありませんでしたが、祖母や祖父から聞いた話は私の心に強く焼き付いていたのです。
親類のなかには大切な何かひとつでも、誰かの大切な人ひとりでも助けたいと思い自衛官になった人が多いことは知っていました。そして、幹部自衛官として、部隊指揮をとっている人もいるのだと聞いておりました。
だから私も兄も自衛官になり、事ある時はと備えていました。必死に勉強をして飛び込んだ自衛隊の道は、病気がきっかけで退職することになって志を貫き尽くすことの出来ないままに遂にお役に立つこともできなくなったのです。せめて何か一つ、誰かのために僅かながらでもこの身を使えないかと考えて復興事業、この仕事に就いたので御座います。話を聞いてくれてありがとうと、涙を流しながら手を握る住民様。罵倒しながらも、最後には申し訳ないと頭を下げ、どうか元気に頑張ってくださいと真剣な面持ちで肩を叩く住民様。こうして沢山のお声を頂いて、私は私に出来ることをしっかりとやれているのだなと感じていたので御座います。そして、この胸の中にあった想いが旦那様の大義された話で打たれ涙を流したので御座います。
何の役にもたたず、自暴自棄になったり自己嫌悪で不貞腐れていた私は、話を聞いて情けなく格好悪いと自分を恥じました。
人間が存在する限り、例えどんなに小さな争いも尽きることは無く幾度も悲劇を繰り返していきます。
だけど、戦争なんて間違った選択をしないで欲しいと全ての国の、国民の上に立つ方に願ってやみません。