NISHIMOTO

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人に見られても良い日記というものは日記にあらず。密やかに秘されてこそなのだ。
それを教えてくれたのは目の前のこの人だというのに、まったく。
「ちょっとだけ見せてよ」
「だめだってば!」
ずずいっと卓上に寄せられた顔を片手でずずずいっと押し返す。もう一方の手で私はなんとか日記を覆い隠そうとしていた。
羽ペンが転がり落ちても日記よりは後回し。溢れたインク代の分だけ怒って指の間の瞳を強く睨むと、潰れた唇がモニャモニャと動いた。
「仕方ないなァ。だいたいね、見られたくないなら食堂で書くんじゃないよ」
痩身の美丈夫はそう言って身を揺り戻し、向かいに着席した。むすっと拗ねたように口をとがらせているが、瞼も下ろしているあたり本当に諦めたらしい。
その表情はただのポーズなことを知っている。もともと拗ねるようなひととなりではない。
だから一応、注意深く、その目がうっすら開いてないか確認しつつ急いで片付けた。
もっとも、最初からそうしてくれたら良かったのにと思わずにはいられなかったけれど。
「見ないフリしてくれると思ったんだもん」
「しーまーせーんー。見られるものなら見る」
「なんでよ。見られたら日記じゃないんでしょ」
その瞬間、パチリと視線がかち合った。
危なかった。まっさきに日記を閉じておいて良かった、と息が漏れる。
美丈夫は右に左にと視線をやり、それからもう一度、今度は少しだけ身を乗り出してきた。
「よく覚えてたね」
「まあ、そりゃあ」
あの言葉を聞いたのは十年前だったか。そうやって年を数えると著しく記憶力の良いように思えるが、実際は違う。
私にとっては、ついこの間まで世界とはすっごく狭い範囲を指していた。足を伸ばせば端から端まで、下から上まで知ることができる変わり映えのしない世界だった。
美丈夫はその隙間にたまに入り込んでいたうちの一人で、中でも一番面倒を見てくれていた。
母、と呼びたくなったこともある。
「たくさん大事なこと教えてくれたんだから。ソレもきっと大事なことなんでしょ」
だから覚えていたのだ。撫でてくれた感触も、抱きしめてくれた温もりも、言葉のひとつひとつをも。
「まあ、そりゃあ」
母のような人は、今度はゆっくり腰掛けて、見惚れるほど綺麗につり上がったまなじりを和らげた。
「でもソイツはネタ帳だろ? 日記じゃない」
「両方! 日々感じたことを書き留めて使ってるん、だ、から……」
口にしながらもピンときて、私は思わず日記もインク瓶もすべてを胸に抱き込んだ。
「どうしてネタ帳って知ってるの」
目の前には柔らかな慈愛をそのままに、頬杖をついて厭らしく笑っているひと。
開いた唇から真っ赤な舌が見え隠れして、その後に続く言葉は私の臓腑を内から撫でていくようだった。
「昨日の書き始めは、そう、今日の心模様は──」
「わァーーーー!!」
大袈裟な態度で立ち上がる。椅子も後ろに倒して、小さい食堂とはいえ部屋中にけたたましく響き渡らせた。
「なんで読んでるの! なんで読んでるの!」
「そこにあったからだねェ」
「なんで見なかったフリしてくれないのォ!」
「そこにあったからだねェ」
信じられない、日記と思わなかったし、と続く私たちの言い合いは、もう一人の同居人が顔を出してくるまで長引いた。彼に止めてもらわなければ、いまだ頬杖をついてくつくつと笑うあの人を顔を真っ赤にして揺さぶっていたかもしれない。
それでも天使めいているのだろうから、ああもう、世の中ってやつは。
金輪際、もう二度と〝見られたくないなら食堂で書かない〟、絶対に。
結局私は心の奥底に、美しくて温度があって、宝箱いっぱいのお宝のような、そんな言葉たちに一行付け足した。
そして最後に、
「でもさ、良い書き出しじゃないか。俺は気持ちが良くて好きだよ」
と天使のように笑っていたので、後ろからどうどうと羽交い締めにされながら、やっぱりそれも付け足したのだった。

4/24/2023, 9:04:05 AM