いろ

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10/22/2023, 9:55:58 PM

【衣替え】

 十月も半ばを迎えると、衣替えの季節だ。文句を言う君を付き合わせ、クローゼットの中の夏物を冬物へと取り替えていく。と、君の手が不意に止まった。
「もういい加減、これ捨てなよ」
 紫紺のストール。肌触りはチクチクとするし、色も随分と褪せてきた。良いものを長く使いたい私としては、安物のそれは決して好みじゃない。だけどそれでも。
「ダメ、今年もそれは使うの」
 バッサリと一蹴し、君の手の中からストールを取り上げる。だってこれは君から初めてもらったクリスマスプレゼント。苦学生の君が必死に貯めたなけなしのお金で買ってくれた、大切な思い出の品なのだから。
 チカチカと光るイルミネーションの中、こんなものしか買えなくてごめんと泣きそうな顔で眉を下げた君の表情を思い出す。あの頃からずっと、君はわかっていないんだ。私にとっては君が贈ってくれたというその事実だけで、どんな逸品名品よりも価値があるんだってこと。
 このストールを纏って、君と二人で今年もイルミネーションを観よう。ワクワクとした気持ちで、私はストールをハンガーラックへとかけた。

10/22/2023, 5:38:18 AM

【声が枯れるまで】

 誰もいないがらんどうの舞台で声を張り上げる。爆撃で床のあちらこちらがひび割れ、壊れた照明器具の転がる荒廃したステージの上。夜空に浮かぶ月だけが、私を照らし出していた。
 どうか、どうか、旅立っていった愛しい人にこの歌声が届きますよう。貴方が好きだと笑ってくれた歌が、少しでも貴方の心を慰めてくれますよう。
 愛しているよと囁いた貴方の腕の温度を思い出して胸が詰まる。掠れて震えた声を誤魔化すように声量を上げた。この声が枯れるまで、私は歌い続けよう。全身で、全力で、恥ずかしくて結局言葉にすることの最後までできなかった想いを。
(私だって、貴方を愛してたんだ)
 目尻から溢れた涙がぽとりと、焼けこげた床を濡らした。

10/20/2023, 10:17:18 PM

【始まりはいつも】

 始まりはいつも橘の花の香りと共に訪れる。清涼感のある、けれどどこか儚く清らかな誇り高い香りが風に乗って届くたびに、遠い昔に微笑んだあなたの声が私の耳元でよみがえるのだ。
『何度生まれ変わろうとも、心よりあなたを慕っているよ。必ずあなたを迎えに行くと誓おう』
 橘の香りを纏った、美しい人だった。刀を持ち戦場に立つことなど決して似合わぬ人だった。それでも帝の治める都の安寧のため武器を手に取り旅立つと強い覚悟で決めたあなたに、行かないでほしいとはどうしても言えなかった。
(嘘つき。もう何度目になると思っているの)
 この世に生まれ落ち、橘の香りを感じるたびに、忘れることができていたはずのあなたのことを思い出す。平安の世からいったい何度こんなことを繰り返したか、いいかげん数えるのにも飽きてしまった。いつのまにか街にはガラス張りの背の高いビルが立ち並び、電気自動車が往来するようにまでなったのに、あなたは私の前に姿を現さない。
(寂しいよ、馬鹿)
 叶うことのない約束を胸に抱く切ない日々の始まりは、いつだって橘の香りと共に訪れるのだ。

10/19/2023, 10:17:43 PM

【すれ違い】

 深夜にいきなり僕の家を訪ねてきた君は、僕のお気に入りのクッションを抱えこんでソファで背中を丸めている。あまりにも頻度が高いので、こちらとしても対応に慣れきってしまった。不服そうに唇を尖らせる君の前に、ハチミツを入れたホットミルクを置いた。
「また喧嘩したの?」
 問かければ堰を切ったようように、君の口から恋人への不満が噴出する。お互いにお互いを思いやっているが故の些細なすれ違いにしかいつだって聞こえないのだけれど、君にとっては深刻な問題らしい。適当に相槌を打ちながら、だんだんと涙声になっていく君の文句を聞き流す。
(何度も喧嘩して泣くくらい悲しいなら、とっとと別れちゃえば良いのに)
 君たちは二人揃ってあまりに人が良すぎるから、衝突してしまうんだ。こんな仄暗い感情を抱いてしまう性格の悪い僕ならきっと、君とすれ違って泣かせることなんて絶対にしないのに、なんて。口には出せない想いを胸の中に持て余しながら、僕は今回も黙って君の側に寄り添い続けた。

10/18/2023, 10:10:48 PM

【秋晴れ】

 ずっと続いていた長雨がやみ、太陽が青空に姿を覗かせる。朝起きて窓の外を見た瞬間、せっかくだから二人でピクニックに行こうなんて言い出した君がキッチンで格闘する音を聞きながらテレビゲームを始めて、かれこれ二時間近くになりそうだ。諦めてコントローラーを手放し、僕はキッチンへと足を向けた。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫! ちゃんとできるから!」
 焦ったような君の声。ぐちゃぐちゃになったキッチン。やれやれと息を吐いて、僕は愛用のエプロンを手に取った。
「仕方ないなぁ、手伝うよ」
 出かけるのなんて大嫌いだし、ピクニックのための弁当作りなんてもってのほか。でも君に誘われて君と二人で出かけるのなら、そこまで悪くない。秋晴れの空の下ではしゃぐ君の姿を想像しながら、まずは焦げついた匂いを放ち始めたフライパンの火を止めた。

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