人間がミステリー的なそんな感じの展開で死ぬ話です。グロテスク及び詳細の描写はありません。特に解決もしてません。
「この場に探偵はいない。そういうルールのはずだ」
屋敷の主人が悲痛な声で叫んだ。
静寂を破ったそれを皮切りに、招かれた客たちがそろりそろりと続きを口にした。
「そうとも、そうとも」
「我々は推理を口にしてはならない」
「凶器を確定させてはならない」
「犯人を示してはならない」
誰も彼もが遠巻きにいっとう大きなシャンデリアを囲んでいた。その下敷きになった、顔も伺えぬ被害者の身元すら知ろうとしなかった。
外は季節はずれの大雪予報のままに夏の嵐よりも吹きすさんでいて、屋敷への路は絶たれている。すべての重たいカーテンが引かれた。すべての外と通じる窓戸口が鍵で閉ざされた。それでも煙突からか、通気口からか、雪花が紛れてくるほどだった。
やがて細々と続いた声も再び静けさを取り戻す。彼らは主人も含めて沈痛な面持ちでお互いの顔を見合わせるしかなかった。
この場に探偵はいない。いてはならない。なぜならそういうルールで集まったから!
この日、交流会と聞いて集まった反探偵同盟の面々は自らがすすんで探偵の真似事をするなど、まさに死んでも嫌だった。しかしながら、みな人殺しのいる場所から逃げ出したくもある。
どの顔も忙しなくぎょろぎょろと目を動かして差し出す贄を見極めた。誰かが〝汚れ役〟をやらねば疑心暗鬼が終わらないことを誰もが察していたからだった。
なにせ、数時間前、屋敷の主人は乾杯の音頭でこのように告げて客の笑いを取ってしまったので。
「──少なくともこちらのシャンデリアは今朝から何度も確認しております。ええ、ええ、まったく落ちるわけがない」
彼は最後にはこう締め括った。
「我々の中に殺人鬼がいるわけでもなければ、探偵の出番などありませんからね! 反探偵同盟の夜に!」
ああ、そうしてグラスの音が懐かしい記憶に感じるほどの、長く苦しい一夜が始まったのだ。
人に見られても良い日記というものは日記にあらず。密やかに秘されてこそなのだ。
それを教えてくれたのは目の前のこの人だというのに、まったく。
「ちょっとだけ見せてよ」
「だめだってば!」
ずずいっと卓上に寄せられた顔を片手でずずずいっと押し返す。もう一方の手で私はなんとか日記を覆い隠そうとしていた。
羽ペンが転がり落ちても日記よりは後回し。溢れたインク代の分だけ怒って指の間の瞳を強く睨むと、潰れた唇がモニャモニャと動いた。
「仕方ないなァ。だいたいね、見られたくないなら食堂で書くんじゃないよ」
痩身の美丈夫はそう言って身を揺り戻し、向かいに着席した。むすっと拗ねたように口をとがらせているが、瞼も下ろしているあたり本当に諦めたらしい。
その表情はただのポーズなことを知っている。もともと拗ねるようなひととなりではない。
だから一応、注意深く、その目がうっすら開いてないか確認しつつ急いで片付けた。
もっとも、最初からそうしてくれたら良かったのにと思わずにはいられなかったけれど。
「見ないフリしてくれると思ったんだもん」
「しーまーせーんー。見られるものなら見る」
「なんでよ。見られたら日記じゃないんでしょ」
その瞬間、パチリと視線がかち合った。
危なかった。まっさきに日記を閉じておいて良かった、と息が漏れる。
美丈夫は右に左にと視線をやり、それからもう一度、今度は少しだけ身を乗り出してきた。
「よく覚えてたね」
「まあ、そりゃあ」
あの言葉を聞いたのは十年前だったか。そうやって年を数えると著しく記憶力の良いように思えるが、実際は違う。
私にとっては、ついこの間まで世界とはすっごく狭い範囲を指していた。足を伸ばせば端から端まで、下から上まで知ることができる変わり映えのしない世界だった。
美丈夫はその隙間にたまに入り込んでいたうちの一人で、中でも一番面倒を見てくれていた。
母、と呼びたくなったこともある。
「たくさん大事なこと教えてくれたんだから。ソレもきっと大事なことなんでしょ」
だから覚えていたのだ。撫でてくれた感触も、抱きしめてくれた温もりも、言葉のひとつひとつをも。
「まあ、そりゃあ」
母のような人は、今度はゆっくり腰掛けて、見惚れるほど綺麗につり上がったまなじりを和らげた。
「でもソイツはネタ帳だろ? 日記じゃない」
「両方! 日々感じたことを書き留めて使ってるん、だ、から……」
口にしながらもピンときて、私は思わず日記もインク瓶もすべてを胸に抱き込んだ。
「どうしてネタ帳って知ってるの」
目の前には柔らかな慈愛をそのままに、頬杖をついて厭らしく笑っているひと。
開いた唇から真っ赤な舌が見え隠れして、その後に続く言葉は私の臓腑を内から撫でていくようだった。
「昨日の書き始めは、そう、今日の心模様は──」
「わァーーーー!!」
大袈裟な態度で立ち上がる。椅子も後ろに倒して、小さい食堂とはいえ部屋中にけたたましく響き渡らせた。
「なんで読んでるの! なんで読んでるの!」
「そこにあったからだねェ」
「なんで見なかったフリしてくれないのォ!」
「そこにあったからだねェ」
信じられない、日記と思わなかったし、と続く私たちの言い合いは、もう一人の同居人が顔を出してくるまで長引いた。彼に止めてもらわなければ、いまだ頬杖をついてくつくつと笑うあの人を顔を真っ赤にして揺さぶっていたかもしれない。
それでも天使めいているのだろうから、ああもう、世の中ってやつは。
金輪際、もう二度と〝見られたくないなら食堂で書かない〟、絶対に。
結局私は心の奥底に、美しくて温度があって、宝箱いっぱいのお宝のような、そんな言葉たちに一行付け足した。
そして最後に、
「でもさ、良い書き出しじゃないか。俺は気持ちが良くて好きだよ」
と天使のように笑っていたので、後ろからどうどうと羽交い締めにされながら、やっぱりそれも付け足したのだった。
自分のことだけで頭がいっぱいだった。
家業についていけない悔しさも、どうして〝使えるように〟育ててくれなかったのだという怒りも、全部が渦巻いて脳を支配していた。
「あんたなんか、父親じゃない。来ないで。探さないで。さようなら」
目の前の男が傷つく顔をする前に踵を返した。見たくないものから逃げるなんてまったくもって子供だ。
それでも自分の中の父親は何よりも強く、朗らかで、そう、まるで太陽だった。
それにポンと放り込まれたような自分が温かく迎え入れられたのはあの陽気な人柄によるもので。本来ならそんなことが許されるはずもなかった。
足掻いて無理矢理にでも側にいたのはきっと見苦しかったに違いない。
誰よりも自分自身がそう信じ込んだ。
駆け足がだんだんと坂を登っていく。枝に引っ掛けた痕でじんと痛覚が主張する。
涙が出てくる。泣く資格もないくせに。みっともなくぼろぼろと。
暗い空がじわりと明るく見えて彼らが遠く見えるような頃合いなら、一思いに、と後ろを振り向いた。
「ハァ、ハァ……いない……」
見事な朝焼けがザンバラな前髪を縫って瞳に差す。それ以外誰も遮る姿はない。誰も追いかけてこない。
どっと疲れに襲われた足が限界を迎えて尻をついた。投げ出した靴がころころと落ちていく。
このまま朽ちてしまいたい。あの人の子どもではない何かになって、知らない人の元で暮らしてみたい。そのまま普通のそこらにいる人間のように朽ちる生き方を知りたい。
それは心踊る、夢のような生活に思えた。
ぜいぜいと肩で息をしながら土に伏す。あり得ない空想が鮮やかに形取る前に、息遣いと心臓の音の合間で聞き慣れた足音がひとつ。
「体力がないんだから走りすぎるな」
父親は笑って子どもの腕を取る。よっこいせ、なんてふざけた掛け声で背負う。
「お前はいつも泣いてるな」
太陽のように暖かな背中の上では静かに朽ちることができない。焦がれてしまうのは恐ろしかった。
目を背ける我が子に横目で明るく破顔して、父親はいっとう輝きを増した。
「ふうん、そういうところは俺よりも母親に似たのか? そりゃ良かったなァ! もう数年もすりゃあきっと立派になる」
涙も汗も瞬く間に拭われて泣き止ますのが上手い人。
彼の前では雫ひとつ自由にできない。
わたしはまだ、そういう生き方しか知らなかった。
「では、この老人が貰い受けよう」
見上げた傘の中は真っ暗だった。空には行灯のように月に霞がかかっていて、朧月夜すら眩しい変人がいるのだなァと妙に感心したのをよく覚えている。
わたしが手放したのを拾って、老人は大事に家に持って帰った。
家の中でも傘を差したままだったので、綺麗なハンカチのような布に包まれたわたしの命は、よっぽどの変人なのだなァともう一度感心を繰り返した。
老人はわたしが溺れないようにと風呂を見張っていても傘の下で「ぬくいか」と笑っていた。
わたしが飯を少しずつ口にする時も「美味いか」と笑っていた。
わたしが「何がそんなにおかしいのか」と問うた寝具の上でも「いつも笑ってしまうような、そういう顔をしている老人なのだ」と布団を被せながら笑っていた。傘の中は闇のままだった。
わたしはそれを聞くまで老いた人間という生き物は頬が落ちてたるんですべてが下を向くものだと思っていた。だから不思議に思って、よほどの好好爺たる顔を覗きに行ったことがある。
「よしなさい」
そのたった一言と大きな手のひらで押し留められて終いになった。
仕方なしに幾日か、幾年か、時間を置いてから別の切り口で探ることにする。
「何の理由で傘を差す」
それを聞いて、出会った頃よりずっと大きくなったわたしを上から下まで見た老人は、満足そうに頷いた。そういうふうに真っ黒い傘が動いていた。
わたしはというと、今朝方鏡で見た、飛び出た毛先が気になってきてちょいちょいと指で押さえていた。身だしなみに厳しい老人は「朝のうちに直しなさい」と小言をひとつ。それから先の返事をする。
「天を恐れて」
少し持ち上がった傘で『上』を示した老人に、今度こそなるほどと納得がいった。
「命を拾うような物好きは悪魔しかいないからか」
「聡く育って何より」
老人はそこでようやく、それでも口元だけを光に晒した。
そこに皺一つ見当たらないのを知って、つまりこの悪魔は重ねた年だけを見て老人を名乗るのだなと理解した。
「わたしが真に老人になったとき、美味いか?と尋ねよう」
「待ち遠しいな」
「熟すまで待つのが紳士の嗜みだ」
じり、と近づいていた一歩を踏んでやる。
皿の上に乗るにはまだまだ磨かなければならない。とりあえずは飛び出た毛先を戻しに行くことにする。
「拾ったからには最後まで面倒を見るものだぞ」
残された悪魔は困っているらしかった。そういうふうに、傘が動いていた。
負けたくない。たかだか人生十数年を常にそう思って生きてきた。人一倍負けず嫌いである自信があった。
そして実際、負けることは滅多になかった。なぜなら負けると思う勝負は避けてきたので。
たとえば俺のいるクラスで一番成績が良いのは高橋さんだ。試験の後日、採点後に返却される時彼女が朗らかな様子ならば、俺は黙って落ち込んだ雰囲気を醸す。逆に俺の方が上手くできたと思う時は声をかける。
「テスト、どうだったかな」
その瞬間、そこはバトルフィールドになるわけだ。
卑怯者とでもなんとでも言え。俺は負けたくないんだ。俺自信が勝負と決めたことで負けたくない。
「ええ、どうかしらね。総合点はなかなかだと思うのだけれど」
高橋さんは負けじと新規バトルフィールドを展開する。
しかしそれは失策だ。現時点で俺たちの手には数学の試験結果しかなく、尚且つ後出しでそれを出してきた時点で高橋さんは奮わなかったという事実が見える。
「たしかに才色兼備で部活動成績も素晴らしく先生方の覚えもめでたい君にとって、総合的な評価は大事だろうね」
流暢に流れ出た言葉を一度切って、にやり、と俺の口が曲がる。高橋さんはいつも通りの冷徹な顔で見つめていた。
「けれども今はテスト返却の初日!数学の結果を知りたいのだよ俺は」
そしてもったいぶって隠していた用紙をくるん、と回した。彼女へ光り輝く98点を見せる。
今回の点配分はすべて偶数点。おまけに返却時の教師は満点の生徒はいなかったと口を滑らせた。となるとこれはまァ俺の勝ちが決まっているのだ。悪くても引き分け、つまりは負けではない。
「俺としては悔しくも落としてしまったこの一問、かなり厳しい問題だったと考えている。これはもはや、ミホセン(数学担当の三保教諭の愛称である)から我々への挑戦とすら取れるだろう。君はどう思うか──」
朗々と続きを問いかける前に、それを遮って凛と声が届く。
「湯島くん。私としてはね」
彼女はまっすぐに立ち上がった。あまりにもピンと背筋を伸ばすのでやや気圧されて仰反ってしまう。
「君の勝負好きと、褒める時は言葉を控えることなく選び取るセンスと、目標のために調査を怠らず時期を探る注意深さを気に入っているの」
そこで一度目を伏せた彼女は、机の中からファイルを取り出した。
その薄紫を俺は反省ファイルと呼んでいる。彼女の成績が悪い時はそこに仕舞われるのを確認しているからだ。今日の数学の試験結果もそれに入っている。
「それから、すこし視野が狭くて私にしてやられるところもね」
彼女がそれをふるって風を起こす。目が乾いて瞬きをひとつしたとき、俺の目前には薄紫に輝き、しんと俺を見つめる二つの瞳と、俺を打ち負かす点数が現れていた。
「99点。どうかしら」
「な、なにっ!」
「くだんの最終問題については三保先生のお遊びね。一見至極面倒な計算が必要に思えるけど捻っただけでやることは四則計算の基礎。時間があれば君だって解けるでしょうよ……私は途中までだから、サンカクの1点」
「くっ、うっ……」
すぅっと瞳を弓にして、高橋さんは笑った。試験用紙が口元を隠しているけれど俺にはわかる!彼女はこういうときによく笑うのだ。
「この勝負は私の勝ち。君の負け。だから今日は駅前の日よ」
いつのまにか握りしめていた試験用紙を彼女がむりやり引っ張り出す。そして今度は青のファイルにそれを閉じ込めた。
「記念、記念」
踊るように髪を揺らす彼女を憎々しげに睨みつつ、俺は今週お小遣い少ないんだからなっと聞こえるようにぼやく。
帰り支度をする背中は愉快な声を隠しもせずに返事をした。
「あらもちろん知ってるわ。〝敵情視察は序の口だ〟ものね!」
どうして昼休みに親友にだけ言ったことを知っているんだ……。
そうして仕掛けた勝負で負けた俺と冷徹な顔に戻った高橋さんは二人して居残っていた教室を出て、駅前のパフェを食べに行くのだった。試験返却後の振り返り場所は勝った方が決めるという、俺たちだけの勝負に従って。
「勝ち負けだけじゃなくて恋人との時間という付加価値も考えてほしいわ」
「君に負かされ続けてなければ考えられるね」
俺たちの間に甘い触れ合いや慈しみの愛はなくて、恋人と賢いライバルとクラスメイトと、それから素敵な友人という四つの肩書きがすべてだった。今日は恋人の気分らしいが敗者は口無しであるので。
俺が彼女に勝てる日は来るのか。なんだかんだ、その隙のない冷徹と甘味に染まるような笑顔が好ましいのだからそんな日は来ない気がする。
仕掛けておいて情けないことに、たとえ未来が見えるとしても。