-ゆずぽんず-

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私の家族の中には絆や団結力など、血が繋がっている家族が持っているはずのものはなかった。幼い頃から、暴力で物事を解決する長男に殴られて育った。父親のいない家族の中では長子の姉がその役目を担うしかなく、姉は様々な重荷を背負っていた。次男の兄はマイペースだが感情的で、いつも拗ねたり喚いたりやしていた。そんな兄弟を見ていた私は、活発で人になつきやすく好奇心旺盛だがそれでいて至極冷静だった。末子の妹は、幼い頃は甘えん坊だったが男勝りで我の強い内弁慶娘になった。母はというと、若い頃にレディースでやんちゃをしていたりしていたこともあって何かあると怒鳴りあげるような性格だった。叱ることの出来ない親で、感情むき出しで怒鳴り散らしていた。もちろん、普段は優しい。父がいないのは、私が3歳の頃に亡くなったからだ。地元の極道の組員だった父は、カタギに戻ったあとも家族を大事にはしなかった。酒ばかり飲んで、金が尽きれば家のものを質に入れてはまた酒を買った。姉が大切にしていた陶器の貯金箱を壊して、その金でパチンコや競馬にも使った。到底、父とは呼べないような人間だった。それどころか人間としての品格を疑うような、自分勝手でだらしない人間だった。
そんな父は、長男だけはとても可愛がった。だから私たち兄弟には、父との親子らしい思い出などひとつもない。私には1度だけ肩車をしてもらった記憶があるが、あれはきっと気まぐれだったのだろう。家族は誰も父のことを良くは思わない。そして、一人だけ父に大切にされていた長男を家族皆が嫌った。私は人懐こい性格だったため、幼い頃から兄や兄の友達と毎日のように遊んでいた。その中には実の姉のように慕っていた、また実の弟のように可愛がってくれていた人もいた。その人が引っ越して行くことを知った時はとてもショックを受けたが、そんな私を長男は様々な遊びで慰めてくれた。もちろん、兄弟いつも仲良いわけが無く兄と喧嘩した時は殴られたひもした。私も包丁を持ち出して殺してやると暴れたりもした。とはいえ、やはり基本的には長男とは仲良くしていた。
私以外の家族から冷たくあしらわれていた長男は、いつしか非行に走るようになった。否、自分の存在を暴力や危険行為や迷惑行為という形で示したかっただけなのだろう。そうする他、自分自身を見てくれることがないと考えたのだろう。長男は小学生四年生の頃には、授業中に抜け出して学校内で遊び回っていた。学校中で長男のことが噂になり、危険だから関わらないようにしようといった雰囲気が流れていた。ただ、私には心強かった。悪口を言われたり、叩かれたりした時は兄に相談すればすぐに解決した。兄が相手を半殺しにするからだ。もちろん、私はそれが嬉しかったし間違っているとは思わなかった。兄は腫れ物扱いをされるが、私にはヒーローだった。私自身はクラスの中では弟のような立場だったので、普段はみんなから可愛がって貰っていた。
兄成長するにつれて、その行動が派手になっていった。しかし、成長するにつれて兄弟に手を挙げることはなくなった。しかし、小遣いを強請っては煩いと一蹴されては暴れていた。私の家族には、お小遣いなんて贅沢なものはなかった。友達はみんないつも財布をもっていたが、私たちにはそれがなかった。だから、長男の気持ちはよく分かっていた。中学に上がった長男は、女子に暴力を振るったり暴れ回っていたりして生徒指導の先生にボコボコにされることがよくあった。こう書くと、生活指導の先生が暴力野郎のように思うかもしれないが私たちには父のような存在だった。よく家に来ては、お菓子やケーキをくれたり相談に乗ってくれていたからだ。まだ小学生の私にも、中学に来たらよろしく頼むと笑顔を見せてくれていた。
中学を卒業した兄は、高校に通っていたが中退。バイトをしていたがこれも直ぐに辞めてしまった。どこでどのように知り合ったのか、暴走族のメンバーや暴力団に関係のある人間と遊ぶようになっていた。私もよく学校をサボって一緒にカラオケに行ったり、家で遊んだりしていた。皆優しくあたたかかった。きっと長男にとって家族から貰えない温もりや一体感を、彼らといることで得ていたのだろう。母や兄弟は長男のこの行動をよく思わなかった。不良とつるむな! と怒鳴っては長男の話など聞かず、気持ちも考えないで突き放していた。私はこの時には長男の孤独が痛いほどよくわかっていた。長男の抱える寂しさや、心の苦しみ。どれだけ叫んでも誰も耳を傾けてはくれないことへの絶望や苛立ちは、行動や言動を目にすれば明らかだった。不良グループとか変わっていれば、トラブルは付き物だ。リーダーの女に手を出しただのと因縁をつけられて、夜の海浜公園でリンチにされて肋骨を骨折した兄がボロボロで帰ってきた。翌日に病院へ連れていったのだが、その日のうちにいつも遊んでいる不良メンバーが家に来て土下座をして謝罪をしてきた。勘違いだったこと、リンチをして申し訳なく思っていること。今後も遊ばせて欲しいということを謝罪とともに懇願していた。母はこれを拒絶。長男のためではなく、純粋に不良が嫌いだからだ。顔を見せるな!二度と近づくな! と追い出したが、それ以降も長男は彼らと遊んでいたし私も仲良くしていた。
隣町の警察署から家に電話が入ったのは、しばらくしての事だった。物を盗んで通報するで駆けつけた警察から逃げるために、たまたま鍵が着いたままの原付を盗んだのだという。原付は使われていない田んぼに捨てられていたそうだ。家庭裁判所は鑑別所での指導が妥当と判断し、兄は家を去った。家族は皆、兄がいなくなって清々したと口々に胸をなでおろしていた。私にはそれが悲しかった。だから、面会には行かないが手紙は書いたし出所が決まればパーティの用意もした。家に帰ってきた長男は涙を流してありがとうと抱きしめてくれた。保護観察処分もついたので、長男と共に保護士の住職の元へ通った。坐禅をして読経を聞いて、お茶菓子を頂きながら説法を聞いた。こうして兄も穏やかになって行ったが、家族が何も変わらなければ問題は解決しない。結局、家族の態度が長男を硬化させた。
1年後の冬だった。日の出を見てくると言って家を出た長男は、帰ってこなかった。二ヶ月後に朝刊を手にした祖母が家を訪ねてきて、記事の内容を指さした。名前こそ書いては無いものの、長男ではないかと言う。まさかと思っていると、後日警察署から長男を逮捕したと連絡を受けた。拉致誘拐、監禁、暴行、恐喝や強盗で逮捕されたのだという。そして、兄と共に逮捕されたのは私もよく遊んでいたメンバーだった。少年院に送られた兄へ、欠かさず手紙を書いてその日あったことを話し合った。面会には行かなかった。私とは温度差のある家族と面会に行くのが嫌だった。外面のいい家族が嫌いだった。所内でてんかんを発症した長男は医療少年院へ移され、その半年後に家に帰ってきた。帰ってきた兄はグループホームにお世話になるようになって、そこでできた友達のことを楽しく話すようになった。それが嬉しくてたまらなかった。
その後に私は仙台に渡ったので、長男の状況が分からなかった。しかし、3年後に兄から連絡が来た。母から連絡先を教えてもらったと喜んでいた。帰ってきたら遊ぼうと、一緒に酒を飲もうと話した。そして、私は確認をしてみたこれまでの行動やその真意について。やはり、孤独から逃れるためだと言っていた。私がいつも変わらず接していたから、それがいつもいつも嬉しかった。救いだったと言ってくれた。

宮城から帰ってきて何度か顔を合わせたが長男が来る時はいつも出勤前で時間が無く二言三言しか話せなかった。グループホームで知り合った奥さんと、その連れ子を連れてきていた長男は幸せそうだった。だが、母は一方的に縁を切った。疎遠になってしまった長男が、どこでどう暮らしているのか分からない。分からないが、私が彼を想う気持ちはずっと変わらない。

きっと、また私だけでも縁を取り戻して一緒に酒を呑んだり釣りに出かけたりするんだ。


2/24/2023, 2:21:12 AM