彼の送ってくる写真はいつも逆光で対象が上手く見えない。どれも決まって真っ黒な陰になってしまっているのだ。
『写真を撮るのが得意じゃないんだ』
彼はそう言って誤魔化す。逆光くらい、場所わ変えたら何とかなるだろう。敢えてそうしてるに、決まってるのだ。
私はあることを提案してみた。
『ねぇ、外じゃなくてさ、部屋の中で撮ってみてよ。電気のついてるところで』
そうしたら、きっと解決する筈なのだ。
だが、彼から送られてきたのは、ランプシェードか何かの柔らかな光がバックにあって、ぼんやりと姿かたちが見える写真だった。
『もう、いい加減にしてよ。どうしてあなたはいつもそうやって姑息な真似をするの』
あなたはもしかして、私を欺こうとしているんじゃないの?
思わず打ち込んだが、思いとどまってバックスペースを長押しする。
『自分の顔に、自信がないんだ』
彼は暫く経ってそう送ってきた。
私だって、自分の顔に自信はない。でも、あなたのためだと思って、顔写真を送ったのに。友達にカフェで撮ってもらったとっておきのものを。それなのに、あなたはどうして……。
「それなら、仕方ないね」
でも、ここで逆上するわけにはいかないのだ。彼を絶対私のものにしなくちゃならない。容姿以外はハイスペックな男、こんなの、逃すわけにはいかないじゃない。
ホーム画面に設定した彼の写真。今は逆光で見えないけれど、いつかきっと、この仮面を脱いでくれる時が来る。そう信じてる……。
こんな夢を見たんだ。
寝起き早々夫が話しかけてきた。
実家の廊下でライオンが襲ってきてね、タテガミが凄い奴だよ。トイレの方から一気にこっちに駆け寄ってくるわけ。椅子で対抗しようとしたんだよ。そしたら攻撃を交わされて頭をかぶられそうになって、もう駄目だって堪忍した時目が覚めたんだ。
へぇー、と適当に相槌を打つ。どうせまたつまらない嘘だ。この人はよく、嘘をつく。それもしょーもない、何の意味もない嘘。
私がトイレに流される夢とか、フランス旅行で財布をすられた夢とか、大きな落とし穴にハマった夢とか。
毎朝決まって彼は私に昨晩の夢の内容を話す。それも事細かに。そんなに覚えていられるものだろうか。私なんか夢の記憶はほぼないに等しい。個人差はあるにしても、あまりにはっきりし過ぎていると言うか、具体的というか。覚えていたとして、もう少し解像度が低くてもいいだろう。それに毎日、というのがどうも胡散臭い。そんなに毎日奇妙な、面白い夢を見られるものだろうか。私の心のうちには、いつしか彼に対する懐疑心が生まれていた。
ただ、それが仮に嘘だとして、だ。一体何の意味があるというのか。私に嘘の夢を語って、何になるというのか。彼の頭の中がちっとも読めなかった。嬉々として不思議な夢の顛末を語る彼の異様さを気味悪く思うようにもなった。
ところが、ある日。突然、それは終わった。彼は夢の内容を語らなくなった。そして、酷く無口になった。背筋を嫌な汗が伝う。じんわりとした気持ち悪さを感じた。
思い切って彼に聞いてみることにした。
今日は何か、面白い夢見たの?
彼は真っ黒な瞳をしていた。
「こうでもしてないと、もたなかっんだ」
その瞳は、もう此方を向いていなかった。
もしタイムマシンがあったら、そんな話を息子が夕食の時にしていた。某アニメに影響されたのか知らないが、彼は唐突にそれを話題に出した。
タイムマシンがあったら、過去と未来どっちに行きたい?
そう聞いてやると彼は「未来!」と食い気味に言った。新しいゲームを一杯持ってくるんだ、と子供らしいことを言う。空飛ぶ車とか何でも言うこと聞いてくれるロボットとか、と彼は指を折りながら次々と欲しいものを口にする。未来のものを持ってきたことで生じる弊害について一切考えずに夢を語る、子供は羨ましいなぁと妬ましく思った。こんなくだらないことさえ現実的に考えてしまう自分が虚しくなる。
子供が眠りについたあとで、安い酒をちびちびと飲む。リラックスした姿勢でテレビを見ている妻に話しかけてみる。
「なぁ、おまえは、もしタイムマシンがあったら過去と未来、どっちに行きたい?」
息子に聞いたことと全く同じことを妻にも尋ねた。彼女は化粧を落とした年相応の顔をぐしゃりと歪めて言った。
「過去、かな」
どうして、と聞くと、だってぇと言って彼女は気怠そうにソファに寝そべった。
「過去の自分に、あんたと結婚するなって釘刺しておきたいから」
ほんとさいあくぅ。
あたしの人生、こんなはずじゃなかったぁ。
せっかく産んだ子もあんなトンチンカンだしぃ。
あと、あんた最近すっごく臭いのよ。加齢臭じゃない?
近寄らないでよ、もう。あっち行って、あっち。
そんな散々な言葉を私に投げかけて、トドメを刺すかのように言う。
「あーあ。タイムマシンがあったらなぁ」
気づくと、私は彼女に馬乗りになっていた。彼女はもう動かない。真っ白な顔で、白目を剥いて事切れていた。
彼女の死を確認しても、私はどこか冷静だった。総てを受け入れていて、落ち着いていた。
タイムマシンがあったら、か。
そんな魔法のような乗り物があったとして、過去に戻って凶行を起こした自分を止めようなどとは思わない。
これでよかったのだ、これで。
寝床に行き、息子の寝顔をそっと撫でた。彼はぐっすり眠っているみたいだった。そうと分かると私は物音を立てないように寝室を出て、準備を始めた。
今日は特別な夜だから。
彼女はそう言って微笑んだ。だがその笑みに優しさは微塵も感じ取れず、薄気味悪さを感じた。
彼女特性の皿が目の前に出される度に、僕の鼓動は速くなる。至ってシンプルな料理が大きな皿に小さく乗せられている。これだけ見ると、まるでどこかの高級レストランの一品みたいだった。ただ、どうしてもそれを食す気にはなれなかった。
彼女は鼻歌混じりで席につき、じゃああたしもいただきましょうか、とナイフとフォークを持つ。豪快にフォークを突き刺し、ナイフで千切る。それから美味しそうに食す。ぐちゃぐちゃと奇怪な咀嚼音をたてながら。
今日は特別な夜だから。
彼女はまたそう言ってワインを取り出した。真紅のワインだった。彼女は器用にグラスに注ぎ入れて片方を僕に渡す。
さぁ、乾杯しましょ、特別な夜に。
彼女に促されるまま、僕はグラスを持つ。
静寂のうちに、チリン、と高い音がした。
彼女はそれもまた美味しそうに口に含む。それから、僕の方を心配そうに見やる。
どうしたの?具合悪いの?ねぇ。
僕は、そんなことないよ、と気丈に振る舞ってみせる。彼女は、なーんだ、とまた笑って告げた。
今日は特別な夜だもの。まだまだ、続けましょうね。
邪悪な微笑み。あぁ、この顔を何度見たことだろう。僕は、この顔と、何度こうやって、特別な夜を過ごしたことだろう。
特別な夜とは何なのか。僕もまだ分からないでいる。気味悪い儀式めいた食事を、いつの頃からか毎夜、彼女と続けている。どうしてかは分からないけれど、僕はもう逃れられない、それだけは分かっている。
テーブルクロスに描かれた五芒星を恨めしく見つめながら、僕は今日も、味のしない料理を食す。
海の底には墓標がある。誰の目にも触れられず、ひっそりと彼らは眠っている。
昔祖母に聞いたことがある。戦争で亡くなった人が海の底にいるなら、拾い上げて遺族に返してやればいいじゃない、と。彼女は、悲しそうな顔をして首を横に振った。
「沈んだ船舶自体が亡くなった人の墓標なんだよ。それをむやみやたらに弄るというのは墓荒らしとおんなじさ。そこはもう神聖な場所なのさ。彼らは海に出て、勇敢に戦って、死んだ。あすこに眠っているというのは誇り高いことでもあるんだよ」
今の世代の感覚じゃ分からないだろうけどね、そう言って彼女は胸元のペンダントの蓋を開けた。中には写真が嵌められていて、若かりし頃の祖父と祖母の姿だった。
私の祖父も、静かな水底の何処かで眠っている。
私は何となく察していた。祖母は諦めたようなことを口では言うけれど、心の内ではまだ彼のことを諦めていないということを。どこかで、別の誰かとしてでもいいから、生きていてほしい。そんな淡い期待を胸に持ち続けているということを。
死体を探さないのは、きっと、そういう意味もあるんじゃないか。今となっては、もう本当のところは分からない。
彼女は、一月前、末期癌で息を引き取った。
彼女の寂しげな顔を今になって、ゆるゆると思い起こす。
死に別れてしまった二人。彼女はずっと、彼に会いたかったに違いない。彼のいない、長い人生、どれだけ心細く辛かっただろうか、考えるだけで胸が傷んだ。彼女も、彼の元に行かせてあげたい、そう思った。
彼女の遺灰を海に撒いた。海葬、というのだそうだ。彼女は大いなる海の一部となった。彼のいる海に解けた。静かな海の底でひとつになった彼らに、海上から祈りを捧げた。