どうして……。
頭が真っ白になった。
どうして、この世はこんなに無情なのだろう。
この日の為にと新調したエイチビーの鉛筆が指から擦り抜け、からりと落ちた。手汗が酷くてそれを拾うこともできない。心臓の鼓動が周りに聞こえているんじゃないかというくらい大きくなっている気がした。だが、変に落ちついている自分もいた。動揺している僕を客観的に見ている、そんな感じ。第三者目線として宙から僕を観察している僕は、つい先程気づいた僕の過ちを冷静に思い返す。
共通テスト、初日。
ぜってぇ同じ大学に行こうな、と仲間に鼓舞して僕は会場入りを果たした。奇しくも試験会場が志望大学で、僕の中で一層この大学に行くのだという士気が高まった。緊張もあったが、自信はあった。これまで彼らとしてきた数多のことを思い出す。帰り道に問題を出し合ったり、画面通話で勉強時間耐久をしたり、理系の過去問の得点を競ったり……。この日の為に多くのことをしてきた。彼らは僕にとって、ライバルでもあり同志、それ以上に大きな存在、親友になった。そんな彼らと過ごした日々を無駄にはしない。そう心に決めて時を待った。
1時間目、地理。
歴史のページをはぐって早速見つける。大問は五つだから一つ十分で後は見直し、とこの前立てた戦略のもと、問題に挑む。
傾向が変わったか。一番最初に日本の地形が出るとは。しかし簡単だ。すらすら、さくさく解ける。自分でも恐ろしいほど。これまでの練習の成果が如実に現れたのだ、内心歓喜した。そのままペースを崩さず、問題に気づく。
おかしさに気づいたのは五問目に差し掛かった時だ。まだ続きがあるぞ……とページをパラパラめくって、そして気づいた。
自分が地理Aを解いていたということに。
まさか……慌てて自分の解いたページを見返す。
地理A。
頭が真っ白になった。
理系の入試で使うのは大抵が地理Bなのだ。
やってしまった。
僕は天を仰ぐ。
どうして……。
いや、確かに過失は自分にある。地理Aは大概模試では省略されるがしかし受験上の注意にAの記載はある。問題のせいではない。僕がよく確認せず解き始めてしまったばかりに起きたミスだ。
だけど……だけどさ……
それはないだろ。それは……。
この100点が合否を決めるってのに。
こんなミスで人生狂っちまうなんて……。
そんな馬鹿な話、と笑ってしまいそうになった。
冷や汗が止まらない。
僕は……僕はどうすれば……。
ふと思い出したのは、仲間のこと。
一緒に同じ大学に行くと誓った。
行きたい、絶対に。
急いで鉛筆を持ち直す。残り二十分。まだ、まだ間に合う。マークを思いっきり消す。
Bを始めよう。
どうして、なんて後からいくらでも言える。とりあえず今はこっちに集中だ。焦るな、自分。まだ試験自体、始まったばかりなのだから。挽回は効く。だから、焦るな。落ち着いて。落ち着け、自分。
手の震えを抑え、正しいページを開く。一度大きく深呼吸をして、問題に目を通す——。
*
このお話は殆どノンフィクションです。全神経を研ぎ澄ませて挑んだ二十分間でした。
この夢が、醒めなければいいのに。
何度そう思っただろうか。テストで100点を連続で取ったり、ピアノのコンクールで金賞をもらったり、街中でモデルにスカウトされたり……そんな可愛らしい夢はいつの間にか見なくなって、汚い欲望塗れの夢ばかりになってしまった。
大嫌いなあの子が堕落してゆく夢。その子に最後のトドメの一撃を食らわせた時に目が覚めた。とっても目覚めのいい朝だった。
会社のプロジェクトで私の原案が採用される夢。いつもは鼻で笑われて相手にもされないけれど、その日は特別社長が会議に参加して私の案を絶賛してくれた。努力はいつか報われる、喜びを噛み締めた丁度その時、けたたましいアラームが鳴った。
同僚の彼と結婚する夢。カノジョの不平不満を聞いてアドバイスするうちに仲良くなって、結婚まで漕ぎ着けた。薬指に嵌めたお揃いの指輪が噂話になっているのをニヤニヤしながら聞き耳を立てていた。でも、そんな素敵な物語も不快な音で断ち切られた。
もう少しだけ、夢を見ていたい。
いや。
ずっと、ずっと、夢を見ていたい。
私だけの、幸せな物語を、ずっと……。
私の願望は永久のものへと変わった。
どれだけ願ったところで叶うはずのない願い事だったが、ひとつだけ、方法があった。
*
「最近眠れなくって……」
困った顔で言うと、
「更年期のせいでしょうね」
と初老の医師はあっさりと診断を出した。
「睡眠薬出しておきますから」
瓶をひとつ処方してもらった。
ずっと夢を見るための魔法のお薬。これだけあれば、きっと大丈夫だろう。
ずっとこのままでいたい。
彼女は僕の肩にもたれかかったまま呟いた。その言葉は碇となり、静かに心の海に沈んでゆく。重しはぴくりとも動かなくなって、僕はここに留められている。
分かっている。このままではいけないということくらい。分かってるけど……。僕はいまだに動き出すことができずにいた。
彼女に嫌われるのが、怖かったのだ。僕は臆病で、ろくでなしだ。どうしようもない奴だ。彼女にとっての「特別」であり続けたいと思ってしまった。彼女の一番を、このまま僕だけのものにしてしまいたい、そんな醜い欲望も生まれていた。
君の感情が年頃の移ろいやすいもの、ただの流行りと同じようなもので、すぐ代替のものができてしまうのだということは知っている。僕のこの感情も、どうせ大人になったら笑い話になってしまうものなのかもしれない。でも、今は……この感情に正直でありたい。真っ直ぐ見つめていたい。
ずっと、このまま。
眠剤を飲んで、二人で仲良く永遠を目指す。
娘と喧嘩をした。
今年に入ってから何度目だろう。ここ最近彼女はやたらと反発してくる。年頃の女の子で反抗期真っ盛りだから仕方ないことは分かっている。大抵のことは多めに見ようと決めた。それでもどうにも許せないことを言われると、怒りたくもなる。特にコンプレックスに触れられる時だと。
今日の喧嘩の発端は娘だ。
勉強しなくていいの、と優しく聞いてやると、スマホを触っている最中に話しかけられたのが気に障ったのか、いいのっと語気を強めていってきた。そろそろ試験も近いでしょう、と私も負けずに言った。だが彼女は、
「別にあんたに言われる筋合いはないでしょ」
と私に冷たく言ってのけた。
親に向かってあんたとは何だ、と注意したくなったが、これで叱られたからやる気なくなったなどと言われたらたまったもんじゃない。そう思ってやんわりとまた、ちゃんと勉強してないと将来大変なことになるよ、と彼女を諭した。
その後彼女から出た言葉。
「勉強勉強ってさぁ、あんただってやってなかったんでしょ。そーゆーのまじウザい。底辺大学卒業でスーパーのパートやってる人に言われたくないんだけど」
カチンときた。頭に血が昇っていくのを感じた。全部、全部あなたの為に言ってあげてるのに。私が大学受験に失敗して、そこから厳しい生活を送ってきたから言っているのに。私のコンプレックスを刺激する上、彼女の塾代を稼ぐために汗水垂らして働いている仕事まで馬鹿にされた。いくら娘とはいっても許せなかった。
気づいた時には、彼女の手を強く掴んでいた。
「もう一回言ってみなさいよ!」
悔しかった。涙が出ていた。そんな私の手を彼女は勢いよく振り払った。伸びた爪が頬を掠める。少し遅れて鋭い痛みが走る。その痛みが鈍くなってしまう前に、私は車の鍵を持って表に出た。
兎に角独りになりたかった。落ち着きたかった。彼女もきっと同じ筈だ。感情的になり過ぎてしまった。よくない癖だ。治したいと思うけど、そう簡単には治らない。私のこの性格があの子にも受け継がれてないといいのだけれど。もしかすると、もう彼女はその兆候を見せ始めているのかもしれない。あれがただの、皆が通る道であってほしい、汚れたフロントガラス越しの夜空に強く願う。
車を走らせて近くのコンビニに寄ってコーヒーを買った。温かい車内に戻ろうとする時、冷たい風が吹いて頰の引っ掻き傷がしみた。そっと手を当て傷を覆う。あの子のささくれ立った心にとって、私の愛情はそれを逆撫でする風なのかもしれない。私はどうやって、あの子に接したらよいのだろうか、分からなかった。総てを忘れてしまいたい気分になる。暫く、ドライブをしよう。深まる夜の中、独り、車を走らせた。
成人おめでとう。
会場の受付で係の人に声をかけられ、僕は適当な会釈をした。内心、何がめでたいんだかと反発したくなる思いもあるけれどそこはぐっと堪える。
成人式には、身の丈に合わない高級スーツを来て出向いた。自分のバイト代で見繕うのは無理があったので、両親に工面してもらったが、たかだが一日のためにここまでしなくとも、と思ってしまう。しかし会場は袴やら振袖やら、まぁなんとも豪勢な衣装をお召しの方が多くいらっしゃって、僕なんかはかすんでしまうほどだ。
会場にはひっきりなしに下品な笑い声が響いている。あの頃の教室を思い出して吐き気がした。
辺りを見回すと目に映るのは、鮮やかな髪色、奇抜なメイク。ホストやキャバ嬢のような風貌の成人たち。
背伸びして大人になったような奴らばかりだ、ほんとに。どいつもこいつも背丈が伸びて少し知識を蓄えただけ。きっと中身は子供の頃から何ら変わってない。
みんな、「大人」に擬態しているのだ。
世間でいう「大人」というのも案外こういうものなのかもしれない。みんな真似っこしてさもそれっぽく装っているだけなのかもしれない。
そんな思考を巡らせていると、偶然中学の同級生に再会した。久しぶりと言葉を交わして、彼から次に出た言葉。
「おまえも随分と大人びたな」
あぁ……。
僕は理解した。
僕もこれから、「大人」を演じなくちゃならないのだ。ビールの美味さが分かってしまう「大人」のふりをしなくちゃ、いけないみたいだ。
友人になけなしの愛想笑いを振り撒いて、多くの「大人」達に溶け込む。一張羅を着ているくせして、こんなに情けない、不甲斐ない自分が悲しかった。