犬がいます
疑い深い性格だった。でも要領も悪くって、それはいくつか年下の子供に指摘されて恥ずかしい思いをしたことが多いくらい。おまけに未知の物にはとんと興味がなく、そうして毎日同じことをだらりと過ごす人間だった。
見通しが立たない未知は嫌いである。ずいぶん遠回りしたが、なんとかつまりはそういうことを伝えたいのだと告げて返答を終えた。すると相手はゆるっと笑ってこう言う。
「なるほど、なるほど。あなたにとって未知とは真っ暗闇の指針のない道のりを指すのだな」
「まあ、そうとも言うね」
「うん、うん、よしわかった」
何かに納得したら言葉を区切って立ち上がり、そして椅子を横にずらした。酷い音を立てるかと眉を動かしたけれどそれは薄く満ちる無音。アスファルトの上だというのに、なぜだろう。
「下じゃなくって先をごらんなさい」
言われるがままに奥を見ると、相手がずれてできた向こうには明かりもなにもない、けれど風が吹き込んでいく道があった。道は先の言葉通りに真っ暗で、己の足元から一歩踏み出せば左右も前後も曖昧になるだろうとすぐに想像できた。
先、というからにはあれに向かうべきなのだろう。
「そうだな。あなたに贈るべき言葉は一つ」
じり、と足がアスファルトを鳴らして怖気づくも、背中を丁寧に押される。
「行ってみればわかる、すでに覚悟があるから。それだけさ」
いつのまにか「いやだ」も言えなくなった口がかすかに相手の名前を問うた。勝手に進みだす足を止められずにどんどん遠ざかる相手からは小さな返事が届く。同時に青い匂いと土の匂いがして、昔走った土手を思い出した。
「えーっと」
ついにはかき消えそうになってようやく、応えが鼓膜を小さく揺らした。
「ペロって呼んでくれたら嬉しいよ!」
翌日、せめて手引きや手段があれば迷いにくいと、あれこれマニュアルから用具まで──きっと使わないだろうけどとは言いつつ、いつか必要になるかもしれないと本当にあれこれ──用意はしてあるけど、それでも内心大いに不安なまま迎えた犬の名はペロリッチという名であるので。
「なァ、ペロって呼んでいいかな」
しばらくして慣れたころにそう聞けば、ワンとないたので。
そういうわけで、俺の家にはペロがいる。
常日頃から一緒に居たいとは言えない。忙しい人に「明日どこかに出かけよう」と口に出すのもためらってしまった。
夜半過ぎ、招集に向かったひとの残した皺をなぞる。抜け殻なんてとんでもなくて、ただ、ここに腕があったのだと思い返しても記憶はうすらに掴めないまま。もう充足が遠すぎる。
それはひとつひとつ丁寧にバツをつけた感情の答案用紙が取り残されて、それを隠し続ける後ろめたさと同じ。学生時代何度も経験した醜さを直視したくなくて、また学生時代と同じように、かさんだ紙束を燃やそうと。
じわじわと遠くの街からのサイレンが急かす。それが不安を注いで、限界だった。
怒りたって剥いだシーツを置き捨ててソファーに寝転がって、どうしてこんなにうまくいかないのだと天井を仰いでしまう。
朝方には帰ってきたひとが俺の手を握って傍で眠りにつく。それを知りながら言うべき言葉も見せるべき態度も一向に示せない。出来損ないの日々ばかりが積み重なってしまう。何度もそれを燃やしてしまいたいと繰り返し願って生きる。
夢の中であのひとが「私たちの日常ってそんなものだよ」と苦笑いした。
「落花生ってなんで落花生なの?」
一秒、二秒と間を置いてから「漢字の理由が知りたいの?」と問い返せば、手元を見つめたままこくんと頷いた。
ふむ、と顎を触るがすぐにスマホを手に取る。こういう由来の調査やイメージを挙げるときこそインターネットに頼るべきである。幼い子供の隣ですぐ検索結果を見せるのも探求心を減衰させそうで悩むが、おやつタイムには逆らえないからね。……などと心の中でだけ喚く教育熱心な己に言い訳を提出しておく。
そして落花生を剥いて小さいお口に渡しながらテーブルに寝かせた画面をスクロールした。
「なんか、落花生のお花が理由なんだって」
「ふうん。ね、ね、それちょうだい」
ふうん、って。興味がないのか。聞いたのはそちらさんだけれど。続けようとした説明も頭から放り出して黙って奥のコップを取ってやった。
子供だから、まあ、そういうこともあるでしょう。
剥いてやる手を止める。なんだかコーヒーを淹れたかった。一度スマホの画面を落としてカーテンで隔てられたキッチンへと向かい、沸かしておいた湯を湯呑みの中の粉へと注いで混ぜる。薄かった。
心の中でだけ喚くコーヒー好きの己がやいのやいのと騒ぐが、薄い上に湯呑みで飲むななんて今更の話であった。ここ数年のおっちょこちょいでカップが減りまくっているので仕方がない。香りはマシなのだし良いのである。
小さな体の隣に再び腰を落ち着け、また落花生を手に取る。中身を盛った皿はすでに空になっていたので、二人でもそもそと指を動かしていく。それでもスピードは随分と差がついていた。
大変頑張っているようだが、難しいのだろう。諦めて差し出されたそれを恭しく受け取り、すぐに剥いて口に放り込んでやる。そうして嚥下まで見届けたらその口が動き出した。
「きれいな漢字だよね」
殻皿へ捨てる間にコーヒーを覗き込んで嗅ぐ、丸くて小さな頭を見下ろす。どういうことだろう。
「流れ星みたいなお花なのかな」
一秒、二秒と間を置いてから「私もお花は見たことないな」と相槌を打った。
彼女の頭上で、薄く黒い夜空の中に星の花が落ちていく様を、ひっそり想像する。良いな、落下星。なら、うん、それでいいんじゃないかな。生来の怠惰よりも愛おしさでそう考える。
出しっぱなしにしていたパッケージの印字をそっと遠ざけて「今度、見に行こうか」と笑った。
「そう遠くない未来、あなたは後ろの人間に呪い殺される。今すぐに除霊なさい。除霊用の護符を持つべきです」
「はあ、そうですか」
お代を置いて席を立つ。紙幣の都合で倍の金額だったけれど釣りを貰う気にもならなかった。
背を向けて十歩も進めば引き止める声も聞こえなくなるだろう。こちらも態度の悪い客だがあれだけ支払ったなら向こうもすぐに忘れてくれると楽観視した。
下手な占い師というか霊媒師というか。道端に出した露店の胡散臭い相手でも手がかりにはなるだろうかと声をかけたのがおよそ十分前。「何を占いますか?」と聞かれてすぐに「幽霊がいるんですけど」と後ろを振り返ったのがまずかったのだと後悔する。落ち窪んだ先で商機を逃さんとギラついた目を思い出して、そっとため息をついた。
とはいえ実際現在今ここに幽霊がいるので、どうしたものか。
ヘボ占い師の言うことには悪霊らしい、道行く人の間を縫い抜ける先輩は楽しそうに歯を見せていた。呪い殺すのならもっとおどろおどろしい姿なり態度なりしてくれないと、こちらとしても警戒心が抜けちゃっていけない。それに呪われて死ぬくらいなら呪い返してから死ぬような性格であるのだけれど、すでに死んでる相手にはどうしたらいいのだろうな、とか。近いうちに訪れるらしい未来を考えた。
「呪っても良いのでしたらぜひ、いえ、まあ、やぶさかではありませんが」
おまけに当の幽霊がニコニコと言い出す愉快犯であることがいちばんいけない。
仕方なく街中であるし、絞り出すような返事をした。
「まったく、まったく、そんな未来は望んでおりませんからね」
耳に入ってしまったらしい訝しげな通行人と並んで先輩は笑う。笑うだけで、一度も返事をしなかった。
ついていくか、いくまいか、ただそれだけである。
差し出された手を取れば山も海も何もかもを超えていく。二人でやるんだと決意するのは後からでもできるだろうし、今はただ歩くだけで良い。
断れば。後ろを向き、背に問う声が頭へ入らないよう首を振りつつ駆け出すしかない。どうして、なぜ、薄情者、などにこたえる余裕などあろうはずもないから。駆け出さねば、声どころか腕に捕まって答えに窮するだろう。
地獄だと言う。目の前の男の子は地獄になった故郷を見て復讐を誓うのだと言う。やはりそれには応えられず。
失ったものに報いもせず因縁を辿る覚悟もない。さりとて一人静かに死ぬよりは昼も夜もなく歩くほうがマシだと、それだけを理由に手を取った。
滲むほど暖かい肉を想って、それを生きる理由にと決めた。