NISHIMOTO

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「では、この老人が貰い受けよう」
見上げた傘の中は真っ暗だった。空には行灯のように月に霞がかかっていて、朧月夜すら眩しい変人がいるのだなァと妙に感心したのをよく覚えている。
わたしが手放したのを拾って、老人は大事に家に持って帰った。
家の中でも傘を差したままだったので、綺麗なハンカチのような布に包まれたわたしの命は、よっぽどの変人なのだなァともう一度感心を繰り返した。
老人はわたしが溺れないようにと風呂を見張っていても傘の下で「ぬくいか」と笑っていた。
わたしが飯を少しずつ口にする時も「美味いか」と笑っていた。
わたしが「何がそんなにおかしいのか」と問うた寝具の上でも「いつも笑ってしまうような、そういう顔をしている老人なのだ」と布団を被せながら笑っていた。傘の中は闇のままだった。
わたしはそれを聞くまで老いた人間という生き物は頬が落ちてたるんですべてが下を向くものだと思っていた。だから不思議に思って、よほどの好好爺たる顔を覗きに行ったことがある。
「よしなさい」
そのたった一言と大きな手のひらで押し留められて終いになった。
仕方なしに幾日か、幾年か、時間を置いてから別の切り口で探ることにする。
「何の理由で傘を差す」
それを聞いて、出会った頃よりずっと大きくなったわたしを上から下まで見た老人は、満足そうに頷いた。そういうふうに真っ黒い傘が動いていた。
わたしはというと、今朝方鏡で見た、飛び出た毛先が気になってきてちょいちょいと指で押さえていた。身だしなみに厳しい老人は「朝のうちに直しなさい」と小言をひとつ。それから先の返事をする。
「天を恐れて」
少し持ち上がった傘で『上』を示した老人に、今度こそなるほどと納得がいった。
「命を拾うような物好きは悪魔しかいないからか」
「聡く育って何より」
老人はそこでようやく、それでも口元だけを光に晒した。
そこに皺一つ見当たらないのを知って、つまりこの悪魔は重ねた年だけを見て老人を名乗るのだなと理解した。
「わたしが真に老人になったとき、美味いか?と尋ねよう」
「待ち遠しいな」
「熟すまで待つのが紳士の嗜みだ」
じり、と近づいていた一歩を踏んでやる。
皿の上に乗るにはまだまだ磨かなければならない。とりあえずは飛び出た毛先を戻しに行くことにする。
「拾ったからには最後まで面倒を見るものだぞ」
残された悪魔は困っているらしかった。そういうふうに、傘が動いていた。

4/20/2023, 11:27:29 AM