NISHIMOTO

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負けたくない。たかだか人生十数年を常にそう思って生きてきた。人一倍負けず嫌いである自信があった。
そして実際、負けることは滅多になかった。なぜなら負けると思う勝負は避けてきたので。
たとえば俺のいるクラスで一番成績が良いのは高橋さんだ。試験の後日、採点後に返却される時彼女が朗らかな様子ならば、俺は黙って落ち込んだ雰囲気を醸す。逆に俺の方が上手くできたと思う時は声をかける。
「テスト、どうだったかな」
その瞬間、そこはバトルフィールドになるわけだ。
卑怯者とでもなんとでも言え。俺は負けたくないんだ。俺自信が勝負と決めたことで負けたくない。
「ええ、どうかしらね。総合点はなかなかだと思うのだけれど」
高橋さんは負けじと新規バトルフィールドを展開する。
しかしそれは失策だ。現時点で俺たちの手には数学の試験結果しかなく、尚且つ後出しでそれを出してきた時点で高橋さんは奮わなかったという事実が見える。
「たしかに才色兼備で部活動成績も素晴らしく先生方の覚えもめでたい君にとって、総合的な評価は大事だろうね」
流暢に流れ出た言葉を一度切って、にやり、と俺の口が曲がる。高橋さんはいつも通りの冷徹な顔で見つめていた。
「けれども今はテスト返却の初日!数学の結果を知りたいのだよ俺は」
そしてもったいぶって隠していた用紙をくるん、と回した。彼女へ光り輝く98点を見せる。
今回の点配分はすべて偶数点。おまけに返却時の教師は満点の生徒はいなかったと口を滑らせた。となるとこれはまァ俺の勝ちが決まっているのだ。悪くても引き分け、つまりは負けではない。
「俺としては悔しくも落としてしまったこの一問、かなり厳しい問題だったと考えている。これはもはや、ミホセン(数学担当の三保教諭の愛称である)から我々への挑戦とすら取れるだろう。君はどう思うか──」
朗々と続きを問いかける前に、それを遮って凛と声が届く。
「湯島くん。私としてはね」
彼女はまっすぐに立ち上がった。あまりにもピンと背筋を伸ばすのでやや気圧されて仰反ってしまう。
「君の勝負好きと、褒める時は言葉を控えることなく選び取るセンスと、目標のために調査を怠らず時期を探る注意深さを気に入っているの」
そこで一度目を伏せた彼女は、机の中からファイルを取り出した。
その薄紫を俺は反省ファイルと呼んでいる。彼女の成績が悪い時はそこに仕舞われるのを確認しているからだ。今日の数学の試験結果もそれに入っている。
「それから、すこし視野が狭くて私にしてやられるところもね」
彼女がそれをふるって風を起こす。目が乾いて瞬きをひとつしたとき、俺の目前には薄紫に輝き、しんと俺を見つめる二つの瞳と、俺を打ち負かす点数が現れていた。
「99点。どうかしら」
「な、なにっ!」
「くだんの最終問題については三保先生のお遊びね。一見至極面倒な計算が必要に思えるけど捻っただけでやることは四則計算の基礎。時間があれば君だって解けるでしょうよ……私は途中までだから、サンカクの1点」
「くっ、うっ……」
すぅっと瞳を弓にして、高橋さんは笑った。試験用紙が口元を隠しているけれど俺にはわかる!彼女はこういうときによく笑うのだ。
「この勝負は私の勝ち。君の負け。だから今日は駅前の日よ」
いつのまにか握りしめていた試験用紙を彼女がむりやり引っ張り出す。そして今度は青のファイルにそれを閉じ込めた。
「記念、記念」
踊るように髪を揺らす彼女を憎々しげに睨みつつ、俺は今週お小遣い少ないんだからなっと聞こえるようにぼやく。
帰り支度をする背中は愉快な声を隠しもせずに返事をした。
「あらもちろん知ってるわ。〝敵情視察は序の口だ〟ものね!」
どうして昼休みに親友にだけ言ったことを知っているんだ……。
そうして仕掛けた勝負で負けた俺と冷徹な顔に戻った高橋さんは二人して居残っていた教室を出て、駅前のパフェを食べに行くのだった。試験返却後の振り返り場所は勝った方が決めるという、俺たちだけの勝負に従って。
「勝ち負けだけじゃなくて恋人との時間という付加価値も考えてほしいわ」
「君に負かされ続けてなければ考えられるね」
俺たちの間に甘い触れ合いや慈しみの愛はなくて、恋人と賢いライバルとクラスメイトと、それから素敵な友人という四つの肩書きがすべてだった。今日は恋人の気分らしいが敗者は口無しであるので。
俺が彼女に勝てる日は来るのか。なんだかんだ、その隙のない冷徹と甘味に染まるような笑顔が好ましいのだからそんな日は来ない気がする。
仕掛けておいて情けないことに、たとえ未来が見えるとしても。

4/20/2023, 10:20:55 AM