【柔らかい雨】
ウッドデッキに置いたロッキングチェアに腰掛けて、雨音へと耳を澄ませる。パラパラと音を立てて降る雨は、それ以外の世界の音の全てを消し去ってくれた。
この煩わしいことに溢れた世界で、それでも私がこうして息をしているのは、こうして時折降り注ぐ柔らかな雨のおかげだ。遠い昔に死んでしまったあの人が、荒れ狂う情動をもてあましていた幼い私へと微笑んで告げてくれたから。
『君が辛い思いをしている時には、僕が雨を降らせるよ。そうして君を苦しめるものは全部、まっさらに洗い流して仕舞えば良い』
水の精霊に愛された彼はその言葉通り、いつも私の周りを雨で覆ってくれた。あの人の雨に包まれるたびに、大嫌いな世界をほんの少しだけ好きになれた。
「大好きだよ、ずっと」
雨音に溶け込ませるように囁いた愛の言葉は、果たしてあの人へと届いただろうか。優しい気持ちでそっと、私は瞳を閉じた。
【一筋の光】
暗闇の中で息を潜めて待っている。私たちを殴るあの男が何処かへ出かけるまで。あの男が連れ込んだ女性たちの声が聞こえなくなるまで。膝を抱えて、身じろぎ一つしないように。私の存在があの男の意識にのぼることがないように。そうしていろと、兄が私に厳命したから。
押入れの狭い闇はいつだって怖い。このまま誰にも知られずにここで朽ちていくんじゃないかって、そんな錯覚がする。一人きりで膝を抱えてどれほど経ったか。片足を引きずるような歪な足音が押入れの前で止まり、障子が細く開かれた。
「おいで。あの人たち出かけたから、もう大丈夫だよ」
障子の隙間から覗く一筋の光。優しい兄の声。それだけで全てが救われたような気持ちになる。震える指で障子を開けた私を、兄はそっと抱きしめてくれた。
いつだって傷だらけでボロボロな兄は、それでも絶対に私を守ってくれる。いつか一緒にこの家を出ようと誓ってくれる。頼るべきじゃないって、兄だって私とたいして歳の変わらない子供にすぎないんだってわかってるのに、それでも私にとって兄の存在は眩しい光そのものだった。
「うん。いつもありがとう」
謝罪を口にするより、お礼を言うほうが兄は喜ぶから。足手まといでごめんなさいと謝りたい気持ちを押し殺して、私は兄が好きだと言ってくれた無垢な笑顔を取り繕った。
【哀愁をそそる】
小さくこぼれ落ちた切ない吐息。長い睫毛に飾られた伏し目がちの瞳が、薄い膜を張り淡く揺らいでいる。人形のように整った美しい顔立ちも相まって、あまりに哀愁をそそる表情だった。何でも言うことを聞いてやりたいと、そう無条件に思ってしまうほどに。……これが昔からずっと隣にいた、頑固でワガママな幼馴染でさえなければ。
「ばーか。俺にそのおねだりが効くと思ってんの?」
ピンっと人差し指で白い額を弾いた。そういう儚げな顔をしておけば周りが思うように動いてくれると理解していてやっているのだから、相変わらず性質が悪い。途端、その柳眉が不機嫌そうにひそめられた。
「やっぱりダメかぁ」
「ダメに決まってんだろ。おまえがたいがい図太いこと、俺はとっくに知ってるんだから」
せっかくの美貌を台無しにしてむぅと頬を膨らませるおまえに、俺は思わず笑ってしまった。
【鏡の中の自分】
鏡の中の自分を覗き込み、にっこりと笑顔を作る。余裕のある不敵な笑み、他者を威圧し屈服させる笑み、朗らかで人好きのする笑み……笑顔は武器だ。ほんの少し唇の端の角度、眉の下げ方を変えるだけで容易に見る者の印象を操作できる。今日も問題なく表情を制御できていることを鏡で確認するのが、僕の毎朝の習慣だった。
うん、大丈夫。今日も完璧だ。鏡の中の僕は澄ました笑顔を浮かべて行儀良く息をしている。コートを羽織り部屋を出ようとしたところで、ノックもなしにドアが開け放たれた。
「おはよ、早く行こ!」
「いきなり開けないでって何度言わせるの。せめて一声かけてよ」
無邪気な笑みを浮かべて元気よく手を振る君に、思わず溜息がこぼれた。せっかく取り繕った笑顔が一瞬で消えて、本音が晒されてしまう。
「あはは、ごめんごめん」
たいして悪びれた様子もなく、君は軽やかに僕の肩を叩く。ああ、もう。相変わらず君は簡単に僕を振り回すんだから困ったものだ。
やれやれと眉を顰めながら、君と並んで部屋を出る。視界の片隅にちらりと映った鏡の中の僕の口元は、なぜだか安心したように優しく綻んでいた。
【眠りにつく前に】
ベッドサイドのスピーカーを操作し、いつもの音楽を再生する。僕たちが生まれるよりも前に流行したらしい、古い女性シンガーの歌う切ないラブソング。君と二人、波の音の響く海辺の洞窟で身を寄せ合った夜、ラジオから流れていた曲だ。
足を踏み外せばどこまでも落ちていきそうな深い暗闇そのもののような漆黒の大海と、白銀の星がチラチラと瞬く馬鹿みたいに広い夜空を眺めながら、ふたりぼっち互いの温もりを確かめ合った。あの頃の僕たちにとっては、互いの存在だけがこの寂しい世界で生きるよすがだった。
薄氷の上を渡っていくような幼い日々。あの頃から比べると僕たちはずいぶんと大人になった。互いに互いの世界で、真っ当な社会人の仮面をかぶって生きていける程度には。
それでも時折、君の温もりを思い出したくなる。眠りにつく前にこの曲を流して、君と共にいたあの薄暗い日々をなぞりながらベッドに寝転がる。夢の中であの日の君の微笑みに会えるように。
「ばーか。素直に呼べば良いのに」
遠くなる意識の片隅で、くしゃりと髪を撫でる手の温度を感じたような気がした。