懐かしい匂いはもうしなくって、血の臭いだけがした。あと、微かに硝煙の臭い。
身体の損壊の凄惨さとは裏腹に、彼の顔は酷く穏やかだった。まるで総て終わったと言いたげな。満ち足りているかのような。
どうして、そんなに満足げな表情をしているの、あなたは……あなたはまだ、志半ばで、したいことだって、たくさん、たくさんあったでしょう?
問うても返事は返ってこない。ぼろ布のような彼の衣服が一点濃ゆくなった。また一点。ぽたり、ぽたり。拭っても、拭っても、溢れてくるものはひっこまなかった。
多くの死体が並べている道路の傍で、死体を運搬していた作業員が一息ついていた。彼はおや、と言って、彼の亡骸を指差す。
「この兄ちゃん、苦しそうな顔して事切れとったのに、なんや、穏やかな顔しとるやんけ」
最後にあんたに会えたからやな、彼は私の肩をポンと優しく叩いた。
君に会いたくて、戻って来たんだ。
彼がそう言っているような気がした。もう生きてはいないのだけれど。それでも、最後に会えた。会えたのだから。私の無事を確認して、安堵したのだろう。そう思いたい。信じたい。
彼の顔の泥を払って優しく頬を撫でる。涙が止まらなくなって、やがてはそれは慟哭になった。
貴女と二人だけで始めた秘密の日記。同じクラスで休み時間も一緒。いつの日かそれだけでは飽きたらなくなって、私たちはもっと、もっと、お互いの心の奥に入り込みたくなっていた。
そんな時に彼女が提案したのが交換日記だった。自分の秘密を、ここに書こう。絶対に他の誰かに知られてはいけない、禁断の秘密。私たち二人だけのものにしてしまおう。そう誓った。
十二点のテストを親に見せずにゴミ箱に捨てた、そんな他愛ないことから、両親が最近仲良くない、離婚という単語が会話に出てくる、そんな大事まで。他の人に言えない、でも自分一人で抱え込むには重い秘密をノートに連ねた。
私も彼女に弱音を吐いた。
彼女もまた、私に嘆いた。
私たちはそんな関係で、何とか精神の均衡を保ってきた。
しかし、ある日を境にその関係は終わりを迎えた。
「私が今までひた隠しにしてきた、あなたにも言えなかった秘密、それは、あなたを愛しているということです」
間違いなく彼女の筆跡。それは恋文だった。彼女から、私への……。
なぜ彼女がその秘密を記したのかは分からない。私なら認めてもらえる、そう心を許してくれていたのかもしれない。
私は直ぐに返事を書くことができなかった。そして偶然、そのノートの中身を他のクラスメートに見られてしまったのだ。私が運悪く落としてしまったノートを彼らは面白おかしく読んだ。勿論、彼女の告白の部分も。
彼女は男子に歩み寄ってノートを取り返すと同時に弾けるように振り返って教室を出て行った。
噂は瞬く間に広がった。数多の尾鰭背鰭をつけて。
彼女は次の日から学校に来なくなった。
そして、彼女は死んだ。
形見分けとして返されたノートをはぐると、告白の続きに走り書きが書き加えてあるのを見つけた。
「好きになって、ごめんなさい」
もう返してはくれないことは分かってるけど、最後に私も言葉を綴る。
「私も、好きだったよ」
静かに、日記を閉じた。私たちだけの秘密が、ここに眠っている。この秘密を一生かけて守ってゆこう。この罪を一生かけて償おう。そう心に決めて、私は日記を封印した。
あれからずっと、日記は閉ざされたままだ。
木枯らしに吹かれて、ギリギリ枝にぶら下がっていた枯葉がはらりと舞い落ちた。落ち葉は排水の溝に吹き溜まる。
季節は巡る。容赦なく。
病室から見えるつい先日までは逞しかった木。今では青々とした葉は殆ど落ちてしまって、やけに貧相に見える。まるで木まで病にかかったみたいだった。しかし、これは生命の循環に必要なプロセスなのだ。彼らは無慈悲に総て剥ぎ取られ、そしてまた自分で再生を果たす。逞しく、生きている。
だが、人間はいくら努力したって再生はできない。一度壊れたら後は悪くなる一方なのだ。私の身体も、もう随分悪くなった。次の春を迎えられるかも怪しいという。
仕方ないことなのだ。私が人として生きる以上。それに、私の死だって、もしかすると大いなる循環の一部であるかもしれないのだから。抗わずに、受け入れよう。
あの木の最後の一葉が散ったら……そんなロマンチックな、どこぞのナルシストが呟いた戯言を私も心の中で反芻して感傷に浸ってみる。
しかし、名残惜しむ気持ちとは裏腹に、喜びもあった。自分が自然の環にかえる日はもう直ぐだ。あと少しで、私は元いた場所にかえることができるのだ。
早く散らないかしら。
窓の外の景色をうっとりと眺める。
「君は美しいね」
虫けらみたいに踏み潰した彼女の残骸を摘み上げて、辛うじて原型を留めた彼女の顔面を此方に向けてから告げた。
彼女の虚ろな瞳には、もう何も映ってはいなかった。輝きを失ったそれは、どんな闇よりも黒かった。
「美しいよ、君は」
彼女の仲間は、もうとっくに撤退してしまった。此処には、私と彼女しかいない。受け取る先のない言葉が宙を泳いでいる。
私を倒そうとこの洞窟まで潜入して接近戦を始めたものの、あっという間に彼らはいなくなった。主戦力であった彼女の死によって、引かざるを得なくなった。
あぁ……。彼女の勇姿は、美しかった。
彼女の数十、いや、数百倍大きな私に怯むことなく真正面から挑んできたのだ。たった一本の剣だけで。何とも無謀な。しかし、その潔さに、私は感銘を受けた。
戦いの結果、彼女は無惨に散ったのだが。その骸さえ美しかった。
志高き勇敢な戦士の死。
さながら、空高く飛ぼうとやっと羽ばたいたその直後に羽をもがれて墜死した鳥のような。
残酷。
なんて、美しい。
私はそっと彼女を持ち上げ、洞窟の奥のコレクション棚まで運んだ。
丁寧に処理を施して、彼女の骸を透明な小箱に入れた。
それを同じ小箱を置く棚に並べる。
「君たちは美しいね」
数多の骸に向かって、優しい声をかける。
君は、こんな風に死んだね。
君の最期の言葉は、こうだった。
君は死の間際、泣いていたね。
彼女らに思い出を語りかける。言葉を返してはくれないけれど、私はこの行為に満足している。君たちの美しい死骸を、今日も私は愛でる。
美しいものは、私が大事に、大事にしてあげるからね。
「一体この世界にはどれだけの価値があるだろうね」
彼は鉄柵の向こう側に立って、此方側に踏みとどまったままの僕に問いかけた。
「此処は、生きているだけで地獄だ。誰にだって容赦なく襲い来る苦痛や絶望。平等なんてあったものじゃない。不平等が彼方此方に蔓延っていて、皆それに気づきはするものの見て見ぬふりを決め込む。必要なものは貰えないのに、欲しくないものは無限に与えられ、その重みで窒息寸前。なけなしの希望を抱いて浅い呼吸をする。水面から顔面だけ出して辛うじて息継ぎするような毎日」
そう言って自虐的な笑いをこぼす。彼の顔は半分以上が暗闇に溶け込んでしまっていて、もうはっきりとは見えなかった。
彼は僕に冷たい声で問うた。
「ねぇ、君は此処に価値があると思うかい?このどうしようもない境遇に抗ってまで、生きる価値があると思うかい?」
僕は答えられなかった。彼を救うための最適解を、見つけられなかった。僕は、無力だった。押し黙ったままの僕に彼は背を向ける。
「この世界に価値を感じたのは、君と出会えたことくらいだったよ」
ありがとう、そう呟いた後、彼は奈落へと身体を沈めた。
暗闇の底で、命が弾ける音がした。