-ゆずぽんず-

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伝えられず胸の中で募る想いに何をすることも出来ないでいるのは、私だけではないだろう。これまでに出会ってきた沢山のひとのなかには、世話になって頭の上がらないひとや失礼をしてしまって頭を下げたいひともいる。プライベートやビジネスにかかわらず、様々な立場や仕事をしているひとと仲良くさせていただけた私はなんと光栄なことか。しかし、その中にもやはりと言うべきか想いを伝えたい相手というのは幾らかいるものだ。それぞれに伝えたいことは様々だが、今となっては伝える術はもうない。
知人と起業して3年目のことだろうか、震災復興事業も震災廃棄物処理が終わり各地域の手付かずのインフラが修繕され始めた。この頃の私はと言うと、会社が詐欺の被害に逢い1文無し同然にまで陥っていた為にひたすら途方に暮れていた。先般のお題でこの部分について触れているのでここでは割愛させて頂くとするが、この時分では本当に沢山の励ましがあって立ち直り再び歩みを始めていた。私たちの会社は震災復興の盛り上がりに乗るようにして企業したがものだが、このときというのは「福島県南相馬市生活圏除染事業」に従事させて頂いていた。3次請けで現場入りした私以下二名は、宅地の除染作業ではなく別の部署に配属された。新規入場してすぐに労災事故などで作業が 止まり 、私たちは一度の作業実績もなく「恐らく1週間ほど動かないから帰ってていいよ」と班長に告げられた。これから頑張ろうという時に出鼻をくじかれた思いで仙台に戻った。詐欺の被害があって私たちには生活する金がほとんどない中で、この作業中断というのは相当に苦しかった。日給月給の私たちは仕事に出なければ賃金が発生しないが、会社を起こした私にもそれは言えることだ。役員とはいえ現場に出なければ金にならない、米粒ほどの会社だ。班長から勉強しておくようにと渡された図面に三角スケールを当て、定規を当て、筆を動かす毎日。まだかまだかとハラハラして気持ちで過ごしていた。
「来週から動く」と班長から連絡を受け、従業員に招集をかけた。また南相馬市へ向かう道すがら、上手くやって行けるだろうか。生活は安定するだろうか。様々な不安が駆け巡り、胃がキリキリと痛むのを感じてはため息を吐いた。原町区牛来にある事業所経戻り、班長に連絡をしたのだが「まぁ、現場止まることなんてあまりねぇからわ、安心して真面目に仕事さ頑張ってればいいよわ」と開口一番に告げられた。彼は私や私の会社の事情など知りはしないが、入場直後に仕事が止まってしまった私たちの気持ちを察したのだろう。
それからは毎日慌ただしかった。私たちにはノルマがあったこと、私がまだ慣れていないこともあって時間が足りないと思う日々が続いた。私は南相馬市内のお宅を訪問して調査をする部署に就いていた。初日から班長と二人一組で業務にあたっていたが、一週間ほど経っただろうか。私は 班長とより効率よく仕事をこなすために分業化をしていた。班長が計測をして読み上げて、私が即座に図面に落とし込む。一人で計測出来ないところは二人で計測をした。全てのお宅を周り終えて、車の中で図面を仕上げて事務所へ戻る。事務所でもうは班長ともう一度図面を確認して細かい部分の修正を施して職長へ提出した。この時は一班あたり四件が一日のノルマだったが私たちの班は調査自体は昼前には終えていた。住宅地の団地ということもあり、建物以外は土地の大きさや形が近似していたことが幸いしていたのだろう。
周囲から見れば、分業化はいいものとしては映らなかったようだ。事務所内では私ばかりが図面を書くことを可哀想だなどといあ声が溢れていたが、私はこの体制を寧ろ好都合と捉えていた。分業化することで、私は他の班員の倍の数を処理することになりすぐにおいたく事ができ、技術習得も早かったからだ。ノルマが六件になってもそれは変わらなかったが、班長と私で決めたこと。不満も負担も無かった。私が書いて班長が確認をして、抜けを修正してまた私が確認するという作業もミスを予防していた。業務にあたって二ヶ月が過ぎようかという頃に 、班を増やすということで私たちの班は解体され、班長は別の新人の班員を受け持った。そして私はと言うと、「他の奴らの仕事を見てみて。それで教えてやって。君の方が仕事ができるんだから誰も文句は言わないよ」と職長から指示をを受けた。
私は酒好きな先輩とペアを組んだが、それはそれは苦労した。基本など皆無で、早く仕事を終えたいとばかりに適当な作業。私は彼と一月過ごし、基本を思い出してもらい初心に立ち返ってもらった。酒好きな先輩の教育指導が進むと、また班を解体され新たな班を作る。そしてまた違う先輩とペアを組む。それを何度か繰り返して、先輩たちは当初のペアで班を構成され私は新人と仕事をすることになった。この頃になると、とにかく毎日が充実していて楽しく幸せだった。私たちの会社の従業員も15名程にまで増えたことで盛り上がりを見せていた。。

生活圏除染事業から撤退したのは新規入場から二年と半年ほどのこと。今度は南相馬市内の県道の除染事業に従事する事になった為の撤退だったのだが、私には仲良くなった先輩やJV職員との別れが辛かったが、この話はまたの機会にでも話そう。

南相馬市の除染事業で最初にお世話になった班長は、地元の方で原発事故の被害者でもあった。元は大工など建築の仕事をしていたという、面倒見が良く真面目だがよく笑う愉快な人だった。班長は仕事の都合が出来たからと、ふと辞めていった。挨拶などまともに出来やしなかった。私が評価されるようになったのは班長の指導があったからだが、ついにはそのお礼も伝えられなかった。その後はどこで何をしているのか分からない。連絡先も変わっているようでどうしようもない。二年半の中で、この班長とすごした時間が何よりも充実していた。今でもあの頃に戻りたいと願ってしまう。それほどに人生で一番有意義だった。


誰にでも、想いを伝えたくても伝えられない相手というのはいるだろう。想いを伝えられず公開している人も少なくないだろう。今まさに、近しい人には恥ずかしくとも素直に想いを告げることを躊躇わないで欲しい。恥ずかしさなどその時の一瞬でしかない。後悔は一生続くのだから。

2/13/2023, 1:33:53 AM