子供の頃というのは、男の子は特にそうだが色々な昆虫を手に取り、観察をしたり遊んだりしたのではないだろうか。かく言う私もその一人だ。家の周りや活動範囲内というのは、木々が生い茂り草花が鮮やかに世界を彩っていた。そんな環境で学校帰りや、休日には親に怒られるまで昆虫を追いかけて遊んでいた。ここまでなら可愛い子供をイメージするだろうが、私は違った。ダンゴムシを見つければ焚き火の中に放り込んでみたり、セミを見つければおもちゃの小さな箱の中に押し込んで土に埋めたりした。ダンゴムシを窓のサッシに設置して、そこにチョロQを走らせたりもした。蟻を見つけては蜂蜜やオリゴ糖をかけて反応を面白がったり、モンシロチョウを見つければ片っ端から木の枝で叩き落として土に埋めた。
好奇心や探究心の塊だった私に、いきものの命などという考えはまるでなかった。否、自覚をしていたかったというべきだろうか。近所のケーキ屋の軒先に地域猫用の餌が置かれていたのを見た私は、洗剤を混ぜたり適当なものを混ぜ込んだりした。そこに悪意や殺意、傷つけようなどという考えも気持ちも、想像すらなかった。ただひたすらに思うままに動いていた。家の前を流れる穏やかな川に降りて水生昆虫を探したり、探検をした。丸太が流れ着いているのを見かけたのは、大雨の次の日だった。雨が降ると恐ろしくなるようなうねりを上げて、茶色い濁流となって轟音を響かせる川に自然の怖さを感じたものだ。丸太を観察してみたくて川に降りたが、この時は当時仲のよかった友達と一緒だった。彼と共に、丸太の近くに堆積していた石を避ける。丸太の片方を持ち上げると猫がいた。生きていたのか、既に無くなっていたのか分からない。分からないのは、私がその丸太を何度も猫の上に落としたからだ。息があるのかどうかも確認もしないままに、興味だけでそんなことをしたあとで考えてしまった。私が殺めたのか、既に息絶えてそこにいたのか。川に流されて尽きたのか、やはり私が普段は使わない頭を全力で回転させたが意味の無い事だった。前後の記憶が曖昧で、よく思い出せない。これは今でも思い出せない。
どの様ないきものも尊い命だ。この世に生きる儚い命だ。いつ尽きるとも知れぬ切ない命。例え悪意がなくとも、殺生は許されない。傷つけること、傷つけようとすること、侵害しようとすることは命を軽んじているということである。この地球上に生まれて、ここの役割を果たすために必死に生きる小さな虫たちにも、私たちと同じだけ重く尊い命がそこにある。人間の生死を目にし、耳にした時ショックを受けるように、そんな小さな命も同じように扱わなければならない。人間というのは存在しているだけで地球環境にとっては、害をなすものでしかない。しかし、虫やというのは環境を維持するためにそれぞれの役割を意図せず果たしている。生きることで環境のために貢献している。動物たちもそうだ。しかし人間というのは文明社会を築くために、あらゆるものを侵害し、身勝手に侵略し侵食してきた。今もまたその真っ只中にある。
人間は、生かされていることを忘れてはならない。植物や虫、動物の存在あって人間という脆弱で傲慢な生き物は生きながらえている。私は、この愚かで矮小な人間の先頭にいる。悔やんでも悔やんでも、悔やみきれない。奪った虫の命やあの日の猫のことを思う、後悔や罪悪感で押しつぶされそうになる。もしもあの時、猫と命を奪っていなかったとしても、その亡骸をぞんざいに扱ったことに違いはない。か弱く儚いいきものの尊厳を踏みにじったことの事実は、たとえ私がどれだけ自責しようと変わらない。私は実に愚かで稚拙な人間だ。
仏教には地獄という考え方がある。私のように弄ぶように命を奪うことを繰り返した人間は、間違いなく地獄に堕ちる。死後、この魂は地獄で自らが犯した罪の重さと愚かさに苛まれ押し潰され続けるのだ。この先、どれだけ善行に励もうがそんなことは関係の無いことだ。たとえ虫のような小さな生き物だろうと、人間と同じたった一つの命なのだ。子供の頃に、自らの行いを恥じ、自覚したときから私は私が殺めてしまった虫たちのことを忘れたことは無い。
小学生の時に大切な友人を病気で失った私は、命の儚さ切なさ、重みをよく分かっていたはずだ。それにもかかわらず人間以外には、とても酷いことをしてきた。なんて醜い人間なんだ私は。この話を読んだ人は私のことを嫌うだろう。私のことを愚かで傲慢で、身勝手で馬鹿な人間だと罵るだろう。しかし、私にはそれだけの原因がある。理由と事実があるのだ。軽蔑してくれたっていい。どのように償っていいのかなど、分かるはずがない。ありえない数の命を奪ったのだ。人にやさしく、親切に接して尽くしたところで何にもならない。いつも思い出しては苦しくなる。辛くなる。
嗚呼、私はなんて馬鹿なのだろう。
2/24/2023, 11:45:39 AM