【紅茶の香り】
サクリと音を立てて、君の歯列がクッキーを噛み砕く。その瞳が驚いたように丸くなった。
「え、何これ。美味しい」
「ふふっ、なら良かった」
甘いものが苦手な君が、少しでも次のティーパーティを楽しめるように。試行錯誤を繰り返した甲斐があったというものだ。あっさりと一枚を食べ切った君がもう一つ手を伸ばすのを弾む心で眺めながら、私もクッキーを手に取った。
ぱくりと食べれば鼻に抜ける色濃い紅茶の香り。甘さはほとんどない代わりに、紅茶の苦味が口一杯に広がる。うん、ちゃんと美味しく作れている。
もぐもぐと無言で私の作ったクッキーを食べる君の表情が、私にとっては一番のご馳走だ。
【愛言葉】
相も変わらず大量の書類を机の上へと積み上げたあなたの前、応接用のソファに腰掛けて優雅に一人でティータイムと洒落込む。まったく、この国は国王の承認が必要な案件が多すぎる。制度を改革しろといったい何度忠言したかは、もはや覚えていなかった。
色濃い隈を目の下に作ったあなたの口から小さく漏れた溜息。それを無視してティーカップを傾ける。うん、やっぱりこの茶葉が一番美味しい。
ふと感じたあなたの視線。それでもあなたが口を開くまで、私からは口を出さないと決めている。手伝おうかと言いたくなる気持ちをグッと堪えた。
「……助けて、くれ」
今にも消え入りそうな声が囁いた。ことりと音を立ててティーカップをソーサーへと置き、勢いよく立ち上がる。
「はあい。いくらでも手伝いますよ、王様」
人に頼ることが絶望的に苦手なあなたの、それが精一杯の縋り方。私とあなたの間でだけ通じる合言葉。あなたが私を信頼し愛しているからこそ向けてくれる、特別な言葉だ。
不器用で責任感だけが馬鹿みたいに強いあなたの頬にそっと口づけを落として、私は机の上の書類に手を伸ばした。
【友達】
寂れた神社の石段に、君と二人並んで腰掛ける。はらはらと舞い落ちる雪の白さがやけに目についた。
この社はもうすぐ取り壊されるらしい。山を削り再開発をするのだと、町内会の回覧板で回ってきた。
「ねえ、ここがなくなったら君はどうなるの?」
私の問いかけに、君は曖昧に微笑んだ。冬の寒さを感じさせない薄手の着物。周囲の景色に溶けてしまいそうに白い肌に血の気はない。遠い昔には神様と崇められたはずのひとは、信仰を失った今の自分自身のことを『ただのバケモノだよ』と自嘲した。
「さあ、どうなるんだろうね」
心臓がキュッと収縮するような心地がした。もし。もしももう二度と、君に会えなくなるとしたら。幼い頃に社に迷い込んだ私を導き、それ以降ずっと見守り続けてくれた君が、消えてしまうのだとしたら。……そんな結末、私は絶対に認めない。
「うちの庭にお社を作るよ。御神体とかあるんでしょ? それを移して、君もうちに来れば良いじゃん」
親の許可はもう取った。材料も揃えてある。必死に言い募れば、君は驚いたように目を瞬かせた。
「……できなくはない、と思うけど。どうしてそこまで親身になってくれるの?」
不思議そうに尋ねる君の手を取った。寒さに負けて冷え切った私の手よりもさらに温度のない、君の手のひら。氷でも触っているかのように私の手がかじかんでいく。それでもこの手を、離すつもりはなかった。
家族にも学校にも上手く馴染めなかった私のそばにいてくれたひと。君を失うことなんて、考えられない。
「当たり前でしょ? 君は私の、たった一人の友達なんだから」
降り積もる雪が全ての音を呑み込んでいく、二人きりの世界。祈るように君の手を包み込んで、なるべく優しく微笑んだ。
【行かないで】
海沿いの遊歩道を、君と二人で歩いていた。太陽が大海原へと沈んでいく。空は燃えるように赤く染まり、海の水面がキラキラと眩いほどに輝いていた。
見慣れた景色だ。今さら美しいとも思わない。だけど何故だか今日だけは、その鮮やかさがやけに目に沁みた。
「じゃあ、そろそろ行くね」
大きなトランクケースを一つ。カラカラと音を立てて転がしながら、君は軽やかに微笑んだ。別れを惜しむこともなく、普段通りの足取りで遊歩道を離れ、大通りへと歩を進めていく。
「うん、元気でね!」
幼い頃からの夢を叶えに旅立つ君の背へと、大きな声で呼びかけた。長く伸びた影が奇妙に滲む。ひらりと一度だけ手を振ってくれた君が、私を振り返ることはない。それでもとびきり明るく笑ってみせた。
海外へ行こうと思うんだと打ち明けてくれた君の背を押したのは私だ。応援してる、頑張ってと告げたあの日の自分の言葉を、裏切るわけにはいかない。
(――行かないで、なんて。言えるわけないじゃん、馬鹿)
君がどれほど真摯に夢を追っていたか、私が一番知っているから。だからせめてこの閉鎖的な村で、私だけは君の味方でいたかった。たとえもう二度と、君に会えないとしても。この胸を締めつける痛みを、永遠に抱え続けるのだとしても。
旅立つ君の背中が見えなくなり、周囲が夜の静けさに包まれるまで。私は一人きり、取り繕った笑顔でその場に立ち尽くしていた。
【どこまでも続く青い空】
打ち寄せる波の音が、まるで子守唄のように響く。白砂を踏み締めて、波打ち際へと歩みを進めた。
どこまでも続く青い海。青い空。世界の全てが青に染まったような錯覚がして、胸元のペンダントを握りしめた。
(ねえ、見えてる? これが君の見たがっていた景色だよ)
生まれ育った村は曇天ばかりに覆われた、黒々とした海に面した土地だった。あちらこちらに遊びに出かけていた私と違い、病弱で床についてばかりだった君は、私の語る話の中でしか青い海も空も知らなかった。いつか二人で見に行きたいなぁなんて、決して叶わぬ夢に焦がれるように寂しげに呟いた君の手の冷たさを今でも思い出せる。
(これからいくらだって、一緒に見よう。君が憧れた世界の全て)
頬を伝った涙は、あまりにも青い空の眩しさのせいだ。そう自分自身へ言い聞かせた。