-ゆずぽんず-

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小学生の頃に学校の授業のなかで、10年後の自分に届くハガキを書いた。慣れの大仏様のもと保管され、大人になった自分へ届くと言ったものなのだ。しかし、いざ届いてみると何の気持ちも湧いてこなかった。それはきっと実感というものが、その時分の私にはなかったからだろう。その当時というのは、先の記事でも触れているが元々は反社の人間だった主要メンバーが営業をしていた会社に勤めていた。毎日怒鳴られ殴られ蹴られる日々、職長になってからは管理不行き届きだと絞められた。部下のミスは全てが責任者が背負うものだと、ケジメをつけさせられた。痣私の身体からが絶えることはなく、時には見せしめとして皆の前で殴られることもあった。そんな環境のなかにあって、きっと同級生やそれこそ同世代とも違う時間を生きていた私には自由も娯楽も何もなかった。外出を許された時には同僚と公園に行きバスケをしたり、喧嘩ではないがスパーリングとも言えないようなゲームをしたりした。たまに公園や外出先で同世代を見かけては、その自由を羨んだ。
求人を出していたのであろう、確実に少しづつ従業員は増えていくが私たちの環境に変化が訪れることはなかった。新しく加わった従業員は、住み込みだが別のアパートを用意されており給料も貰っていた。それ故に、同じ会社の仲間とは思うことが出来なかった。仕事ではそんなもの関係がないことは心得ている為、協力し合い笑いあっていたが仕事外では一切の絡みを持つことは無かった。私たちとは違う世界に住んでいることが羨ましく憎くもあったこと、現場では私たちはペットボトルに入れた水を飲んでいたが自販機で買った炭酸ジュースを美味しそうに飲む姿が目に写ることも要因ではあった。社長に私たちの現状を口止めされた訳では無いが、新規メンバーに話せばいつか社長の耳にも伝わるだろうことは容易に想像できた。暗黙の了解とでも言うか、古参メンバーは内々だけで愚痴を吐いては慰めあっていた。しかし、私の中では古参メンバーも仲間という意識はなかった。私がこの会社の体制に疑問を持ち、給料未払いや暴力について異議を唱え退職を申し出たところで彼らもまた私の敵に回っていたことがあったからだ。それはまるで一種の洗脳のような状態にあったのかもしれないと考えるのは、彼レから言わせてみれば住む家とあたたかい風呂や食事があるだけ幸せなのだそうだ。また、彼らの境遇もその思考に加速をかけていたのだろう。中年のメンバーは元々ホームレスやそれに近い状態にあった者がおり、若いメンバーでは親に捨てられた者や事情が会って地元を離れた者がいた。そんな彼らからしてみれば、暴力という力で支配された環境も生きていくには何ら不自由のないものだったのかもしれない。
一度職長を任せられてからというもの、社長をはじめ幹部から評価されたのか行く先々で職長や責任者を任せられた。当初は名ばかりで責任の押しつけのようだったそれも、次第にしっかりしていった。現場の状況報告もそれまでは日に何度も連絡しなければならなかったが、帰社したタイミングや夕食のタイミングでながら伝えでも済むようになった。作業人員を増やしたいときは連絡をして状況を伝えだが、怒鳴られることもなくなり二つ返事で快諾されるようになっていた。責任者として半年ほど過ごした頃、部長が事件を起こした。夜勤専従でプラントに入ることになったとき、そのメンバーを決めるのも社長は私に意見を仰いでくれた。そして部長が他の現場でポカをやって仕事がないから助けてやってくれと社長に頼まれた為、部長もメンバーに加えた。それまで日勤で入っていた私たちも夜勤専従ということで初めての夕方出勤に備え、生活リズムを変えるなど環境整備を徹底した。急な生活リズムの変化は体に不調や事故や怪我のリスクが高いことから、3日ほど順応期間を設けた。もちろん、夜勤になって加わるメンバーや日勤でやってきたメンバーにも通達した。部長にも三日間の順応期間を経て夜勤の作業に入る旨、備えて万全を期すようにと添えておいた。
四日後の夕方。現場まで二時間の道のりである為、17時過ぎに会社で借りている駐車場で集合した。ダブルキャブトラックのダイナとトヨタのカルディナの二台に、道工具を積み込み出発した。私はカルディナの助手席でメンバーにプラントの説明を済ませ談笑をしていた。すると現場まであと三十分という所で、後方を走るダイナのメンバーから連絡が入った。聞くに、部長が酒臭い気がするという。あと二十分も走れば右手に自販機が5台ほど並んだ空き地があるので、そちらに停車して確認してみようと伝え電話を切る。直ぐに社長へ連絡し状況を報告、二十分後に再度連絡する旨を伝えた。
泥酔していた。空き地に到着し、ダイナが来るのを待つ間というのは様々なストレスで吐きそうになっていた。夜勤移行の初日であり、人員を欠くことは出来ないという状況であるにも関わらず部長が酒臭いという。管理不足だと社長に絞められるかもしれないと思うと、気分がずんと重くなるのを感じた。というのも、評価され信頼を得たのかここのところはとても可愛がられていた。社長が買い物に行く時には付き添いを命じられ、酒などを好きなだけ与えてくれていた。それがまた元通りの過酷な日常に戻るかもしれないと思うと、立っているのも辛かった。
ダイナが遠くに見えた時、どんな状況なのかと無意味な想像してはどうしようかと考えを巡らせた。ダイナが停車して、運転していたメンバーや乗り込んでいたほかのメンバーが降りてくるなり臭いという。部長は後席で横になって眠っていた。ドアを開けた瞬間に酒の臭いがする。恐らく日本酒をたらふく飲んだのだろう車内に充満したなんとも言えない臭いに吐き気がしたが、躊躇わず部長を起こしにかかる。起きたは起きたのだが、やはり酔っ払っていた。「寝てるんだ、起こすなよ。お前後で覚えてろよ」と捲し立ててくる。ストレスがグッとのしかかってくる。殴り掛かりたい気持ちを抑えて、務めて冷静に社長へ電話をかけた。「はいよ」と社長が電話に出た声を聞いて直ぐに謝罪と説明をした。しかし、「おめーは悪くねぇよ。むしろ俺が悪い。面倒を見てくれって言ったのに、こんな事になって申し訳ない。いま、俺らも向かってるから気にせず仕事してくれ。元請けには頭下げといてくれ。着いたら電話する」と社長は電話を切った。
二時間後に電話がなる。着いたから迎えに来て欲しいという連絡を受け、ゲートまで十五分の道のりを全力で走った。社長をダイナまで案内すると、全てのドアの鍵が施錠されていた。このプラントのプールで車の施錠は禁止されていることは全メンバーが知っているが、念の為運転をしていたメンバーに確認するとしてめいないという。鍵もグローブボックスにあるという。そこからは、社長や専務。常務や本部長とともに車体を揺すったり叩くなどしてぶちょうを起こした。鍵を開けろとさけぶ社長に驚いたのか部長は直ぐに鍵を開ける。ドアを開けた社長が部長の息の根を止めるのでは無いかと緊張したが、そのまま社長の車に蹴り飛ばして攫っていった。
翌日、夜勤明けに帰社して食事をしていると社長が目の前の席に座って「おはようさん。お疲れさん。大変だったな」と笑った。そして「車の中で五発くらい、たぐったから今は顔面がボコボコで合わせられないからまた今度詫びを入れさせるな」とサラッととんでもないことを口にした。以降は部長を現場に入れることはなくなったのは言うまでもない。
ここまで話すと最後には気を許してくれた社長の元で楽しく過ごしているように思えるかもしれないが、そんなに甘くはない。外出は近所の公園までで、いい大人がボール遊びをしに行くだけなのだから情けない。その辺の小学生の方がお金を持っているほどだ。そんななかで、心から楽しめるわけも安らげるわけもない。誰にも言わず、抜け出す計画を着々と進めていたのである。そのために信頼を築いてきた。二年と半年ほど、そうして心の中であれやこれやと考えて過ごしてきたのだ。


例えば、今私が十年前の私に声をかけるとするならば。手紙をあてるとするならば「なるようになる。なるようにしかならないから、今できることをできるだけしとけ」だろう。そして、きっ十年後から届いた私からの手紙にも同じことが書いてあるのだろう。私はこの生き方で生きてきた。この考え方で生きてきた。そしてどんな時も、結局は何とかなってきたのだ。その積み重ねの上に生きていて、十年後の私はその更に高いところで笑っているだろうさ。

2/16/2023, 2:42:33 AM