右隣に大きなぬいぐるみがある。ふわふわだけど短いファーに覆われていて、抱きつくと買ったときから変わらないお店の匂いがするのかしら。鼻を埋めながら次は力一杯ぎゅっと両腕を絞める。詰まった綿の反発が可愛らしい。
私たちの主人はこれが味わえないんだから、人間というのももったいなくて考えものである。
ここには素敵なものがいっぱい。硬い椅子、硬いテーブル、硬い水面のティーカップ。ぬいぐるみと私の豊かな髪以外は何もかもが硬くてチープでサイズが揃ってなくって、でも素敵なものばかり!
あとは私たちの主人がもう一度天井を開けてくれたら。それで遊んでくれたら人形冥利に尽きるんだけど、と。数年閉ざされたドールハウスでため息をつくポーズをとった。
透明とは呼べない窓からはあの子の姿も見えない。ここは安くて軽くて、しかしとっても素敵な狭い部屋。なのに主人はとってもとっても飽き性なの。
本当に、もったいないわ。
欲しいものが手に入らなかった。気になっていた新作アイスクリーム、季節ものだからって買う気になっていたホットスナック。それから最後に、毎回いちケースだけのチョコレートアソート。
俺が頻繁に買うからか、最近は見かけるたびに補充されていたのに紙箱は空っぽだった。……実のところそれはちょっと気恥ずかしかった。店員に「やっぱこれ買うんだ」と思われていそうだし。
けれども無い。無いなら、仕方ない。
伸ばした手を下ろして、そこから冷えていくような心地を味わった。振り返ってみれば執着だったんだろうと客観できる。たぶん恋と呼んでもいい。相手が人間だったなら友人たちだっていけいけ押せ押せと騒ぐような気持ち。
ついには全身へとまわって染まり切った悲しみに委ね、コンビニを後にした。他のところへ探しに行く気にもならない。この店舗のあれが欲しかった。あれが食べたかった。舌で溶かして飲んで胃液に混ざるだろうそれを想像して訪れていた。しかし今日で終わる。
いつかまた見るのなら、ただの消費者の顔ができるといい。
恋を失うって書くのなら、これだって失恋だった。
伸びない髪。増減も劣化もない細胞。減らない腹に排泄のない身体構造。
外側だけをそっくり写し取って私に手を伸ばす。
「触れ合いが恐ろしいと、君が言ったんだよ」
そうだ。確かにそう言った。
人間の皮膚というものは微かに産毛があったりするもので、それがどうも気味悪く感じられた。獣と同じくせに「わたしたちだけは違うのだ」と恐れ多くも君臨しているように思えて。
どうせ肉のくせに。皮袋を擦り合わせて触れるという行為は酷く嫌悪感を掻き立てる。
「わ、たしは、それでもあなたが好きだった」
「より君の好みに変化したんだ」
「それでも……それでも……」
人形の足元に縋る。初めて触れた体は冷たく見えて暖かかった。模しているのだと気づくも指先から侵食するような不快はない。
「前のあなたの方が良かった……」
「やっぱり僕らって相性が悪いんだよね。愛し合っているけれど」
膝を折って私に腕を回す。服の上でいちど止まってから徐々に抱きしめる、あなたの。
そういう優しさが好きだと伝わらなかった愛を恨んだ。
3000字超えてしまった。人が死ぬ話が出ます。
例えば愛したひとが。
「あなたに会えない間、幾夜となく枕を濡らしていた」
と独白したのなら。それか、そういう苦しく醜くぬるい心の隙を予測させるような、涙を見せるような振る舞いをしたのなら。
空想であっても甘ったるい気持ちの良さが身を包む。
それは、愛したひとが世では健気と呼ばれる性根をしていたのなら、とまで思考を融かす歌声だった。
ゆっくり瞼を持ち上げる。
酒の入ったグラス、ジョッキ、酒瓶たちは相変わらずガタついたテーブルの上で立っている。陽も落ちた薄暗い店内でステージからの光を受けてゆらめいていた。
鼓膜に触れては脳までじんと響くその歌詞が、というよりは、声が。
ふ、と笑って感想をこぼした。
「良い歌だ」
自分の横に座るひとが眉を寄せて腕を引く。野暮ったく俗っぽく、嫉妬とからかい笑ってやろうか迷ってすぐにやめた。その反撃に馬乗りになって襟元を手繰り寄せ、そのうえ凄んで「いまなんつった?」と怒気を滲ませるのが、己の愛するひとなので。
「お前の調子っ外れの子守唄も聞きてェな」
腕に触れていた指が今度は強くひねる。それでも恋人のふれあいを飛び出さない痛みに、今度は堪えきれない笑いが出てくる。
「ふ、ふふ、いや、悪ィ」
「悪ィって思ってないなら言うなよ」
「まさか。心から思ってるさ」
それから少しばかり酒は残っていたけれど心地の良いジャズミュージックをよそに連れの機嫌が悪くなるので、店の者に勘定を済ませて外に出る。
まだまだ宵っぱりには明るい。自分にとっては街灯も店灯も眠ってからが本番であった。
やがて目が慣れた空と街並みから視線を横に映す。
騒がしい夜が始まったばかりの街の中で、豊かな髪も怜悧な顔つきもいっとう好ましい。歳の数だけ嗜んだ遊びを肌に透かし見せつけるように成長している。なんて悪い人間に引っかかったもんだと呆れるには教え込んだ側に立ちすぎていた。とはいえ諸手をあげて「ようこそこちら側に」と迎えるにはかわいがりすぎた自覚もある。
店が見えなくなってもいまだ耳に残るほど良い歌だった。がなるように大きいわけでもないのにずっと昔に下した決断を揺すってくる、力強い歌声だった。たまらず、掻き乱された胸中のままに横の頭に手を伸ばす。
「うわっ、なに」
十や二十そこらのガキの頃からではなく、大人として数年の付き合いであるけれども。このある程度見守った存在を恋人と呼んでいいものか一時期はそれなりに悩んだものだった。
「いいや、なにもねェさ」
しかしまあ、二人は大人で自分の人生に自信と責任を持てるので、恋人と呼ぶことに決めたのだ。
ぐしゃぐしゃになった髪を少しずつ手櫛で直してやる。手のひらで隠れた奥から腑に落ちない文句が飛んでくるがなんてことはない。これも自分たちの間にあるコミュニケーションのひとつだ。
恋をするなら後腐れのない奴が良い。愛ならすでに出会った、そして幾度となく別れもした、気のいい奴らにも向けている。恋人、友人、仲間、相棒、色とりどりの中からどれがマシか選んだだけ。そこに師弟か兄弟のような何か言葉に押し込められない情があろうとも、その名前は都合が良いからという理由であろうとも、自由にやっていい身の上であることもあって。
それらの前置きを砕いて美しく重ね直した瓦礫の上に二人は立っている。
他には向けない言葉でぐるっと包み込む気持ちで、不満げにしつつも甘んじてこの手を受ける愛するひとを、恋人と呼ぶのだ。
もう一度店を訪れにゆく。
「酒を出すとこが朝からやってることなんてある?」
「飲み損ねたジンが惜しい」
「酒好きの奴らって意味わかんねェな……」
ぶつくさとうるさい恋人を引っ張って昨晩も登った坂を歩いていた。
「だいたい、それなら昨日残ってたら良かっただろ。こっちは一人で帰れたぞ」
その言葉がアルコールに強いことや飲みすぎない自制ができる意味だとしても、少し気に食わなかった。
からかいには敏感で怒鳴るような奴だがやり返し自体はすんなり通る奴でもある。だから握った腕に込める力を強めて振り返った。けれどやはりその痛みは恋人のふれあいの範疇になるように。
相変わらず眉間に皺があるが、その下の目はバツが悪そうに脇道のキジトラを追いゆく。自分が原因で酒が飲めなかったから今度は邪魔をしたくない、なんて心の隙は涙を見せずとも十分わかりきってしまった。
「悪いと思ってないなら言わなくていいぜ」
「……くそ」
「はは」
夜の吐息もない空気をさいて手を振り払われる。乾いた瞳がキッと睨みつけてくるのを心から可愛らしく思う。
恋人はもう一息の坂を駆け上がって一番上で青白い空を背に立った。
「ばーか!」
「はっ、ガキかよ」
でもこの街に来てから一番の笑顔だったから、ガキに戻ってしまった恋人に再び倣わせるのも、きっと脳を焼く喜びの予感に満たされるだろう。
清々しさとは裏腹に嗜めるために追いつくかと足を早める。どこに居たとしてもよそ者が目立つとすぐに要らぬやっかみを買うから。
現に酒場が見えた頃で道すがら幼い罵倒を耳にして出てきた住人の顔に、すかさず片手を振って問題ないことを告げる。
「痴話喧嘩かい」
「まあそんなところだ」
ほら、便利だ。
「仲が良いならそっちには行くんじゃねェぞ、楽しくねェ」
「なに?」
「真夜中に向こうの店で騒ぎが起きたんだ。警邏の連中がいるぜ。歌い子が死んじまった」
嫌な世の中だ。あんなに上手な子が。ああ、しみったれた通りに戻っちまう。
老人にさしかかった男はどんどん呟き落としてついには肩も曲げて「よそ者は出て行った方がいい」と言ったきり無言で軒先に戻っていった。
熱が冷めたわけではないのに楽しみが消えたように、二人は穏やかに日常に戻っていく。揃って静かに踵を返す。
「ジン、悪かった。ほんとうに」
もう一度捉えていた腕の先では同じように話を聞き拾っていた。
「いや、いいさ」
「歌も聞きたかったんだろ」
「別に」
誤魔化しや諦めではなかった。
長い旅路の中では別れはつきものだし、こうやって隣に立つ奴を選んだ以上、出会っただけの人間を強く惜しむ気持ちは湧いてこないままだ。
「ボトルの名前さえ聞けりゃあ良かった。そっちはもう飲めねェわけでもなし。歌もだ」
行きよりずっとゆったりと歩き、キジトラのいなくなったほかは変わらない路地も通り過ぎた。
「あの子の名前さえ聞けりゃあ良かった?」
そして愛しいひとも変わらず腕を触ってくるので本当に悪く思っているのかと疑問が頭をもたげてくる。しかしもうどうとでもなることだ。悋気もどきの相手が没したならやりようはいくらでもあった。
元々朝っぱらから酒が飲めるとは思ってない。多めに支払って釣りも要らないとしてきたなら、その恩でボトルやちょっとしたことくらいは教えてくれるだろうという算段だったのだが。
「歌のコツだけ聞けりゃあ良かった。お前の子守唄は寝るもんも寝れねェよ」
「……嘘だろ、そんなに?」
街の境を超える頃にはあくびを一つ。
のん気な街だと飽きてくるし、そこに名も知らぬ歌い子の悲劇が加わったとして自分たちには些事。突然の別れなんてものはありふれて、さらに言うなら悲劇ですらない。
次の街でも恋人として楽に過ごせたらいいと笑って肩を組む。のど元をくすぐる髪からは染みついた悪い人間の香りがした。
「だがまあ、恋ぐらいならしても良かったな」
「この誑しがよォ……そのうち痛い目に遭うぞ」
誑し込まれた被害者本人が恨めしく顎を狙うことであるし、まったくなんて信憑性のある言葉だろう。それからしばらく無言でお互いの脇腹をつつき合う。
すっかり姿を現しきった太陽を向いて、時々場違いなメロディを練習しながら二人は出立した。
それはまったくあり得ない、脈絡のない展開だった。
空気が弾けた音がして、ああしまった力を入れすぎたと残念に思う。そして各地に勢いよく散らばったポテトチップスを拾おうとまずは左を向き、男を見た。
「お久しぶりですね」
ただ流れるのみで目を引く予告シーンよりも数倍あり得ない展開として、半透明の男は慇懃な笑顔でそこに居た。
「おや、見えていませんか? 聞こえていますか?」
かろうじて中身が残っていたのに袋ごと放り出して寝室にドタバタと駆け込み鍵を閉める。扉を背にして座り込んでようやく、その男が記憶の引き出しを開け放った。彼は学生時代に世話になった男だ。どうして忘れていたんだか。自分の心に強烈に刻まれた存在のはず──だからこそ忘れたのだろうか。
「そんなに逃げるなんて」
声に合わせて見上げれば、下手なホラー映画の演出よりも恐ろしい姿でぬっと覗き込まれる。
その行動には音もなく気配もないが、視覚と聴覚は確かに、されども薄く先輩の姿と声を拾っていた。
「し、んだんですか」
「どうでしょうか。よくわかりません、記憶がなくって……」
わかりやすく雑に泣き真似を始めたので、扉から出た半透明の生首はB級映画にすり変わってしまった。
先ほどまでの自分が配信サービスの作品を吟味していたこともあり、非日常の一方で間抜けとも言える画角はスルスルと緊張を解いていく。
今日は長い連勤明けの連続有給休暇の初日だった。だから夕方からお菓子とかピザとかビールとか飲みなれないが憧れたワインだとかを並べて、よし映画だ! と意気込んだ日だった。それはもう二ヶ月くらい期待していたその日だった。
「……先輩は何かやることとか、言うことがあって来たんですか」
「いいえ、特には」
ケロリと泣き止んで生首が軽く振られる。それなら、じゃあ、と言いかけて、浅慮だろうかと一度唇を巻き込んだ。
きっと世間一般的には幽霊っぽい人をそのままに映画を見て食べ飲みするなんて呑気すぎる。
けれどもけれども、と疲労に支配された脳は娯楽を手放せずに堕落を勧めて喚いていく。
でも、ほんとうに、待ち侘びた日なんだ!
「僕は何もすることがなく浮かんでおりましたから。あなたに付き合ってみてもいいですよ」
聡い先輩がそうやって助け舟を出すのは昔と変わらなかったので、懐かしくも慣れ親しんだ舟に勢いよく乗り込むことにする。船頭は幽霊なんてそれこそ映画みたいでワクワクした。
そしてそれが疲労によるぶっ壊れたテンションが肩を押したからなのかは判別がつかなかった。
「じゃあ見ましょう、今すぐにでも選びましょう、だってすごく楽しみにしていたんです! この日を!」
「相変わらずで何よりです」
するりと頭を引っ込めた先輩に、勝手に人の家に入らないでくださいと今更のことを言いながら部屋を出る。
すると、ぐしゃり、と何かを踏み潰した。
それはポテトチップスだった。こんなところまで飛んできてたなんて、やはり疲れというものは動きも思考もブレーキを鈍らせる。
寝室からかリビングからか、ティッシュを取るにはどちらが近いか考えながら先輩の背面を目にして、ひとつ腑に落ちた。
やはり、彼には足がなかった。
「僕としてはこちらがおすすめですよ。馬鹿馬鹿しくって涙も枯れます」
「それってつまんないってことですよね?」
リビングに戻ると、先輩はツンツンとリモコンを触ろうとしてすり抜けていたので代わりに押してやった。道中拾ったポテトたちはゴミ箱へ。ピザの上のチーズがやや冷めていたのでトースターに入れて温め直す。アルミホイルは熱して良かったんだったか。先輩がいるので今更気になるも、仕方ないと被せた。なんとかなるなる。そして良い気分で並べていた酒は一本残して冷蔵庫にしまう。
いくらか片付いたテーブルの上で先輩は自由に浮きまくっていた。不思議そうな瞳でウロウロと。
「昔のあなたなら机に並べるのが楽しみだったでしょうに」
「学生じゃないので。大人なので」
「ふふふ」
羞恥からの遅くに失した隠蔽も見逃してくれる気になったらしい。
そのまま彼が泳ぐように横に流れた奥から印象的なロゴが現れる。結局言う通りに操作したので曰く刺激的につまらない映画が始まった。
「生身だったら僕も乾杯したのですけれど」
「まあまあ。いいじゃないですか。足の裏が油脂で汚れませんし」
「何の話です?」
それに、先輩が幽霊らしき姿だったから一緒に映画が見れるのだ。人間だったら流石に通報している。
過去の学生のときだったらどうだろうか、自分は驚き・固まり・口を開け、侵入を許していただろうか。瞬きひとつの間にそうしてどんどん記憶の引き出しが開いていく。
そうはならなかったから大人になったはずだった。想像こと記憶に基づいた捏造は理想を隅まで丁寧になぞるので、ああまったくタチが悪い。
「勝手に入ってきたらびっくりするからやめてくださいね、という話です」
ふざけて睨んだ視線を身軽に躱し、先輩はまた、何もかもお見通しですという雰囲気で笑う。それは絶対に繰り返し驚かそうと企む、幾重も重ねられた思い出と数寸違わぬ態度だった。
懐かしい姿の奥に学生時代を幻視しても先輩の濃度は変わらない。だというのに腹の底では不毛な執着が薪を得て、再び燃え盛り始めているのを自覚した。