いろ

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11/11/2023, 11:47:39 PM

【飛べない翼】

 どこまでも雄大な青空を眺めていれば、背後に人の気配を感じた。慣れ親しんだものだから放置していれば、君の手が僕の背中に生えた翼に触れる。
「……ごめん」
 耳朶を打った声は悔悟と罪悪感とでか細く震えていて、今にも消えてしまいそうだ。君へと向き直り、涙で潤んだその瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。
「謝る必要はないよ。僕が僕の意思で選んだことだ」
 神々の手で根本を断ち切られた翼は、もう二度とは動かない。時折ジクジクと無意味な痛みが走るだけだ。天界に生まれ神に仕えるべき身でありながら、神の怒りを買った人間を庇い命を救おうとした。僕の翼と天界の追放を代償に、君の命を守ることができたのだから、むしろ安い買い物だろう。
「天界の力の全部をなくした役立たずの僕でも、君のそばにいて良い?」
「っ、当たり前でしょ!」
 力強い肯定に安堵しつつ、君の身体を抱きしめた。
 これからは君と同じ場所で、君と同じように両足で歩いていく。飛べない翼は、君と共に生きる幸福の証明だった。

11/10/2023, 11:48:36 PM

【ススキ】

 濃藍の夜空に浮かぶ黄金色の満月。今日のそれは特別に大きく、月影が世界を鮮やかに照らし出す。お酒とお団子を供えた祭壇の前へと恭しく進み出て、手の中のススキをそっと捧げた。
 どれだけ美しい花を飾っても姿を現さない尊きお方は、何故か幼い私が誤って祭壇へと置いてしまったススキを気に入られたらしい。唐突に眼前に姿を見せたこの世のものとも思えぬほどに麗しいお方に、当時の私は唖然とすることしかできなかった。
 かつての私にとって、風が吹くとサラサラと揺れるススキは一番好きな植物だった。祭壇には美しい植物を供えるものだと聞いていたから、大人たちの意図も知らぬままに私は私にとって最も美しい植物を興味本位で捧げたのだ。それから毎年、満月が地上に最も近づく夜になると、私はこうしてススキを捧げにくる。
「――ああ、もう一年になるか」
「はい。この一年、私たちをお見守りくださりありがとうございました」
 私はもう大人になった。この方が神と呼ばれる存在で、私たちはこの方のご加護があってこそ穏やかな日々を享受していることをとっくに知っている。こんなススキ一本でなく、この方の注いでくださる恩恵に見合った豪奢なお供物を用意するべきなのではないかという理性も働くようになった。
 それでも供えられたススキを手に取り、愛おしそうにクルクルと回すこの方の眼差しがあまりにも優しいから。私は毎年、風に揺れたときに最も美しいススキを一本大切に選び取って、丁重にこの方へと捧げている。
 満月を背負う、冷ややかでありながら誰よりも慈悲深い私たちの神様。どうか貴方の日々も穏やかで幸福なものであってくれれば良い。いつだって寂しさの滲む貴方の横顔を仰ぎ見ながら、私は心の中でそう祈った。

11/10/2023, 3:50:38 AM

【脳裏】

 波打ち際で月光と踊る君の姿を思い出す。白いワンピースの裾がひらひらと、誘うように揺れていた。
 君と過ごした最後の夜の記憶。素敵な思い出をありがとうと微笑んで、君は夜の海へと還っていった。
 寄せては返す波の狭間へと、そっと手を差し入れる。冷たい温度がまるで、君の手のひらのようだった。
(ずっと、ずっと、君だけを愛してる)
 たとえ君が人間でなかったとしても。海から生まれ海へと還る、人間の形を模しただけのただの化け物だったとしても。それでも僕にとっては、君だけが世界の全てだった。
 脳裏に焼きついた君の、はにかむような笑顔をなぞりながら。遥か遠い海原へと永遠の愛を捧げた。

11/8/2023, 9:56:51 PM

【意味がないこと】

 燃えるような橙色に染まる空。キラキラと光る大海原へと、真っ赤な太陽が沈んでいく。岸壁に腰かけて二人、世界が夜へと変わりゆく瞬間を眺めていた。
「良いの? 僕と一緒にいても得なんてないのに」
 効率主義で無駄なことは一切しない、それが普段の君だ。なのにどうして君は僕の隣で、無意味で無価値な黄昏時を過ごしているのか。おまえなんて産むんじゃなかったと振り下ろされた母の拳が叩き込まれた頬が、つきりと鈍く痛んだ。
 君の右手が僕の左手を握り込む。繋いだ指先の温もりが、柔らかく混ざり合ってしまいそうだった。
「君の隣にいることに、価値ある意味なんて要らないからね」
 どこまでも甘く穏やかな声。周囲の人々は君のことを冷徹で何を考えているかわからないと評するけれど、それはきっと君のこの表情を見たことがないからだ。慈悲深く朗らかな、君の微笑みを。
「意味がない時間でも大切に感じる。それがきっと、特別ってことなんだよ」
 ゆっくりと瞳を閉じる。瞼の裏まで夕陽で赤く染まっていた。ああ、このまま昼と夜の狭間に溶け込んでしまいたい。君の優しさに包まれたまま。
 重ねた手の温度だけが、僕に僕の価値を教えてくれるものだった。

11/7/2023, 9:53:44 PM

【あなたとわたし】

 よく似た顔をした双子の兄が、わたしの目の前で困ったように眉を下げている。何をするにも二人一緒で、放任主義の両親のもと二人で身を寄せ合ってきたわたしたちには、これまで境界線というものがなかった。あなたはわたし、わたしはあなた――それで良かったし、これからもそうだと心のどこかで信じ込んでいた。
「良いんじゃない? せっかくなんだから行ってきなよ」
 兄の友人が海外で起業する、らしい。最近は学生の身でも起業なんてものが簡単にできるのだから、世の中の変化とは凄いものだ。一緒に来ないかと誘われたのだと、一枚しかない航空券を兄は困惑に満ちた眼差しで見下ろしていた。
「でも……」
「でももヘチマもないでしょ。わたしは行かないから。もうすぐ書画展もあるし」
 本当はずっとわかっていた。趣味も交友関係も望む将来像も、わたしと兄とは全く異なる。人として当たり前の差異から目を背けて、わたしたちは同じだと互いに言い聞かせてきただけだった。だからきっと、これは良い機会だ。
「あのね。あなたとわたしは、違う人間なんだよ」
 曖昧にぼやけさせていた境界線を、はっきりと引き直す。目を見開いたあなたは、やがて静かに視線を伏せて寂寞とした声で囁いた。
「……うん、そうだったね」
 半身を引き裂かれるような。無理矢理に分離されるような。どうしようもない痛みに耐えながら、わたしたちは別の存在になった。

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