この夢が、醒めなければいいのに。
何度そう思っただろうか。テストで100点を連続で取ったり、ピアノのコンクールで金賞をもらったり、街中でモデルにスカウトされたり……そんな可愛らしい夢はいつの間にか見なくなって、汚い欲望塗れの夢ばかりになってしまった。
大嫌いなあの子が堕落してゆく夢。その子に最後のトドメの一撃を食らわせた時に目が覚めた。とっても目覚めのいい朝だった。
会社のプロジェクトで私の原案が採用される夢。いつもは鼻で笑われて相手にもされないけれど、その日は特別社長が会議に参加して私の案を絶賛してくれた。努力はいつか報われる、喜びを噛み締めた丁度その時、けたたましいアラームが鳴った。
同僚の彼と結婚する夢。カノジョの不平不満を聞いてアドバイスするうちに仲良くなって、結婚まで漕ぎ着けた。薬指に嵌めたお揃いの指輪が噂話になっているのをニヤニヤしながら聞き耳を立てていた。でも、そんな素敵な物語も不快な音で断ち切られた。
もう少しだけ、夢を見ていたい。
いや。
ずっと、ずっと、夢を見ていたい。
私だけの、幸せな物語を、ずっと……。
私の願望は永久のものへと変わった。
どれだけ願ったところで叶うはずのない願い事だったが、ひとつだけ、方法があった。
*
「最近眠れなくって……」
困った顔で言うと、
「更年期のせいでしょうね」
と初老の医師はあっさりと診断を出した。
「睡眠薬出しておきますから」
瓶をひとつ処方してもらった。
ずっと夢を見るための魔法のお薬。これだけあれば、きっと大丈夫だろう。
ずっとこのままでいたい。
彼女は僕の肩にもたれかかったまま呟いた。その言葉は碇となり、静かに心の海に沈んでゆく。重しはぴくりとも動かなくなって、僕はここに留められている。
分かっている。このままではいけないということくらい。分かってるけど……。僕はいまだに動き出すことができずにいた。
彼女に嫌われるのが、怖かったのだ。僕は臆病で、ろくでなしだ。どうしようもない奴だ。彼女にとっての「特別」であり続けたいと思ってしまった。彼女の一番を、このまま僕だけのものにしてしまいたい、そんな醜い欲望も生まれていた。
君の感情が年頃の移ろいやすいもの、ただの流行りと同じようなもので、すぐ代替のものができてしまうのだということは知っている。僕のこの感情も、どうせ大人になったら笑い話になってしまうものなのかもしれない。でも、今は……この感情に正直でありたい。真っ直ぐ見つめていたい。
ずっと、このまま。
眠剤を飲んで、二人で仲良く永遠を目指す。
娘と喧嘩をした。
今年に入ってから何度目だろう。ここ最近彼女はやたらと反発してくる。年頃の女の子で反抗期真っ盛りだから仕方ないことは分かっている。大抵のことは多めに見ようと決めた。それでもどうにも許せないことを言われると、怒りたくもなる。特にコンプレックスに触れられる時だと。
今日の喧嘩の発端は娘だ。
勉強しなくていいの、と優しく聞いてやると、スマホを触っている最中に話しかけられたのが気に障ったのか、いいのっと語気を強めていってきた。そろそろ試験も近いでしょう、と私も負けずに言った。だが彼女は、
「別にあんたに言われる筋合いはないでしょ」
と私に冷たく言ってのけた。
親に向かってあんたとは何だ、と注意したくなったが、これで叱られたからやる気なくなったなどと言われたらたまったもんじゃない。そう思ってやんわりとまた、ちゃんと勉強してないと将来大変なことになるよ、と彼女を諭した。
その後彼女から出た言葉。
「勉強勉強ってさぁ、あんただってやってなかったんでしょ。そーゆーのまじウザい。底辺大学卒業でスーパーのパートやってる人に言われたくないんだけど」
カチンときた。頭に血が昇っていくのを感じた。全部、全部あなたの為に言ってあげてるのに。私が大学受験に失敗して、そこから厳しい生活を送ってきたから言っているのに。私のコンプレックスを刺激する上、彼女の塾代を稼ぐために汗水垂らして働いている仕事まで馬鹿にされた。いくら娘とはいっても許せなかった。
気づいた時には、彼女の手を強く掴んでいた。
「もう一回言ってみなさいよ!」
悔しかった。涙が出ていた。そんな私の手を彼女は勢いよく振り払った。伸びた爪が頬を掠める。少し遅れて鋭い痛みが走る。その痛みが鈍くなってしまう前に、私は車の鍵を持って表に出た。
兎に角独りになりたかった。落ち着きたかった。彼女もきっと同じ筈だ。感情的になり過ぎてしまった。よくない癖だ。治したいと思うけど、そう簡単には治らない。私のこの性格があの子にも受け継がれてないといいのだけれど。もしかすると、もう彼女はその兆候を見せ始めているのかもしれない。あれがただの、皆が通る道であってほしい、汚れたフロントガラス越しの夜空に強く願う。
車を走らせて近くのコンビニに寄ってコーヒーを買った。温かい車内に戻ろうとする時、冷たい風が吹いて頰の引っ掻き傷がしみた。そっと手を当て傷を覆う。あの子のささくれ立った心にとって、私の愛情はそれを逆撫でする風なのかもしれない。私はどうやって、あの子に接したらよいのだろうか、分からなかった。総てを忘れてしまいたい気分になる。暫く、ドライブをしよう。深まる夜の中、独り、車を走らせた。
成人おめでとう。
会場の受付で係の人に声をかけられ、僕は適当な会釈をした。内心、何がめでたいんだかと反発したくなる思いもあるけれどそこはぐっと堪える。
成人式には、身の丈に合わない高級スーツを来て出向いた。自分のバイト代で見繕うのは無理があったので、両親に工面してもらったが、たかだが一日のためにここまでしなくとも、と思ってしまう。しかし会場は袴やら振袖やら、まぁなんとも豪勢な衣装をお召しの方が多くいらっしゃって、僕なんかはかすんでしまうほどだ。
会場にはひっきりなしに下品な笑い声が響いている。あの頃の教室を思い出して吐き気がした。
辺りを見回すと目に映るのは、鮮やかな髪色、奇抜なメイク。ホストやキャバ嬢のような風貌の成人たち。
背伸びして大人になったような奴らばかりだ、ほんとに。どいつもこいつも背丈が伸びて少し知識を蓄えただけ。きっと中身は子供の頃から何ら変わってない。
みんな、「大人」に擬態しているのだ。
世間でいう「大人」というのも案外こういうものなのかもしれない。みんな真似っこしてさもそれっぽく装っているだけなのかもしれない。
そんな思考を巡らせていると、偶然中学の同級生に再会した。久しぶりと言葉を交わして、彼から次に出た言葉。
「おまえも随分と大人びたな」
あぁ……。
僕は理解した。
僕もこれから、「大人」を演じなくちゃならないのだ。ビールの美味さが分かってしまう「大人」のふりをしなくちゃ、いけないみたいだ。
友人になけなしの愛想笑いを振り撒いて、多くの「大人」達に溶け込む。一張羅を着ているくせして、こんなに情けない、不甲斐ない自分が悲しかった。
三日月が空にぷかりと浮かんでいた。全く綺麗だとは思わなかった。月を見て綺麗だという、そんな当たり前にある日本人的感覚はとうの昔に消えた。
私の美意識はさながら三日月のように欠けてしまった。生意気な小娘を殺した、あの夜から。
あの子。
人を見下したような目つき、今でも覚えている。
入社仕立ての新人、ちょっと可愛いからって男どもからチヤホヤされて。お茶汲みも率先してやる健気な子。それに引き換え君は……と白い目を向けられる私。
これまで必死に努力してキャリアを積んできた。男社会の中でも果敢に挑んできた。女だからって馬鹿にしないでよと強気な姿勢でいた。私こそ、新しい時代に求められる人材なのだ。そう信じてやまなかった。
だが、結果は違った。どこへ行っても愛嬌のある子が可愛がられ、褒められる。実力なんて見てもくれない。
私の手柄を横取りしたと訴えれば、彼女は泣く。泣いて男を手玉に取る。狡い女。
狡い、狡い、狡い。
懇親会の帰り。彼女に馴れ馴れしく話しかけた。人通りの少ない道に出て、静寂のうちに投げかける。
「どうして、貴女は狡い女として生きられるの」
彼女は持ち前の愛嬌たっぷりの笑顔を私に向けた。
しかし、その顔はどこか引き攣っているみたいで、とても歪だった。
「使えるものは、なんでも武器にしちゃえばいいのよ」
毒々しい色の唇がぐにゃりと歪んで三日月になる。
「あたしもあんたも同じだよ」
耳元で彼女はそう囁いた。
私は、許せなかった。
許せるわけ、ないじゃない。
衝動に任せて、彼女の首元に両手を回した。
夜空には三日月が、私を嘲笑うかのように輝いていた。
*
三日月を見る度私は、あの気色の悪い唇を、狡い女の最期を、まざまざと思い起こす。
唇がぐにゃりと歪んだ。