【風邪】
目を覚ますと君の寝顔があった。僕のベッドに頭を預けて、すうすうと寝息を立てている。カーテンの向こうから差し込む夕日が、室内を優しい橙色に染め上げていた。
隠していたつもりだったのに、どうして気がついたのか。いつのまにか額に貼られていた、既に生温かくなっている冷却シートを指先でなぞる。合鍵を使って勝手に家へと入り込み、一通りの看病をしてくれたらしい君の眠る姿をぼんやりと眺めた。
多少の風邪くらい、放っておいたって構わないのに。いつだって一人で耐えてきたのだから、このくらい問題ない。それなのに君の向けてくれる優しさが愛おしくて、じわりと涙が滲んだ。
(おかしいな。何でこんなに、涙もろくなっちゃったんだろ)
全部、全部、君のせいだ。君が僕に、誰かがそばにいる温もりを教えてくれたから。君が僕を、ただの人間にしてしまったから。君が僕の不調に気がついて世話を焼いてくれたことを、こんなにも嬉しいと思ってしまうんだ。
(ありがとう)
重たい腕を持ち上げて、君の頭をそっと撫でる。そうしてもう一度、穏やかな微睡みへと思考を落とした。
【雪を待つ】
しんと冷えた空気が、皮膚を裂く。灰色の曇天からは今にも雪がこぼれ落ちそうだ。吐いた息が白く天へと吸い込まれた。
きっともうすぐ、今年最初の雪が降る。そうすれば君が姿を現すだろう。境内が静かな白に包まれる間だけ言葉を交わすこととできる、麗しい僕の神様が。
冬は嫌いだ。水仕事をする手はかじかんで、あかぎればかりになる。足先は冷えて、薄いせんべい布団じゃ寒すぎてまともに寝入ることすら難しい。だけどそれでも、君に会うことができるほんの短い季節だから。それだけで大嫌いな冬を、少しだけ好きになれるんだ。
(早く会いたいな)
雪の降る日を待ち遠しく思いながら、僕は井戸のつるべをからからと巻き上げた。
【イルミネーション】
クリスマスが近づくと、街全体がキラキラと輝く。街路樹は鮮やかなイルミネーションに飾られ、道ゆく人々の足取りも軽く。澄んだ空気が夜空の月を冴え渡らせる。この時期の街を眺めるのが、私はいっとう好きだった。
「またここにいた」
呆れたような君の声に振り返る。打ち捨てられた無人のビルの屋上にわざわざ訪れる物好きなんて、私と君くらいだ。
「ふふっ、だって贅沢でしょ? この綺麗な世界を独り占めにできるんだから」
チカチカとイルミネーションの明かりが眼下に瞬く。北風に晒されて氷のように冷たくなった手を取って、自分のコートのポケットに入れた。指を絡ませて、熱を分け与えてあげる。
「それに、君も隣にいてくれるしね」
「ほんっと……そういうとこが敵わないんだよな……」
辟易したような声色に反し、君の耳は真っ赤に染まっていて、照れているのがよくわかる。そのわかりやすさに思わず口元が綻んだ。
二人きり、手を繋いで。クリスマスの華やかさに満ちた美しい街を眺め続けた。
【愛を注いで】
真っ黒い海を眺めてぼんやりと佇む君の隣に、無言で腰を下ろす。表情の変わりにくい君は周囲から……自分の家族からすらも心がない化け物だなんて怯えられているけれど、僕はそうは思わなかった。
観察していればわかる。君にだって周囲の心無い言葉に傷つくほどに無垢な情緒があって、真っ青な大海原を染める美しい夕焼けに喜ぶ感情があって、期待外れの曇天に落ち込む心があるのだと。
「明日、午前中は雨みたいだけど、夕方には晴れるらしいよ」
墨でも撒いたような曇天の海を親の仇でも睨むみたいに見つめる君へと、なるべく優しく語りかけた。きっとまた無意味な陰口に傷ついたのだろう君を慰めるように、その背をポンポンと叩いてやる。
本当は、僕のほうが君よりもよっぽど化け物なんだ。擬態が無駄に上手いだけで、感情とか心とか本当は何一つわかっていない。本で読んで学んだそれを、上っ面でなぞっているだけ。
それでも。たとえ紛い物の愛でも、渇いた君の器に注ぎ続けていれば、やがてそれは本物になるんじゃないか。そんな利己的な期待で、僕は今日も君の隣に寄り添うのだ。
【心と心】
生まれて初めて、君と喧嘩をした。まるでもう一人の私みたいにそっくりで、出会った瞬間から意気投合した君と。
寝室の片隅で電気もつけずに膝を抱えている君の隣にそっと座り、白い手を包み込んだ。喧嘩のきっかけなんて些細なことで、もう互いに怒ってなんかいない。それよりもこんなどうでも良いことで私たちは衝突するのだと、その事実への動揺のほうが互いに大きかった。
でも、よく考えたら当たり前だ。私と君は違う人間なんだから、心を完全に溶け合わせることができるわけじゃない。今まで一度もぶつからなかったことのほうが奇妙なのだ。
「ごめんね、意地を張りすぎちゃった」
君の指を優しく撫でながら謝罪を口にすれば、君も涙で掠れた声で小さく口を開いた。
「こっちこそ、ごめん」
私たちはお互いの心を一つにすることはできないけれど。言葉を使って、互いの心と心を重ね合わせ、通じ合わせることはできる。君の手を握る指先に少しだけ力を込めれば、君もまた私の手をそっと握り返してくれた。