-ゆずぽんず-

Open App

生活している中で好きな物や嫌いなもの、大切にしていきたいものや大して興味のないものなど様々だ。楽器演奏者であれば楽器や、それこそマウスピースやチューナーのようなものまで拘りを持つ。スポーツ選手であればシューズやサポーター、インナーや道具。歌手や配信者はマイクや素材、イラストや世界観。色んな人がそれぞれに熱い思いをかけるが、仕事や趣味にとどまらず生活の一部のなんてことの無いものにまでこだわりを見せるひともいる。そして、その中には単に好き嫌いというものがあるのではない。特別な思いがあって、一際大切にしているものがある。これはなにも物理的なものばかりではなく、思想や理想、思考や気持ちの面も含まれる。
私は私を構成するこの人格その物が尊くてならないが、俗に言うナルシストでは無いことは先に述べておく。しかし、ナルシストを否定する意味でもないということも併せて伝えたい。というのは自分自身を大切にして愛してあげられるのは、やはり他の誰でもなく何者でもなく自分自身であるからである。自分の容姿や外見など客観的なものよりも、自分だけの考え方や想いというのが何よりも重要で尊く、大切に持っていなければならない。生きてきた中で経験しできたことに基づいて形成されてきたものは、性格や考え方といった深層心理からなるものだけでない。人と接する上で他人に向けるもの全てが、それまでに培い共にしてきた自分そのものである。いやいや繕っているだけだと、理想の自分を演じているだけだと考える者もいるだろう。周囲に合わせて生み出した虚構に過ぎず、素の自分は無様なものだと言う者もいるだろう。しかし、その虚構さえ身につけてきたカムフラージュの能力だ。周囲に合わせることができる協調性や共感性。その適応能力をなぜ自分自身が否定するのだろう、拒絶するのだろう。寧ろ胸を張って誇っていいものだと私は考えているが、それは私自身がそう感じてきたからである。素敵な人だとか穏やかで優しくて誠実な人だとか評価されてきたが、そのどれもは外面でしかなく外向きに作り上げた理想の自分だ。しかし、ある時にふと気がついた。その姿さえも作り出せるということは、本島はそういう人間なのだと。振る舞えるということは、知っているということ二他ならない。知らないことを知っているように装ったところで、いつか綻びが見え始めるだろう。他人から見れば滑稽に映るだろう。なぜなら、人は自身の経験のないことを語り演じる時というのは大きさに関わらず穴が目立つのだ。つまり、その穴を作らず自然体で自分を演じられるということは既に自分が理想の自分になっているということである。あんな風になりたい、こんな風になりたい。あの人みたいになりたい、あの人のように思われたい。様々な思いの中で理想とする自分の像を作り上げていくが、そこに至るまでの強い思いがある。これは誰にも真似できることではなく、その人の力でその人だけのものなのである。
簡単に言えば、なりたいと思った姿というのは気がつけばもう手にしている。本人が気がついていないだけで、いつまでも自分を過小評価して卑下しているに過ぎない。自分というのはなかなか客観的に捉えることは出来ない為、至極当然と言えるが何も知らないのと知ろうとしないのでは大きな違いがある。今こそ自分を客観視してみようということだ。では、そんなことどうやればいいのかと。できるならとっくにやっていると憤慨することなかれ、案外簡単にできるものだ。振り返ること、思い出すことでもできる。学生であれば友人との会話など日常の些細なことを思い出して、最初は漠然と俯瞰していく中でゆっくりとフォーカスしていく。どの様な状況でどの様な会話をして、相手はどの様な反応を見せたのか丁寧に見つめていく。イメージは何となく分かるけど、そんなことではいまいち掴みどころがない。便利な時代になったものである。スマホで通話をする時に録音をしてみると驚く程に、自分というものを客観的に見てとることが出来る。
歌手や演者、実況者や解説者。様々な媒体で活躍する配信者などは自身の声や話し方などを熟知しており、それを熟知して最大の魅力として武器にしている。そして聴き手の求めるものを探究し、追求してさらに磨きをかける。エゴサーチをしてどう見られているのか、どう感じているのか何を求められているのか。何を拒絶され否定されているのかを、時には心無い言葉で心を抉られながらも試行錯誤して成長している。表舞台に立てる人はそうかもしれないが、目立たず生活している自分に同じようなこと
できるわけが無い。そういうひとは、友人や知人に自分のことを包み隠さず 評価して欲しいと言ってみると有意義な答えが返って来るかもしれない。但し、どのようなことを言われても務めて冷静に受け止めるつもり出いなければならない。人に評価を仰ぐということは、自分にとって都合の良い返答を求めることではない。人から見て改善して欲しいなと思えるのだと伝えられたなら、これ好機とみて自己研鑽に邁進すればいい。何くそと反骨精神でもって、自分を変えることに必死になってもいい。いずれにせよ、自分の勝ちに直結するのだから。但し、そうか分かったと不貞腐れて下を向いてはならない。その時点で、それがその人の全てということだ。


私は、この考え方が割と好きでいる。この考え方や捉え方で人に大切にされてきたからだ。もちろん、私も精一杯の気持ちで接してきたからこそだとも自負している。


そう、私は私自身がお気に入りなんだ。

2/18/2023, 3:59:04 AM