【放課後】
放課後の誰もいない教室で、ルーズリーフにシャーペンを走らせる。窓から差し込む夕陽の鮮やかな橙色の光が、世界を鮮やかに染め上げていた。
この時間だけは、私は自由だ。剣を手に取り戦うお姫様の物語、美しい神様に恋をした少年の物語、たわいもない日常を過ごす学生たちの物語……私の想像した世界が、どんどんと形になっていく。わずらわしいことの全てを忘れ去れる。
不意に隣の席に誰かが腰掛ける気配がした。図書室で借りてきたらしい本を君は無言で開き、黙々と読み進める。いつものことだ。話しかけてもこないのだから、わざわざこの人気のない教室で私の隣に座る必要なんてないなずなのに、いつだって君はそうだった。
人がいる空間は嫌いだ。だけど君が隣に座るこの時間は、それほど嫌ではなかった。奇妙な温かさが胸を包み込む。気持ちが和らいで、綴る物語も美しく優しいものへと変わっていく。
(私は君のことが、案外好きなのかもしれないな)
物語ならこの感情は、間違いなく『恋』と定義づけられるものだろう。いかんせんここは現実で、私にはこの穏やかなばかりの安らぎを恋と称することに対して、いささかの抵抗があるけれど。
私のシャーペンが文字を刻む音と、君が本のページをめくる音。二つの音が奏でる旋律に耳を傾けながら、私はただ物語を紡ぎ続けた。
【カーテン】
ぴたりと引かれたカーテンの向こう。僕の親友は薄布一枚を隔てた先からしか言葉をかけてこない。姿を見たことのない、声しか知らない親友だ。
幼い頃、森に迷い込み空腹で倒れてしまった僕を助けてくれた人。森の片隅に立つ小屋で暮らしているらしい彼は、僕が訪ねてくるたびに「もう来るな」と口では言うけれど、本気で僕を拒絶することはなかった。
(ほんと、馬鹿だよなぁ)
絶対に姿を見るな、見たら俺はお前を殺すと、最初にそう言われたから。僕は律儀にも、手を伸ばしてカーテンを捲ったりしないであげているけれど。
でも雲のない夜、月明かりが君の影をカーテンへと落とし出すから、僕は君が隠したがっている真実をもうとっくに知っているんだ。
獣の耳に太い尾っぽを持つ、人々が怪物と称する存在――それが君の正体なのだと。
(その程度で僕が君を嫌うわけがないのに)
いつかこのカーテンを開けて、僕は君の目を見て「はじめまして」と笑うんだ。ひっそりと胸に抱いた決意を隠して、僕は今日も明るく君へと声をかけた。
【涙の理由】
君の瞳からぽろぽろと涙が溢れていた。重たい腕を持ち上げて、君の頬を濡らす雫をそっと指先で拭う。
「なか、ないで」
「っ、馬鹿! 君のせいだよ! あのくらい防御魔法で弾けたのに、なんで私を庇ったりしたの⁈」
君の手が僕の傷口に当てられていた。展開された最高峰の治癒魔術が僕の傷を癒していく。塞がり始めた傷口の僅かな熱とこそばゆさが心地良かった。
「ははっ。なんで、だろ」
理屈では確かに、君を庇う必要なんてどこにもなかった。だけど敵が君を狙っていると気がついた瞬間、勝手に身体が動いていた。万が一にも君が傷つくところなんて、僕は見たくなかったんだ。
「大丈夫、だから。もう、泣かないでよ」
君の涙の理由なんて馬鹿な僕にはわからないけれど。君にはいつでも、いつまでも、笑っていてほしい。それだけが僕の願い、僕が戦う唯一の意味なのだから。
馬鹿、ともう一度。涙の滲んだ声で君は囁いた。
【ココロオドル】
私を作った神様は言った。どうかこの鮮やかな世界で、ココロオドル経験をたくさんしてねと。だけど私にはその言葉の意味がわからなくて、神様の言うココロオドル経験を探して世界中を旅している。
「うーん。話を聞いているに、君はもう既にココロオドル経験をたくさん重ねていると思うけどね」
旅先で何度か顔を合わせるうちにすっかりと知人の枠に収まった青年は、麦酒を傾けながら朗らかに笑った。夜空を流れる白銀の星々の光が、彼の朱く染まった横顔を照らし出す。今日は三十年に一度の流星群の夜だった。
「たとえばだけど、この星降る夜をこうして僕と二人で見て、君は何を感じるんだい?」
「とても美しいと、そう思うわ」
私に埋め込まれたプログラムは、そう判断している。と、青年はゆったりとした動作で頬杖をつき、柔らかく微笑んだ。体の奥に妙な騒めきがあって仕方がない。落ち着かせるように胸のチップをそっと手で抑えた。
「それが、僕たち人間がココロオドルと称すものだよ。機械仕掛けの麗しきの姫君」
ああ、ならば貴方に偶然出会うたびに、貴方が微笑みかけるたびに、整理が全くつかなくなるこの思考も、ココロオドルというものなのだろうか。熱をもった頬を誤魔化すように、私は麦酒を思いきり煽った。
【束の間の休息】
執務室の机の上へ山と積み重なった書類の束。記された文章の全てに目を通し、問題があれば筆を入れ担当部署へ送り返し、問題がなければ印を押し実行部署へと命を出す。
この非効率な政治の回し方もいずれは是正しなければ、誰も宰相などやりたがらないと理解してはいるけれど、なかなかそこまで手が回らないのが実情だった。
城の鐘が三時を告げる。多くの官僚たちはもう一踏ん張りの気合いを入れ直す刻分、僕からすれば遅い昼食の時間だ。
いくつかの書類を持ち、執務室を離れる。向かう先は玉座の間。鐘の音も聞こえないレベルで集中し、自身の髪をグシャグシャと掻き回しながら書面と向き合う我らが王の眼前へと、新たに持ち込んだ書類をひらひらと振った。
「こちら、陛下のご判断が必要なものです」
「ああ、もうそんな時間か」
仕事の進みが芳しくないのか、陛下は小さく息を吐く。今日はよほど悩む案件が多かったらしく、思考を巡らせながら頭を掻く癖のある陛下の髪はひどく乱れていた。
検討していた提案書を大人しく放り出した陛下は、机の上の鈴を軽く鳴らす。恐らくは優秀な侍女たちの手で、すぐに二人分の昼食が運ばれてくるだろう。
僕は陛下を休ませるために。陛下は僕が昼食を抜かないように。互いのためじゃないと深夜まで通して働いてしまう僕たちが決めた、午後三時の休憩のルール。漂ってきた紅茶の香りが、疲弊しきった脳に優しい。
玉座の間の片隅に置かれた応接テーブルへと腰かける。束の間の休息に身をゆだね、僕は陛下の乱れた髪を指先でそっと梳いた。