生活している中で好きな物や嫌いなもの、大切にしていきたいものや大して興味のないものなど様々だ。楽器演奏者であれば楽器や、それこそマウスピースやチューナーのようなものまで拘りを持つ。スポーツ選手であればシューズやサポーター、インナーや道具。歌手や配信者はマイクや素材、イラストや世界観。色んな人がそれぞれに熱い思いをかけるが、仕事や趣味にとどまらず生活の一部のなんてことの無いものにまでこだわりを見せるひともいる。そして、その中には単に好き嫌いというものがあるのではない。特別な思いがあって、一際大切にしているものがある。これはなにも物理的なものばかりではなく、思想や理想、思考や気持ちの面も含まれる。
私は私を構成するこの人格その物が尊くてならないが、俗に言うナルシストでは無いことは先に述べておく。しかし、ナルシストを否定する意味でもないということも併せて伝えたい。というのは自分自身を大切にして愛してあげられるのは、やはり他の誰でもなく何者でもなく自分自身であるからである。自分の容姿や外見など客観的なものよりも、自分だけの考え方や想いというのが何よりも重要で尊く、大切に持っていなければならない。生きてきた中で経験しできたことに基づいて形成されてきたものは、性格や考え方といった深層心理からなるものだけでない。人と接する上で他人に向けるもの全てが、それまでに培い共にしてきた自分そのものである。いやいや繕っているだけだと、理想の自分を演じているだけだと考える者もいるだろう。周囲に合わせて生み出した虚構に過ぎず、素の自分は無様なものだと言う者もいるだろう。しかし、その虚構さえ身につけてきたカムフラージュの能力だ。周囲に合わせることができる協調性や共感性。その適応能力をなぜ自分自身が否定するのだろう、拒絶するのだろう。寧ろ胸を張って誇っていいものだと私は考えているが、それは私自身がそう感じてきたからである。素敵な人だとか穏やかで優しくて誠実な人だとか評価されてきたが、そのどれもは外面でしかなく外向きに作り上げた理想の自分だ。しかし、ある時にふと気がついた。その姿さえも作り出せるということは、本島はそういう人間なのだと。振る舞えるということは、知っているということ二他ならない。知らないことを知っているように装ったところで、いつか綻びが見え始めるだろう。他人から見れば滑稽に映るだろう。なぜなら、人は自身の経験のないことを語り演じる時というのは大きさに関わらず穴が目立つのだ。つまり、その穴を作らず自然体で自分を演じられるということは既に自分が理想の自分になっているということである。あんな風になりたい、こんな風になりたい。あの人みたいになりたい、あの人のように思われたい。様々な思いの中で理想とする自分の像を作り上げていくが、そこに至るまでの強い思いがある。これは誰にも真似できることではなく、その人の力でその人だけのものなのである。
簡単に言えば、なりたいと思った姿というのは気がつけばもう手にしている。本人が気がついていないだけで、いつまでも自分を過小評価して卑下しているに過ぎない。自分というのはなかなか客観的に捉えることは出来ない為、至極当然と言えるが何も知らないのと知ろうとしないのでは大きな違いがある。今こそ自分を客観視してみようということだ。では、そんなことどうやればいいのかと。できるならとっくにやっていると憤慨することなかれ、案外簡単にできるものだ。振り返ること、思い出すことでもできる。学生であれば友人との会話など日常の些細なことを思い出して、最初は漠然と俯瞰していく中でゆっくりとフォーカスしていく。どの様な状況でどの様な会話をして、相手はどの様な反応を見せたのか丁寧に見つめていく。イメージは何となく分かるけど、そんなことではいまいち掴みどころがない。便利な時代になったものである。スマホで通話をする時に録音をしてみると驚く程に、自分というものを客観的に見てとることが出来る。
歌手や演者、実況者や解説者。様々な媒体で活躍する配信者などは自身の声や話し方などを熟知しており、それを熟知して最大の魅力として武器にしている。そして聴き手の求めるものを探究し、追求してさらに磨きをかける。エゴサーチをしてどう見られているのか、どう感じているのか何を求められているのか。何を拒絶され否定されているのかを、時には心無い言葉で心を抉られながらも試行錯誤して成長している。表舞台に立てる人はそうかもしれないが、目立たず生活している自分に同じようなこと
できるわけが無い。そういうひとは、友人や知人に自分のことを包み隠さず 評価して欲しいと言ってみると有意義な答えが返って来るかもしれない。但し、どのようなことを言われても務めて冷静に受け止めるつもり出いなければならない。人に評価を仰ぐということは、自分にとって都合の良い返答を求めることではない。人から見て改善して欲しいなと思えるのだと伝えられたなら、これ好機とみて自己研鑽に邁進すればいい。何くそと反骨精神でもって、自分を変えることに必死になってもいい。いずれにせよ、自分の勝ちに直結するのだから。但し、そうか分かったと不貞腐れて下を向いてはならない。その時点で、それがその人の全てということだ。
私は、この考え方が割と好きでいる。この考え方や捉え方で人に大切にされてきたからだ。もちろん、私も精一杯の気持ちで接してきたからこそだとも自負している。
そう、私は私自身がお気に入りなんだ。
小学生の頃に学校の授業のなかで、10年後の自分に届くハガキを書いた。慣れの大仏様のもと保管され、大人になった自分へ届くと言ったものなのだ。しかし、いざ届いてみると何の気持ちも湧いてこなかった。それはきっと実感というものが、その時分の私にはなかったからだろう。その当時というのは、先の記事でも触れているが元々は反社の人間だった主要メンバーが営業をしていた会社に勤めていた。毎日怒鳴られ殴られ蹴られる日々、職長になってからは管理不行き届きだと絞められた。部下のミスは全てが責任者が背負うものだと、ケジメをつけさせられた。痣私の身体からが絶えることはなく、時には見せしめとして皆の前で殴られることもあった。そんな環境のなかにあって、きっと同級生やそれこそ同世代とも違う時間を生きていた私には自由も娯楽も何もなかった。外出を許された時には同僚と公園に行きバスケをしたり、喧嘩ではないがスパーリングとも言えないようなゲームをしたりした。たまに公園や外出先で同世代を見かけては、その自由を羨んだ。
求人を出していたのであろう、確実に少しづつ従業員は増えていくが私たちの環境に変化が訪れることはなかった。新しく加わった従業員は、住み込みだが別のアパートを用意されており給料も貰っていた。それ故に、同じ会社の仲間とは思うことが出来なかった。仕事ではそんなもの関係がないことは心得ている為、協力し合い笑いあっていたが仕事外では一切の絡みを持つことは無かった。私たちとは違う世界に住んでいることが羨ましく憎くもあったこと、現場では私たちはペットボトルに入れた水を飲んでいたが自販機で買った炭酸ジュースを美味しそうに飲む姿が目に写ることも要因ではあった。社長に私たちの現状を口止めされた訳では無いが、新規メンバーに話せばいつか社長の耳にも伝わるだろうことは容易に想像できた。暗黙の了解とでも言うか、古参メンバーは内々だけで愚痴を吐いては慰めあっていた。しかし、私の中では古参メンバーも仲間という意識はなかった。私がこの会社の体制に疑問を持ち、給料未払いや暴力について異議を唱え退職を申し出たところで彼らもまた私の敵に回っていたことがあったからだ。それはまるで一種の洗脳のような状態にあったのかもしれないと考えるのは、彼レから言わせてみれば住む家とあたたかい風呂や食事があるだけ幸せなのだそうだ。また、彼らの境遇もその思考に加速をかけていたのだろう。中年のメンバーは元々ホームレスやそれに近い状態にあった者がおり、若いメンバーでは親に捨てられた者や事情が会って地元を離れた者がいた。そんな彼らからしてみれば、暴力という力で支配された環境も生きていくには何ら不自由のないものだったのかもしれない。
一度職長を任せられてからというもの、社長をはじめ幹部から評価されたのか行く先々で職長や責任者を任せられた。当初は名ばかりで責任の押しつけのようだったそれも、次第にしっかりしていった。現場の状況報告もそれまでは日に何度も連絡しなければならなかったが、帰社したタイミングや夕食のタイミングでながら伝えでも済むようになった。作業人員を増やしたいときは連絡をして状況を伝えだが、怒鳴られることもなくなり二つ返事で快諾されるようになっていた。責任者として半年ほど過ごした頃、部長が事件を起こした。夜勤専従でプラントに入ることになったとき、そのメンバーを決めるのも社長は私に意見を仰いでくれた。そして部長が他の現場でポカをやって仕事がないから助けてやってくれと社長に頼まれた為、部長もメンバーに加えた。それまで日勤で入っていた私たちも夜勤専従ということで初めての夕方出勤に備え、生活リズムを変えるなど環境整備を徹底した。急な生活リズムの変化は体に不調や事故や怪我のリスクが高いことから、3日ほど順応期間を設けた。もちろん、夜勤になって加わるメンバーや日勤でやってきたメンバーにも通達した。部長にも三日間の順応期間を経て夜勤の作業に入る旨、備えて万全を期すようにと添えておいた。
四日後の夕方。現場まで二時間の道のりである為、17時過ぎに会社で借りている駐車場で集合した。ダブルキャブトラックのダイナとトヨタのカルディナの二台に、道工具を積み込み出発した。私はカルディナの助手席でメンバーにプラントの説明を済ませ談笑をしていた。すると現場まであと三十分という所で、後方を走るダイナのメンバーから連絡が入った。聞くに、部長が酒臭い気がするという。あと二十分も走れば右手に自販機が5台ほど並んだ空き地があるので、そちらに停車して確認してみようと伝え電話を切る。直ぐに社長へ連絡し状況を報告、二十分後に再度連絡する旨を伝えた。
泥酔していた。空き地に到着し、ダイナが来るのを待つ間というのは様々なストレスで吐きそうになっていた。夜勤移行の初日であり、人員を欠くことは出来ないという状況であるにも関わらず部長が酒臭いという。管理不足だと社長に絞められるかもしれないと思うと、気分がずんと重くなるのを感じた。というのも、評価され信頼を得たのかここのところはとても可愛がられていた。社長が買い物に行く時には付き添いを命じられ、酒などを好きなだけ与えてくれていた。それがまた元通りの過酷な日常に戻るかもしれないと思うと、立っているのも辛かった。
ダイナが遠くに見えた時、どんな状況なのかと無意味な想像してはどうしようかと考えを巡らせた。ダイナが停車して、運転していたメンバーや乗り込んでいたほかのメンバーが降りてくるなり臭いという。部長は後席で横になって眠っていた。ドアを開けた瞬間に酒の臭いがする。恐らく日本酒をたらふく飲んだのだろう車内に充満したなんとも言えない臭いに吐き気がしたが、躊躇わず部長を起こしにかかる。起きたは起きたのだが、やはり酔っ払っていた。「寝てるんだ、起こすなよ。お前後で覚えてろよ」と捲し立ててくる。ストレスがグッとのしかかってくる。殴り掛かりたい気持ちを抑えて、務めて冷静に社長へ電話をかけた。「はいよ」と社長が電話に出た声を聞いて直ぐに謝罪と説明をした。しかし、「おめーは悪くねぇよ。むしろ俺が悪い。面倒を見てくれって言ったのに、こんな事になって申し訳ない。いま、俺らも向かってるから気にせず仕事してくれ。元請けには頭下げといてくれ。着いたら電話する」と社長は電話を切った。
二時間後に電話がなる。着いたから迎えに来て欲しいという連絡を受け、ゲートまで十五分の道のりを全力で走った。社長をダイナまで案内すると、全てのドアの鍵が施錠されていた。このプラントのプールで車の施錠は禁止されていることは全メンバーが知っているが、念の為運転をしていたメンバーに確認するとしてめいないという。鍵もグローブボックスにあるという。そこからは、社長や専務。常務や本部長とともに車体を揺すったり叩くなどしてぶちょうを起こした。鍵を開けろとさけぶ社長に驚いたのか部長は直ぐに鍵を開ける。ドアを開けた社長が部長の息の根を止めるのでは無いかと緊張したが、そのまま社長の車に蹴り飛ばして攫っていった。
翌日、夜勤明けに帰社して食事をしていると社長が目の前の席に座って「おはようさん。お疲れさん。大変だったな」と笑った。そして「車の中で五発くらい、たぐったから今は顔面がボコボコで合わせられないからまた今度詫びを入れさせるな」とサラッととんでもないことを口にした。以降は部長を現場に入れることはなくなったのは言うまでもない。
ここまで話すと最後には気を許してくれた社長の元で楽しく過ごしているように思えるかもしれないが、そんなに甘くはない。外出は近所の公園までで、いい大人がボール遊びをしに行くだけなのだから情けない。その辺の小学生の方がお金を持っているほどだ。そんななかで、心から楽しめるわけも安らげるわけもない。誰にも言わず、抜け出す計画を着々と進めていたのである。そのために信頼を築いてきた。二年と半年ほど、そうして心の中であれやこれやと考えて過ごしてきたのだ。
例えば、今私が十年前の私に声をかけるとするならば。手紙をあてるとするならば「なるようになる。なるようにしかならないから、今できることをできるだけしとけ」だろう。そして、きっ十年後から届いた私からの手紙にも同じことが書いてあるのだろう。私はこの生き方で生きてきた。この考え方で生きてきた。そしてどんな時も、結局は何とかなってきたのだ。その積み重ねの上に生きていて、十年後の私はその更に高いところで笑っているだろうさ。
現在も過去も、紛争や戦争をはじめ多くの争い事が繰り返されてきた。そして今まさに先頭の渦中にある地域もあるが、殆どの方がロシアとウクライナ間で起きている戦争であろう。戦闘が弱まることはなく、今なお両国ともに多くの命が失われている。一部を除き、多くの兵士が戦闘を拒み戦争を否定し嘆いているが逃げることは許されずやむなく戦地を駆けまわり引き金に指をかけている。現在はニュースでも周知の事実だが、PMCといった民間の企業や組織が戦争に介入している。そして各国が兵器の支援等を開始していることから状況は#益々悪化の一途辿ること必至。
激しい戦闘、命の奪い合いを伴う争いというのはなにもロシアとウクライナの間だけに限らず多くの国と地域で発生しており解決されないでいる。ミャンマーもニュースで取り上げられることから認知している人は多いだろうが、その他の地域でも悲劇は続いている。ロシアやウクライナのような国家間の軋轢によるものではなく、武装組織同士による戦闘や政府と武装組織の間で起きるものもある。情報操作され嘘八百を平然と報道するテレビや新聞、ネット記事などではなかなか見聞を得られない。しかし、事実として各地で人が人の命を奪い合っている。宗教観の考え方の違いや、国を憂い嘆く者たちによる革命。改革や革命をもって新時代を願う者たちによる決死の戦い。それは様々である。
誰もが簡単に想像出来る第二次世界大戦や、第一次世界大戦。これらの戦いは世界中が 混沌のなかでしのぎを削っていた。人と人の争いに機械が参入し、より残虐で凄惨なものとなったが、過去に置いては知恵や戦略でもって多くの人間同士が命を奪い合ってきた。妻子を残して帰ってこられる保証もなく戦地へ送られ、あちらへこちらへ駆け回り身を削った。一生を添い遂げると誓う若者が、帰ってきたら結婚をしようと手を握りあって涙を流し無念に散っていった。
若者が結婚をすることで愛するものを残して戦地に赴くことで指揮低下の懸念があると危ぶみ、抑止のために結婚を禁止した者がいる。ローマ帝政時代のこと。皇帝クラウディウス2世による施策であるが、これにより愛を誓うはずだった若者たちはその想いを叶えることが出来なくなった。これを哀れんだキリスト教聖職者であった司祭のヴァレンティヌス二世で、命令に背き極秘で結婚式を執り行っていた。若者たちにはこの司祭が神の遣わした御使いのようであっただろう、希望の光であったであろう。しかし、皇帝クラウディウス二世がこれを見逃すはずはなくヴァレンティヌスに対して幾度も警告をしていた。命令に従い余計な真似をするなと、釘を刺していたがヴァレンティヌスは己の信念を突き通した。つまるところ、皇帝の命令を無視することを貫いたのである。これにより多くの若者が婚姻にこぎ着くことができ、生涯の愛を誓い合うことが出来たのである。
しかし司祭ヴァレンティヌス二世の救済の手は長くは続かなかったのは、命令に背いたことにより皇帝により処刑されたからである。2月15日の豊穣祭のルカペリア祭り前日の2月14日、ヴァレンティヌスはその生涯を終えた。最後まで聖職者として、自分としての信念を曲げることなく救済に尽くしたのだ。毎年2月になると、このことを考えては現代と過去を比較し考え込んでしまう。そして、14日のバレンタインついて様々な想いが駆け巡る。
バレンタインにチョコを渡すというのは、日本特有の習慣であるがこれは国民性からなるものだ。しかしながら、様々な形や習慣あれど世界中で大切な人を想い合う尊くとても大事な一日であることは変わらない。どんな形や方法であれ、大切な人に大切な想いを伝えることはとても素敵なことである。
日本において、チョコ作りというのは社会に出れば半ば義務的な要素がある。しかし、これら無駄な習慣は無視してしまってよいと私は考えている。せめて2月14日の一日くらいは、想い人に特別な思いを寄せて欲しいのだ。ありったけの想いを、気持ちを伝えて欲しい。この一日くらい、二人で人生を噛み締めて欲しい。たとえ忙しくとも、電話でもいい声だけでもいいのだ。チョコよりも、豪勢な食事やあつい抱擁よりも言葉で想いを投げかけるということを意識して欲しい。大切にしてぽしい。
今はもう会うことは出来ない友が一人いる。顔こそはっきりとは思い出せないが、時に怒って時に無邪気に笑う彼の姿は瞼の裏に焼き付いて離れない。否、魂に刻み込まれているようにいつまでも焦ることなく私の記憶の中にある。彼との出会いや思い出は先の記事で触れたのでこの場では触れずに話進めようと思う。
私の家族は母に兄弟が五人で構成されているが、父が居ないのは私が幼少の頃に他界したからだ。かといえ、寂しさや悲しさというものは無いのは可愛がってもらった記憶が全くないからだ。極道の事務所の構成員だった父は、母や私たちに関心がなかった。兄弟で唯一可愛がられたのは長男だけだろう。極道を辞めた後の父はろくに仕事をせず、借金をつくっては母が頭を下げていた。家のものを持ち出しては、勝手に質に入れてはその金でギャンブルや酒に使う。どこまでも母に負担をかけては、自分は怠惰な生活を送っていた。幼かった私の記憶などあるはずもなく、全ては母や兄弟から聞いた話であるが胸焼けのする内容であることは確かである。記憶がなくて良かったといえる。
ある夜、いつものように酒を煽っていた父は大量の血を吐いた。救急車を呼ぼうとする母を「呼ぶな。ワシが生きとったら迷惑をかける」といい制した。母の呼んだ救急車の中で搬送中に息を引き取ったらしいが、最後に「迷惑をかけたのう」と言い残したと母は語る。世話になった覚えも、親子としての記憶も父との間にはないが考えてしまう。父はどうして極道の道に進んだのどろうか。本当はどのような生き方をしたかったのか。心の内では何を思い、何を考えていたのだろうかと仕方の無いことを考えてしまう。心残りがあったのではないか。本当は家族と上手く向き合えないだけだったのでは無いかなど、私が考えたところで無意味であるが最期の時を自分に置き換えると胸が苦しくなる。
関係や記憶の薄い相手でさえ、この世を去った者のことを考えるとキリがなくなってしまう。人というのは、生きている人間には言うほど強く意識をしない。好きあったり嫌い会ったり、憎んだり寝たんだリはするが表面的であるように考えている。というのも、わたしも人間であるから人を嫌うことはあるし疎ましく思うことがある。亡くなった友や父に祖父や祖母のほか、自衛官の頃に亡くした同期のこと。生きている人間のことを考えている時と言うとは、感情が激しく起伏するのを感じるがもう会うことの出来ない人のことを考えると深く深く考え込んでしまう。いや、考えるというより思いを馳せるという表現が近いだろうか。直接聞く事は出来ず、表情を見ることも出来ない。そういったことがそうさせるのだう。
癇癪の気持ちや、後悔の念などは誰にでもあるものだろう。そして胸に秘めていることだろう。しかし、直接伝えるというのは好きな相手や嫌いな相手にかぎらず生きているうちにしか出来ない。仏前で手を合わせて心を込めて祈ったところ手間、相手のことは分かりようもない。生きている人間はすぐに反応をしてしてくれるだろうが。
「毎日、言葉にして伝えた方がいい」とよく耳にするが、これは正にその通りであろう。「明日でいいや」、「今度伝えよう」、「分かってくれているだろう」などのエゴは全てが無駄で愚かである。今生きている時間というのは有限であり、その時というのは誰にも分からない。タカをくくっていれば、その時に公開をするのは本人だ。そして恐らく故人もまた、心残りを抱えて心静かに眠ることが出来ないだろう。伝えたいことはどのような些細なことも、思い立ったその時がベストなタイミングであることを忘れてはならない。
私は母や兄弟、知人などには声を出して伝えるようにしている。いつ会えなくなるとも分からない大切な人たちだからだ。しかし天国に先だった友や同期、親戚などにはもう伝えられないこの想い。いつ尽きるの如何様に果てるか分からないが、この人生を終えた時にはあちらの世界でまた会い見えよう。そしてその時に精一杯の気持ちをぶつけるのだ。いつになるか分からないが、あちらの世界には時間などというものは無いという。ならば、私の生きる時間など考えたところで仕方の無いことだ。いったときに笑顔で久しぶりと手を握ろう。肩を抱こう。面と向かって煮詰めた気持ちを投げかけてみるとしよう。
さて、果てるその時まで
とりあえずは今日を生きてみようか。
伝えられず胸の中で募る想いに何をすることも出来ないでいるのは、私だけではないだろう。これまでに出会ってきた沢山のひとのなかには、世話になって頭の上がらないひとや失礼をしてしまって頭を下げたいひともいる。プライベートやビジネスにかかわらず、様々な立場や仕事をしているひとと仲良くさせていただけた私はなんと光栄なことか。しかし、その中にもやはりと言うべきか想いを伝えたい相手というのは幾らかいるものだ。それぞれに伝えたいことは様々だが、今となっては伝える術はもうない。
知人と起業して3年目のことだろうか、震災復興事業も震災廃棄物処理が終わり各地域の手付かずのインフラが修繕され始めた。この頃の私はと言うと、会社が詐欺の被害に逢い1文無し同然にまで陥っていた為にひたすら途方に暮れていた。先般のお題でこの部分について触れているのでここでは割愛させて頂くとするが、この時分では本当に沢山の励ましがあって立ち直り再び歩みを始めていた。私たちの会社は震災復興の盛り上がりに乗るようにして企業したがものだが、このときというのは「福島県南相馬市生活圏除染事業」に従事させて頂いていた。3次請けで現場入りした私以下二名は、宅地の除染作業ではなく別の部署に配属された。新規入場してすぐに労災事故などで作業が 止まり 、私たちは一度の作業実績もなく「恐らく1週間ほど動かないから帰ってていいよ」と班長に告げられた。これから頑張ろうという時に出鼻をくじかれた思いで仙台に戻った。詐欺の被害があって私たちには生活する金がほとんどない中で、この作業中断というのは相当に苦しかった。日給月給の私たちは仕事に出なければ賃金が発生しないが、会社を起こした私にもそれは言えることだ。役員とはいえ現場に出なければ金にならない、米粒ほどの会社だ。班長から勉強しておくようにと渡された図面に三角スケールを当て、定規を当て、筆を動かす毎日。まだかまだかとハラハラして気持ちで過ごしていた。
「来週から動く」と班長から連絡を受け、従業員に招集をかけた。また南相馬市へ向かう道すがら、上手くやって行けるだろうか。生活は安定するだろうか。様々な不安が駆け巡り、胃がキリキリと痛むのを感じてはため息を吐いた。原町区牛来にある事業所経戻り、班長に連絡をしたのだが「まぁ、現場止まることなんてあまりねぇからわ、安心して真面目に仕事さ頑張ってればいいよわ」と開口一番に告げられた。彼は私や私の会社の事情など知りはしないが、入場直後に仕事が止まってしまった私たちの気持ちを察したのだろう。
それからは毎日慌ただしかった。私たちにはノルマがあったこと、私がまだ慣れていないこともあって時間が足りないと思う日々が続いた。私は南相馬市内のお宅を訪問して調査をする部署に就いていた。初日から班長と二人一組で業務にあたっていたが、一週間ほど経っただろうか。私は 班長とより効率よく仕事をこなすために分業化をしていた。班長が計測をして読み上げて、私が即座に図面に落とし込む。一人で計測出来ないところは二人で計測をした。全てのお宅を周り終えて、車の中で図面を仕上げて事務所へ戻る。事務所でもうは班長ともう一度図面を確認して細かい部分の修正を施して職長へ提出した。この時は一班あたり四件が一日のノルマだったが私たちの班は調査自体は昼前には終えていた。住宅地の団地ということもあり、建物以外は土地の大きさや形が近似していたことが幸いしていたのだろう。
周囲から見れば、分業化はいいものとしては映らなかったようだ。事務所内では私ばかりが図面を書くことを可哀想だなどといあ声が溢れていたが、私はこの体制を寧ろ好都合と捉えていた。分業化することで、私は他の班員の倍の数を処理することになりすぐにおいたく事ができ、技術習得も早かったからだ。ノルマが六件になってもそれは変わらなかったが、班長と私で決めたこと。不満も負担も無かった。私が書いて班長が確認をして、抜けを修正してまた私が確認するという作業もミスを予防していた。業務にあたって二ヶ月が過ぎようかという頃に 、班を増やすということで私たちの班は解体され、班長は別の新人の班員を受け持った。そして私はと言うと、「他の奴らの仕事を見てみて。それで教えてやって。君の方が仕事ができるんだから誰も文句は言わないよ」と職長から指示をを受けた。
私は酒好きな先輩とペアを組んだが、それはそれは苦労した。基本など皆無で、早く仕事を終えたいとばかりに適当な作業。私は彼と一月過ごし、基本を思い出してもらい初心に立ち返ってもらった。酒好きな先輩の教育指導が進むと、また班を解体され新たな班を作る。そしてまた違う先輩とペアを組む。それを何度か繰り返して、先輩たちは当初のペアで班を構成され私は新人と仕事をすることになった。この頃になると、とにかく毎日が充実していて楽しく幸せだった。私たちの会社の従業員も15名程にまで増えたことで盛り上がりを見せていた。。
生活圏除染事業から撤退したのは新規入場から二年と半年ほどのこと。今度は南相馬市内の県道の除染事業に従事する事になった為の撤退だったのだが、私には仲良くなった先輩やJV職員との別れが辛かったが、この話はまたの機会にでも話そう。
南相馬市の除染事業で最初にお世話になった班長は、地元の方で原発事故の被害者でもあった。元は大工など建築の仕事をしていたという、面倒見が良く真面目だがよく笑う愉快な人だった。班長は仕事の都合が出来たからと、ふと辞めていった。挨拶などまともに出来やしなかった。私が評価されるようになったのは班長の指導があったからだが、ついにはそのお礼も伝えられなかった。その後はどこで何をしているのか分からない。連絡先も変わっているようでどうしようもない。二年半の中で、この班長とすごした時間が何よりも充実していた。今でもあの頃に戻りたいと願ってしまう。それほどに人生で一番有意義だった。
誰にでも、想いを伝えたくても伝えられない相手というのはいるだろう。想いを伝えられず公開している人も少なくないだろう。今まさに、近しい人には恥ずかしくとも素直に想いを告げることを躊躇わないで欲しい。恥ずかしさなどその時の一瞬でしかない。後悔は一生続くのだから。