かわいいひとが散った。
爪の隙間に土が詰まっていた。そして小石が肌を引っ掻いて赤い線を作っても気にしていられなかった。ぬめった何かの生きものがいて、大きな岩も埋まって塞いでいる。
嫌なものは避け、右も左も上下もわからないままもがき続けておよそ半日。男はようよう這い出た先で月を見た。
獣の呼吸が鼓膜を揺らし、それが自分の喉から鳴っていることを知る。ひとみが大きく拡大して興奮を如実に表していた。
それから、その様を高い針葉樹がじっと見下ろしていた。
四半刻後、やがて男の頭が垂れて手足を視認する。見るに耐えない死者の装束をおぼつかない手つきで脱ぎ捨てて、裸で走り出した。
ざわざわと木々が騒ぐ木立を逃げる。その影が右に左に揺れて男の顔を過ぎていく。
土地も方角もわからないままだった。しかしそれでもここではないどこかへ。
起きたばかりの男の胸中も、右に左にと忙しなく揺れていた。
君の髪をとかすのが好きだ。みんなで世話をして、さらりと透き通っていくのが特に好き。一本引っかかって途切れちゃったときなんか、悲鳴が出るかと思った。君の頭皮が痛くなかったら良いんだけど……。
そうやって毎朝毎晩君を待っていたら、ある日変な人間がやってきた。どうやら自称能力者というやつらしい。
「ええ、はい、強い意志を感じます」
「本当ですか!じゃあお願いします」
ちょっと待って。君、そんなに歓喜しなくとも。だいたい得体の知れない人間を部屋に呼ぶんじゃあない!三日通えとは言わないが、危機感を持ってくれ!
と警鐘を鳴らす私の声も虚しく、妙な人間が私に手をかざす。なんだっていうんだ!
「──やめてくれよ、何するかわかったもんじゃない!危ないんだから……えっ?」
「わあ!可愛い人!やったァ、ありがとうございます!」
「いや、君、そう、君!一体何を」
私の足はとんと地につき、私の腕はしっかり君の肩を掴む。なんてことだ。どういうことだ!
人間になっている!
「わたくし、そういう能力者ですもの」
そう言ってにこやかに笑う人間に、主人たる君は報酬を手渡した。
やや狭い洗面所に押し詰めになっていたので自称でなくなった能力者を見送り、私は初めて足を踏み入れた居間に座ってこれからの話をすることにした。
この部屋に来てからは洗面所にしか居たことがなかった『櫛』なので、正座も何もかもが慣れない。
「おばあちゃんに譲ってもらったとき、一目惚れだったわ」
君は笑って馴れ初めを話すけれど、たしかにそれは私も知るところではあるけれど。
「付喪神に愛されてるねって声をかけてもらって、それからあなたと話がしたいと思ったの。人間になってみて、どう?」
「すごく、戸惑っている」
「まあ。ええ、そうだよね。これから一緒にご飯にして、ゆっくり話をしようね」
君がどんな生活をしているのか夢想しなかったわけじゃない。
でも、それでも、私は君の髪をこの身で漉くのが好きだったのに。それだけが良かったのに。
君の背でふわりと揺れる黒髪に目を奪われてやまないのに、何もかもがひどく遠かった。
あの子の右手がほしかった。もし私の右手があの子の右手なら、憧れの人と手を繋いでも、「なんか怪我してる?」とか言われなかったかもしれない。部活でできた凹凸は深くて一生治らなさそう。
あの子の目がほしかった。キラキラしていて、見つめ合ってもそっと気まずげに逸らされることのない瞳。
あの子の声も。一度だってかかってこない通話が叶うのなら。
「神様に願ってもらえるものならめちゃくちゃ取り替えてほしい……」
最初から最後まで落ち込んだデートの日、わたしは居間のソファで膝を抱えていた。なんとかしてあの人を繋ぎ止めなければ。
膝を解放して両手をギュッと握り合わせる。ああ、どうか、天にいるらしい神様、叶うのならば、テレビの中にいるあの子のすべてをください!
「つーかさ」
わたしのクッションを尻に敷いていたがために、げしっとソファから蹴落とされた兄がこちらを振り向いた。
「アイツ恥ずかしいだけじゃね?」
「えっ」
兄はゲーム──最近同世代で流行ってる戦闘ゲームだ──のポーズ画面のままスマホをローテーブルに置き、珍しく真面目な顔をしてあの人、兄からすれば友を語り始める。最初に紹介してくれた以降何を言っても目をつぶって沈黙していたのに別人かのように真剣な視線でわたしを見ていた。
「手ェ、悪くは言われなかったんだろ。心配したんじゃねェの」
「えっ」
「そんでな、アイツ内気なとこあるから見つめ合いとか無理だぞ」
「えっ、えっ」
「だから電話はお前からかけろ。以上!」
「えっ!!」
わたしの顔は嬉しさで溢れているだろう。お互いを親友と呼んで憚らない兄が言うならきっと間違いじゃない。
ニヤリと口角を上げてラグからソファに舞い戻った兄は再びクッションを尻に敷こうとし、ややあってそれを端に寄せた。ぜひ常日頃からそうしてほしい。
そしてスマホを取り寄せてわたしの眼前に掲げてみせた。いつも通りの戦闘シーンで不自然に固まったキャラクタがいるが笑う余裕もない。
「そんでさ、この戦闘どうしたらいいと思う?」
「ねェ、本当に?ほんとのほんと?」
「マジもマジ、大真面目にぜってェそうだって。そんでこれさ、どうしたらいいと思う?」
「右翼が甘いと思う」
「マジ?」
「マジもマジ、大真面目に。で、本当に?」
「だからマジだって言ってんだろ!信じろよ。おまえの神だぞ、おれは」
ドンと胸を叩いた神様はそれからわたしの横でゲーム片手に話を聞いてくれた。いつも負けまくってわたしに攻略を聞いてくるくせにフレンドより良い成績にしたいと手放さないままだ。
尚、わたしはというと、あの人もハマっていると聞いたのでマスターしてあるのだ。まだお話で趣味までは踏み込めていないけど!
「てかさ、よくわかんねェ天に祈るより、おれに祈れ。あとお菓子くれ。そんでおれっていう神様はな、恋のキューピットもできんだよ。コレのためには」
「そうなんだ。あとそのスキル変えた方がいいよ」
「マジ?助かる、ゲーム神様」
わたしは両手が塞がった恋愛神様へ貢物たるポッキーを運んできて、あの人のためならゲーム神ごっこも悪くはないなと思った。
病気の主人公の気分が暗くなる描写があります。短いですが明るい話ではないので、苦手な方は避けるか、超元気!な時に読んでください。
小さくひらいた襖が外から光を招いてうすら明るい和室に踏み入らせている。
清潔に保たれた布団の中から、顔までは伸びてこない光線ごと細長く切り取られた庭を見ていた。
快晴の午前のなかばに、いくつかの気配が近づくたびに息をしぃっと吐き出して、つぎは赤子よりも柔らかく吸う。どうか、だれも通りませんように。
「調子はどう?」
「……最悪だよ」
「そうかな。昨日より元気そうに見える」
気配は外から「素人目だけどね」、と付け足す。襖が動くのと同時に空気が巻き込まれるように換わって、そこに跪坐した、湯気の立つ膳を持った美丈夫は八の字眉で笑っていた。
時間通りだ。それが近づいてくるのを待つしかなくて、もどかしくて、苦しい。
ゆっくり背に差し込まれた手を本当は払いのけたい。それらを知っているからこの男は最低限しか手を貸さず、私はこうして苦痛を長引かせながら体を起こす日々だ。
扱いが気に食わないのだと苛立ちのままに振る舞うのも飽きた。
それでもふう、ふうとレンゲの粥を冷まして、差し出されて。どうしてもそれが口にできない。
徐々に顔を伏せてついにはうずくまった私の背を支える手が、やがて宥め、摩るようになる。食器を置く音が響く。むなしい音色に、ほど近くのいくつかの気配が揺れた。
私が嫌って遠ざけただれもかれもが、私を案じて近くの部屋に居るのを知っている。
みっともなく縋ってしまえば、みんなはまるで仏かと思うほど慈愛の顔で抱きしめてくれるだろう。暗く深い泥の、しかしごうごうと燃え盛る自我が足を引っ張らなければとっくの昔にそうしていた。
それは先は見えてもただただ遠い道のりの地獄だった。
胸の内をすべて透かし通すような光が襖から伸びていて、強い日差しだけがまるで蜘蛛の糸だった。