後輩が毒草を育てていた。それもひとつふたつではなく、何種類も敷き詰めて。
植え替えてしばらく経つのか種子から育てたのか、随分綺麗に生い茂っている。技術的に見ても素晴らしい出来だ。
毒と呼ばれるその脅威も効果は様々だったが、仮にそれらを口にすればたちまち体を蝕むだろう。それだけ見たとしても調和どころか呪物としてあまりにも完成していた。
「よく、育てましたね」
口をついて出たのは賞賛のつもりはない、ただの驚愕だった。
よく集めたものだ。よく育てたものだ。
中には触れるのも避けたい花々があったから、後輩が素手だということに気づいて目眩までし始める。
「……あ、はい」
「はいではなく! まず手袋をしてください。……いえ、そんな軍手ではなく業務用のものをお持ちでないのですか?」
背も高くて迫力のある年上に声を荒げられたからか、それより三分の二の高さにあった頭が話の途中で逃げるように後ろを見やった。その視線をたどると畑の柵に放られたような軍手がかけてあったので焦燥感が目眩の閃光とともにぐるぐる飛び回る。見るからに安い、しかもくたびれて穴すらある軍手には荷が重い作業になるだろう。
「まずゆっくりその鉢を置いて。それから先生に手袋を貸与申請してきてください」
その場で大人しく従う姿に、どうしてこんなことをと疑問どころか好奇心が湧き上がる。
自分より小さくて自分より弱い後輩が、もしかしたら何かの覚悟を得たのかもしれない。ぼんやりと目の前の幼い生き物が誰かの息の根を止めるところを想像した。後輩にはそうするだけの理由があり、その境遇は人を育てるのだ。
現実の瞳は、細く短い指が草花にかすりもしないよう、見張る。
もしその指が誰かの首に沈んだら。もしその指が誰もいないキッチンで密かに毒物を仕込んでいたら。昨日までなら似合わないと思えたアンバランスなそれが、今の己にとって酷く蠱惑的な光景だった。
僕たちは子供だ。学生であり、発展途中の脳ある生物であることを指す。その中で後輩の成長・才能の開花というものは、それが己の領域に向けてなら尚のこと嬉しいので。
「間違っても軍手なんか借りてきてはいけませんよ。最低限、対毒付与されているものを。それと肘まであるものを借りてください。何かあってからでは遅い」
きっとこの子はやり遂げる。自分はそれを見届けたい。
あわよくば、その後ろから手を取って導いてやりたい。
「……」
か弱い生物が己の影の中でただ見上げてくる。流れた髪が鉢の上で揺れている。
きっとこれまでもその顔を見たというのに、想像というものは心を、ひいては視界を豊かにするもので、それはそれは可愛らしく映った。
鉢の上では一輪が噛みつこうと歯を鳴らしていたが届かない距離であるしどうでも良い。きちんと鉢の真ん中に植えているあたり、栽培のノウハウも熟知しているようだ。計画性がある。
「証拠が残ることが不安ですか。心配しなくとも、僕にお任せください」
胸に手を当ててにっこり笑う。なんせそういうものはウチの専売特許と言っても過言ではないのだ。
後輩はまだ身じろぎもせず瞬きもなく見つめてくるので、うっかり頬を染めてしまいそう。淡い感情が出てこないよう顔を無理やり引き締めて、今度はギラリと歯を見せつつ凶暴に笑った。
「あなたは安心して事を進めたらよろしい。後始末も、事後の追及からの逃亡も、僕が手解きしてみせましょう」
恭しく膝をついた姿はまるで騎士か執事。それでもすっぽり影に覆われたままの幼い魔女が、どうか子供のままで花開くようにと願ってその手を取る。
さあ、この僕に背中を預けて。共犯者にして。
「誰を殺したいんです?」
夏の始まりにのんきに風に揺られる毒草の上でふたりの密会が始まった。
楽園と呼ばれる土地の存在は知っていた。ゴミ臭くて腐り落ちかけたようなところにいる俺達には、まったくもって縁がない場所だ。
「そうか?」
すると右耳に酷く冷たい声が届いた。それに相槌は打たないけれど背後の大男はそのまま続ける。
「まあたしかにここも酷ェ場所だが、お前らが楽園とやらに縁がねェとまでは……。いいか、死ぬ気ってのは人をなんにでも変えるんだぜ。どこにだって連れてってくれる」
ふたたび無視を決め込んだ。なんと驚くことにこの大男は幽霊で、生きた人間との会話が楽しいらしく、俺が返事をすれば嬉々として語り続ける存在だ。二度ほど経験したのでそう理解している。
それから数時間。俺は黙々と手前のスクラップの山から光沢に特徴のある金属を探し出していく。ついでに大した値打ちはなくとも屋根代くらいにはなる工業品も。
これらは鋭利な欠片も混ざっているから慎重に探らなければいけなかった。作業用の手袋すら買えないし傷口から広がる病気に対処する余裕はない。
「なァ、おい、国の外に出ねェか」
手を止めた。
「外にはもっとデカい国もある。あの楽園なんて目じゃねェほどの楽しい場所だってある。俺がいるんだ。煩いだろうがお前より経験もある。子供ひとりくらい外に出してやれる――」
「いい、いらない」
日も落ちてきて手元が覚束なくなるまで残り少ない時間帯だったから。おおよその収集物のキリが良かったから。
俺はいくつか理由を付けて大男を振り仰いだ。少し色づいた太陽が向こうに透けて見えていて、ああ、こいつって本当に幽霊なんだなと思った。
「いらない。妹も一緒に出られないなら、俺はここで生きて死ぬ。楽園なんてどうでもいい」
「……妹がいるのか」
大男が知らないのも無理はなかった。俺はこの得体の知れない、憑いてくる存在を妹の前に連れて行こうとは思わなかったし、今も思ってない。
だって彼女は、どうしてこんな場所に生きているんだと縋りつき、詰りたくなるほど、美しかった。
まさに掃き溜めに鶴。
近所の頬がこけた奴が言っていた、その言葉が俺の手足の指針だ。飢えた鼠たちに見つかった鶴がどうなるかは考えたくもなかった。そいつは死んだから、もう妹の顔を知る者は俺しかいない。俺だけが妹を守れる。
「お前、兄貴なんだな」
大男は煙草をつけようとして一度固まり、それからやめた。
「じゃあ、妹も連れていく計画を立てなきゃな。正念場だぞ! 死ぬ気で、絶対、やり遂げろよヒーロー」
俺は目を見開く。ぴったり大男の顔の向こうに太陽が見えていた。普段なら眩しくて直視できないそれが幽かに光度を落として、血も滴るいびつな笑顔を明るく発光させている。
「……妹の前でその怖い顔したら許さねえから」
「なんでだ!? 笑顔だったろうが!」
そうか、この大男は俺をヒーローにしてくれるんだ。遠い昔に感じたことのあるような、ないような、そんな懐かしい歓喜が湧き上がってくるようだった。覚えてもいない両親が背中を押してくれるような。まるで普通の家族のような。
そしてそれと同時に恐れと悲しみが身を包む。
笑って手を貸してくれるこの幽霊こそ、死ぬ気でヒーローになったんだなと悟ったからだ。それで死んだんだ。きっと、間違いなく。
どうかこの優しい大男の向かう先が楽園でありますようにと、俺は初めて太陽に祈った。
死んだ人は風になる。空の果てへも、海の上へも、深い森の中へも、どこにだって自由に行けるようになる。それを与太話だと、まさかそんなことあるわけないって鼻で笑ったこともあったっけ。
しかしいま、私はそよ風だった。
春のそよ風は魂を運ぶゆるやかなくだり坂である。
「どうかな、私の背中は」
私の腹の下ではいろんな頭がうごめいていた。私の背に乗るあの子と同じ名前を樹を見て、酒を飲み、笑っている。たまにそういう騒ぎの横を通っていく。あの子と仲の良い誰かがいれば少しは楽しいかと、親切心からだった。
あの子は何も言わない。魂ってそういうものらしい。
「それじゃあ、そろそろ下に行こうか」
私もすでにいろんなことが曖昧だった。人間だった頃はなにひとつ思い出せない。
このあいだ、もしくは先日、いや、昨日? 一時間前? なんとなく、昔は風になることを馬鹿にしていたなァと、考えた事実を覚えていた。それだけで前述のとおり、斜に構えた人間だったと自覚している。
ではどうして寡黙な魂の名前を知っているのだろうね。私の産んだ子供だったかもしれない。それとも気の置けない友人だったかしら。
「なんにせよ、ちゃあんと運んであげるとも」
魂は震えたように感じた。私の腹の中で笑っているようにも思えた。
ひとしきり動き回って満足したので春の風は魂を天まで運んでやった。
地下深く、土の合間、つぶての脇、そういうものの奥に天がある。風はくだってくだって、底の奥。
もし君が生まれ変わって私の子、風の子供になったならもう一度一緒に飛び回れるかしら。
背中に乗ることがそんなに好きなのか、魂はまた暖かく震えていた。
意味もなく俺の手を取る男じゃないと知っていた。
ちか、ちか。短い閃光が瞬いて。
「信じているからな」
俺は何を返せばいいかは頭に浮かばなかった。
その期待に応えられない。やめてくれよ。そんな、大切な物を預けるような力強さで見ないでくれ。きらめかしい瞳をこっちへ向けないでくれ。応えられない。無理だ。絶対に、応えられないんだって!
いま心から溢れるがままにそう怒鳴っても良かったけれど、しない。できない。
「お前にしか頼めないんだ」
「や、やめてくれよ――」
もう一度骨がきしむほど握りしめられて閉口した。
じっとりとかいた汗が冷えていく。別れの予感が忍び寄り、俺たちの手を解いて彼を攫って行ってしまう。
「なあ、頼むよ、親友」
うるさい! 動けない俺を置いて、大事な約束も託して、一人で行ってしまう奴が親友でいてたまるか。お前なんかただの知り合いだ!
聞き入れたくない。嫌だ。耳を塞いで体を丸めて、一人泣いていたかった。
けれど結局いつものように諦めを口にする。
「……わかった」
俺に誰よりも深く楔を打ち付けて、あいつは俺の元を去りながら満足そうに頷いた。そして背中を向けたら二度と振り向かない……。
その記憶を十数年のうちに何度も夢に見ていた。
もう少し経てばこの夢は終わる。きっと俺は湿っぽい布団から起き上がって、朝食を用意する。その頃にはこの夢も微かになって、しかしなお掌に残っているような温もりを追いかけようとして、あの子を起こしに行く。知り合いの忘れ形見は体温が高いから。
強い閃光はもうずっと昔の思い出だ。唯一覚えていた刹那すら夢は朧気で、何一つあいつのことを語り聞かせられない俺は、もう親友には戻れなかった。
戻りたいと思うことすら許せなかった。
人間がミステリー的なそんな感じの展開で死ぬ話です。グロテスク及び詳細の描写はありません。特に解決もしてません。
「この場に探偵はいない。そういうルールのはずだ」
屋敷の主人が悲痛な声で叫んだ。
静寂を破ったそれを皮切りに、招かれた客たちがそろりそろりと続きを口にした。
「そうとも、そうとも」
「我々は推理を口にしてはならない」
「凶器を確定させてはならない」
「犯人を示してはならない」
誰も彼もが遠巻きにいっとう大きなシャンデリアを囲んでいた。その下敷きになった、顔も伺えぬ被害者の身元すら知ろうとしなかった。
外は季節はずれの大雪予報のままに夏の嵐よりも吹きすさんでいて、屋敷への路は絶たれている。すべての重たいカーテンが引かれた。すべての外と通じる窓戸口が鍵で閉ざされた。それでも煙突からか、通気口からか、雪花が紛れてくるほどだった。
やがて細々と続いた声も再び静けさを取り戻す。彼らは主人も含めて沈痛な面持ちでお互いの顔を見合わせるしかなかった。
この場に探偵はいない。いてはならない。なぜならそういうルールで集まったから!
この日、交流会と聞いて集まった反探偵同盟の面々は自らがすすんで探偵の真似事をするなど、まさに死んでも嫌だった。しかしながら、みな人殺しのいる場所から逃げ出したくもある。
どの顔も忙しなくぎょろぎょろと目を動かして差し出す贄を見極めた。誰かが〝汚れ役〟をやらねば疑心暗鬼が終わらないことを誰もが察していたからだった。
なにせ、数時間前、屋敷の主人は乾杯の音頭でこのように告げて客の笑いを取ってしまったので。
「──少なくともこちらのシャンデリアは今朝から何度も確認しております。ええ、ええ、まったく落ちるわけがない」
彼は最後にはこう締め括った。
「我々の中に殺人鬼がいるわけでもなければ、探偵の出番などありませんからね! 反探偵同盟の夜に!」
ああ、そうしてグラスの音が懐かしい記憶に感じるほどの、長く苦しい一夜が始まったのだ。