自分の体を強く握るとき。腕を叩くとき、両手を組み締めるとき。感じる痛みなんてひどく些細だ。爪を立てても傷にはならない。脳が制限するらしいとは聞いたけど、それにしたって力の込め方を誤ることはない。
なのに、自分以外の生き物に触れるとき、すべてを忘れたように撫で触る癖がある。
「その触り方は気に食わない」
恋人はそれがお気に召さないらしい。
「ああ……うん、ごめん」
「謝らなくていい。習得してくれ」
恋人が、じりっと距離を詰めてくる。ソファの肘置きに背がついて、思わずついた左手は掬うように奪われた。重心が崩れて覚束なくなる体幹は、原因たる恋人が手を回して支える。攫われた手にあてがわられたのは相手の胸の中心で、離れようとしても強く押し付けられていた。
「いや、おい、待って」
「どうして」
「……どうして、って、そんな」
「理由を教えてくれ」
辞さない意思の宿った瞳だった。こうと決めたら譲らないのはお互い様だ。でも、もう抗う気はなかった。自分の方が特異な意見なのだろうと感じていたから。
視線を交わしていられなくなって、右に、左に、下に、流れる。「待てるよ」と恋人の支える腕も徐々に降りていき、すっかり背がソファに着地した。そして、それでもしっかり左手が繋がっていた。
「ただ……恐ろしいんだ」
「何が?」
「……わからない」
本当に知らない。考えたこともないことを追い詰められたまま探り始めた。
「……誰でもそう。人間じゃなくても恐ろしい。加減がわからない。多分」
口で思いつくままに投げながら、告解のように視線を上げた。
己の手が逃げ惑った皺を作っているのに気にしていない。恋人の表情はただ一つ、ただ、物事の解明に尽力している様だった。もしくは、自らの欲求を突き通すために立証する顔。それに惚れていたことまで思い出して、溶けたような息を吐いてしまう。
「壊しそうで?」
「……多分」
「推測ばかりだな」
「今初めて考えたから」
「そうか」
ぐっと身を乗り出して、恋人の顔を包んでみる。左手に残った感触を鏡写しのように両手に再現して、でも、胸元より繊細なパーツだから、気持ち優しく。
「これは弱い?」
「とても」
出会った頃より老いた頬を軽く押しつぶす。
「これでも?」
「……ハァ」
ため息つかれても情けなく思わなくって、自分が求めたのはコレだったのかと腑に落ちた。腹に溜まった暖かさが、望んだ言葉を贈られるのだと期待に沸く。
「楽園はシルクの海だと言う」
「……うん?」
「けれどここは地上で、ここにいるのは人間で、幸いなことに、お互い魂に近い交流を許している」
語るには邪魔な両手は下げられたが、自ら腕を首に回した。それを満足そうに薄く微笑まれたら、急所を抱え込むことの恐れが消える。
「そして大人だ。断る文句だって山ほど知っているし、嫌なことはそう言う」
リビングの照明に姿が完全に重なる。髪の輪郭が光る。どれだけ神々しくても人間だから触れられる。じわりじわりと足元から体が重なり、やがて腹と腹が触れた。
「その状況で、触れられることを許していて、あなたの判断を信じている。だから何も迷わなくて良いよ」
もう一度背中がソファに触れたとき、満足そうな顔が互いの瞳に映っていたに違いなかった。
伏せ切った体をいつもより強く抱きしめてみる。耳と耳を擦り合わせてざあざあと血の巡りを聞き合った。重みを愛と決めつけることはできないけれど、今預けられた体を失くしたくなかった。
左手を奪われたとき鼓動がひどく速かったことを思い出す。何かが恋人を不安にさせて、それを自分が見逃したなら、きっとすれ違いの果てに感触すら思い出せなくなる日が来る。だから今日が幸運だったって、何度も胸に刻まなきゃいけない。
追い詰められたのはお互い様だった。
ぐわりと口を開くと、歯列や赤い舌が一瞬覗く。そのまま勢いよく噛みつけば、バーガーから垂れたソースが彼の手を汚した。眉間に皺が寄っている。不快なのはよくわかる。
「……なんだ。僕は間違っているのか」
「いいや、まったく。ジャンクってのはそういうことさ」
紙ナプキンを差し出せば躊躇してから受け取り、口元と手を拭う。丁寧な仕草だった。
バーガーは実に見事なサイズ。一口が大きいわけではないから彼の咀嚼は短いし、本来ならナイフとフォークを持つ手が指を重ねてバーガーを零さないよう頑張っていた。小動物然とした振る舞いと呼んでいいのか。伝えたら怒るだろうから、思うだけ。初めて食べるハンバーガーはお気に召したようだ。
ふたりそれぞれの、これまでずっとそうしてきたモノがぶつかって、こちらが譲ったり、あちらが譲ったりを繰り返してきた。譲る時は楽しい。譲られる時は嬉しい。ナイフ一本分、フォーク一本分、相手の隙間に入れてもらえた気分になる。
家に招かれた時、そう告げたことを思い出した。丸ごと人ひとり分、入れてもらえたから。向こうは納得して、こちらは妙な顔をして、ふたりして恥ずかしがった思い出。
「僕から見た話だが」
「うん?」
ようやく食べ切ったあと、彼らしく、汚れていない一番外側の紙包みを綺麗に折りながら視線だけを寄越した。
折り紙はやがて妙な角度の鳥を経る。慣れてしまえば自己流で楽しむ人。頭の中ではすでに完成形が美しい指に造られるのを待ち望んでいるのだろう。
晴れた空の下のパラソル、またその下の二人組にお似合いの夏鳥が現れた。鳥は彼の手を離れてこちらのスペースに届く。それは彼の故郷にいる鳥。
「君がそうやってあからさまに喜ぶものだから、譲歩してしまうんだ。そうしなくとも。僕らの文化が一分たりとも混じらずとも、安心できる関係性を目指すべきだと思うが」
「……」
「譲りっぱなしは性に合わない。その鳥の分だけでも、君の心に住まわせておけ」
「……うん」
背中がやけに暑くて、熱くて、顔も真っ赤になってしまっていたら、どうしよう。どうしてくれよう。
わずかに震える指が鳥を拾った。
家の中に飾るものは無い。これまでずっとそうしてきた中に、今日、折り紙の鳥を浮かせる。きっと彼を招いて「上等な紙で折り直してやる」と言われる日が来るだろう。それがひどく待ち遠しかった。
師匠曰く、「見たくもないものを見た」らしい。
「古今東西、魔法使いなんてものは陰気で厭らしい奴らなんだ。なのにどいつもこいつも楽を取って空を飛びたがる」
はあ、と気の抜けた返事をしたら、師匠はギロリと鋭い眼光で睨みつけてきて、舌打ちを一つ落とした。途端に俺の箒がぐわんぐわんと揺れるものだから、(なるほど、陰気で厭らしい!)と柄にしがみつく。
師匠の立派な馬車と比べると、俺の箒は実に貧相。掃除用具に紛れて置いていても違和感はないだろう。しかし箒の彼とは相棒と呼べるほど共にいるので、俺以外に操作されて酷く不機嫌なのが伝わってくる。
俺としては師匠に怒ってほしいのだけど、箒一本で挑んでも、馬車の御者が鞭を一振り、それでおしまいだ。宥めるように何度か撫でて、ようやく元の位置、師匠を隠すカーテンの横に戻ることができた。重たいカーテンが少し揺れると、さらに師匠の重たい瞳が見える。相変わらず弟子に厳しい人だった。
馬車には派手な装飾があるが、全体が黒、装飾も輝きを塗りつぶした黒なので、遠目に見れば何とも判別がつかないだろう。師匠の趣味に合わせて俺のローブも黒い。頭上は分厚い雲が覆っているし、陰気を象徴するように静々と空を飛び行く。
けれど。馬車とは反対側、遠くの空を見遣った。曇天から降り注ぐような日差しが、みっつよっつと差し込んでいて、眼下、街にぽっかり明るい穴を穿つ。人間の中ではあれが宗教的意味を持つことも納得できる美しさがあった。明かりを通さない静謐へ、剣が刺す。動乱が始まる予感がする。
見れば見るほど肌が粟立つけど興奮も治まりはしない。俺はあちらも飛んでみたかった。箒の彼だって自由に遊べたら楽しいだろう。前方不注意、蛇行運転になってしまっても、馬車にさえ当たらなければ楽しめてしまう俺たちだった。
師匠はぽつりとこぼす。
「……僕にだってそういう時があったさ。日差しの元に何があるか、知らないうちは楽しめるんだ」
部屋から部屋へ移るときのちょっとの段差。ちょうど良いからと腰掛けるともう動けなくなる。片手が洗濯物を選んだまま、かごの縁を止まり木にしていた。
隅っこで小さな存在になると、自分が人間でない気がしてくる。寝て起きたら、鳥から人間に生まれ直せるのだけれど、干してから寝なければならない。
「どうしたの」と同居人が脇に腕を差し込んできた。揺るぎない力でゆっくり立たされて。
「ちょっとね」
「うん」
「ちょっと、鳥にね、なってみたかっただけ」
「ふうん」
ふたりで洗濯物を干し終える。カタンと音を立ててかごを片付けて、ごめんとつぶやいた。
「夜だからね」
物音ではなく、手伝わせたことへの謝罪だったんだけど。まあいいかと思った。自分だって手伝って謝られると居心地が悪い。
ふたりで布団に入った。
真っ暗な部屋は隅がどこかもわからない。体の大きさも、文鳥か、人間か、鷲か、烏か、わからない。慣らした目を開く気にもならない眠気が酷くて、あくびと一緒におやすみを告げた。これっぽっちも起きていられそうになかった。
返事より先にもぞもぞと向こうの布団山が動く。
「あたしは が良いや。おやすみ」
朝、鳥の名は思い出せなかった。
布団の中に居る。暗い方が好き。アラームをかけたスマホを充電コード繋いで、伏せている。大食いの子と一緒に眠るため。
目をつぶる。眠気が来るのを待つ。
同居人の寝返りの音。遠くの部屋から伝わる赤子の泣き声。わたしが体の向きを変える。
なんとはなしに目を開ける。
木目を読む。
天国と地獄のあみだくじをする。
神と仏の分断線を夢想する。
日々。変わり映えのない、なんてことない日々で、眠れなくなる。
明日、図書館に行こう。寄り道せず閉館時刻に間に合うように。そうと決まれば宗教の本はどの棚にあったか思い出さなきゃならない。
スムーズに借りて、家で読む。
何度かシミュレーションし、暗闇の中の翌日のわたしが、暖かい格好で読書するのを眺める。
それがあんまり鮮やかな穏やかさだったので、夢だなあと気づいた。