I LOVE……
知らない男から届いた手紙に
I HATE……
と赤い文字で書いてドアに貼り付けてやる。
あたしは心底気持ちよくなって部屋に引き下がった。すると、またパサ、と紙が落ちる音がした。同じように手紙が入っている。
I LOVE……
まったく誰が入れて入れてくるのかしら、とドアを開けてみたけど、誰もいない。また同じように赤い字で書いてやる。
I HATE……
そのやり取りは朝まで続いて、私のドアは張り紙で一杯になった。近所では血迷っているのだと噂された。
私は親切な自分が好きになって、愚かな自分が嫌いになって、総てにMEをつけた。
すると次に開けたときには、律儀にLOVEの方だけ、黒いマーカーでYOUと書き直されていた。
私はそれを書いた人にうっかり恋しかけた。危ない危ない、と張り紙を剥がしてゆく。私はその瞬間戦慄した。
ドアにスプレーが直にかかれていたのだ。
「あいしてる」、と。
私は赤いスプレーを買いに行って、その上に
「ごめんなさい」と書き直した。得体の知れない誰かとのやり取りは、それきりだった。
私は街が嫌いだった。
ネオンを着飾り激しく点滅する歓楽街に身を侵されてしまった私は、ゆるゆると過去のことを思い起こす。
田舎生まれということに対するコンプレックスゆえの反骨心だったのかもしれないけれど、私は街に行くが嫌いだった。お母さんがやけに厚い化粧で、一張羅を着ていることに耐えられなかった。お母さんが、行くよっと声をかけても押し入れの中に閉じこもったままで返事もしなかった。結局半べそで引きずられながら外出したのだ。
それが今となってはこのザマ。もうどっぷりだった。
羽振りのいいオジさんの腕にしがみついて嫌らしい色調のランプで照らされたベッドに沈み込む。彼が私の首にごつごつした手を当ててゆっくりと締め付けてゆく。呼吸ができなくなる。視界がぼんやりとして、その先の世界が見える。あすこは桃源郷。街はあすこへの入口だったのだ、と私は気づいてしまった。
都会の根本で燻る狂気。魔法みたいに出てくる札束。窒息寸前の快感。私は今日も街に溺れて気持ち良くなる。
私は、此処が好きだ。
「ミサキさんって優しいですね」
隣に座っている彼がそう言ってくれた。そうかな、と私は彼から顔を逸らして作業を進める。
「えぇ、とっても。俺が分からないことは丁寧に教えてくれるし、何回聞いても怒らないじゃないっすか。まじ、頼れる先輩っす」
彼の言葉をタイプ音で必死にかき消そうとする。
違う、私は……私は、そんなに清らかな人間ではない。
罪悪感に押し潰されそうになりながら、それでも私はここから逃げ出すことができなかった。このまま、ずっと「優しい人」でありたいと思ってしまった。
彼には、気づかないでいてほしい。優しさの裏地は、とんでもなく汚れ切っているということに。
私は、聖人ではないのだ。
しかし、悟られるわけにはいかないのだ。
私は化けの皮をめくられないよう、笑顔を取り繕う。胸の内で昂る野性を押し殺して、彼と二人きりのオフィスで残りの仕事を片付ける。
信号機の色は真っ赤だった。それは暗闇を少しだけ暴き、かつての世界が顔を覗かせていた。私は交差点の前で立ち尽くす。光は足元まで及ばない。もう、白か黒かも見えなかった。
ミッドナイト。私だけがここにいる。
赤が警告を意味するのだとは薄々気づいていた。点滅するサインに合わせて、世界は姿を変える。次に総てが露わになったとき、もう私の知る世界はない。
私だけがここにいる。
ここに取り残されている。
いつまでも点滅を続ける赤信号。進んでもいいのだ。分かっている。分かってはいるけれど。
交差点を行き交う車の音は聞こえど、肝心の車は見えない。
あぁ、いつから私はこうなってしまったのか。どうして、私だけがここに取り残されてしまったのか。
暗闇の交差点。歪な世界の欠片。
私は真夜中に独り、ずっと、取り残されている。
大丈夫だから。
確証のない言葉を散々並べたあと「だから、安心して寝なさい」とお父さんは諭すように私に言った。そして有無を言わさず部屋の照明を落とす。お父さんはそっと戸を閉める。私は真っ暗闇の中に、独り取り残される。
布団に入っても脳は覚醒したままで、目も冴えていた。暗闇の中でものの位置が分かるくらいには。夜器用に走り回る猫みたいに、私はすいすいと障害物を避けて扉まで辿り着く。
扉を少しばかり開くと、橙色の光が暗闇に差し込む。眩しくて目を閉じたが、暫くすると慣れてきた。隣の部屋の様子を息を潜めて見守る。
嗚咽混じりに何かを語るお母さん。
困った困ったと顔を歪めるお父さん。
二人は夜な夜な話し合っている。ここ最近ずっと。難しい言葉がたくさん聞こえてきて、それがよくないことなのだとは何となく悟った。それでも、何とかいい方向に転がれば、と願っていた。
お母さんはずっと啜り泣いている。弱い、弱い、お母さん。お父さんはこの姿を見せたくなかったんだ。
私はそっと、また扉を閉じて布団の中に潜る。安心できない。先行きの見えない不安だらけの夜。その重みに押し潰されそうになりながら、かろうじて私は私をたもっている。私であろうと。私だけは取り乱すまいと。葛藤している。本当はこのまま叫んでしまって、暴れてしまって、何もかも終わりにしてしまいたいのだけど。まだ、まだ、大丈夫だから。降り積もる灰は山になって私を埋めるけど、まだ、私は大丈夫だ。この暗闇に、抗ってみせる。歯を食いしばって、枕で押さえて、必死に、堪える。