【力を込めて】
地面に引き倒した仮初の主君へ馬乗りになり、その細い首へと両手をかける。剣で人間の生命を刈り取った経験は幾度もあるのに、何故だか指先が奇妙な震えを訴えた。
「ふふっ、そうだよ。そのまま力を込めて」
弾む声でお前は笑う。俺の十本の指がその首を絞めあげているとは思えぬほど楽しそうに。
絶対の忠誠を誓う主人からの命を受けて、暗殺対象の元へ使用人として潜入した。必要な情報を手に入れたら対象の命を奪って主人の元へと戻る、いつもと何一つ変わらぬ仕事だ。それなのに、どうして。
『ねえ。僕を殺す時はその剣じゃなく、ちゃんと君の両手で絞め殺してね』
何をきっかけに俺の目的に気がついたのか、ある日お前はそう柔らかく微笑んだ。今日の夕飯はビーフシチューなんだよと告げる時とそっくり同じ軽やかな口調で。そうして俺を追い出すことも憲兵へ突き出すこともせず、今まで通りに俺を雇い続けた。
ぽきりと何かが折れる音が手の中から響いた。お前の身体がぐったりと力を失う。両手にこびりついた温度に、ひどく吐き気がした。
ああ、どうして聞く必要もないお前の願いを、俺は叶えてしまったのだろう。こんなのまるで呪いだ。この世でたった一人、俺が自らの手で絞め殺した対象。力を込めて、生命を断ち切った人間。
満足そうに笑ったお前の死に顔を俺はきっと、永遠に、忘れれることはないだろう。そんな漠然とした確信だけが、俺の胸中に渦巻いていた。
【過ぎた日を想う】
金木犀の香が鼻腔をくすぐる。柔らかい甘さに満ちた秋の香り。そうするといつも、君のことを思い出す。
別れたのはもう、十年以上も昔のことだ。君の声も、顔も、随分と記憶から薄れてしまった。だけど君と初めて会った秋の日、どこからか漂ってきた金木犀の香りだけは、何故だか忘れられずにいる。
お互いのことはお互いに好きだった。それは自信を持って断言できる。なのに君はある日突然、私の前から姿を消した。まるで死に際の猫みたいに、何の痕跡も残すことなく。
君が今どこにいて何をしているのか、生きているのか死んでいるのか、私にはわからない。それでも君と過ごした日々は私の人生で最も幸福な時間で、君と出会えたことは私の人生で最も僥倖な奇跡だった。
胸を締めつける溢れんばかりの多幸感と、ほんの小さな執着めいた痛み。金木犀の香りに過ぎた日を想うたびに、私はいまだに変わらぬ君への愛を再認識するのだ。
【星座】
偉業を成した英雄は神の手により天へと召し上げられ、星座として永遠にその存在を刻まれる。夜空に輝く星座の一つ一つには、遠き過去を生きた英雄たちの物語が秘められているのだ。ああ、だけど。
目の前に広がる血の海。私がこの手で葬り去った人たちの骸が山と折り重なる。神は私のこの行為を重罪だと断じるだろうか。それとも戦における英雄として認めるのだろうか。色濃い鉄の香りが神経を麻痺させる。ああ、血の匂いに酔ってしまいそうだ。
「――お疲れ」
耳朶を打った涼やかな声。戦場の熱気に決して飲み込まれぬ高潔なる王。彼の存在を認識した瞬間、脳が冷静さを取り戻した。
背後を振り返り、恭しく膝をつく。私の唯一の王。この命の全てを捧げると誓った方。貴方が認めてくれるならば、私は神の許しなどいらない。星座になど祀られなくとも世界でたった一人、貴方が私の功績を覚えていてくれるならば、それ以外など私は何一つ望まないから。
「やっぱり君は頼りになるね」
微笑んだ王のその言葉が、私にとっては天へと召し上げられるよりもよほど誇らしい栄誉だった。
【踊りませんか?】
シャンデリアのキラキラとした明かりに、テーブルへと並べられた豪勢な料理の数々。オーケストラの奏でる音楽が荘厳に鳴り響き、華やかに着飾った人々が思い思いにダンスを楽しんでいる。あまりの場違いさに、ホールの片隅で思わず息を吐いた。
そもそも僕は市井の育ちだ。それがいきなり侯爵の隠し子だなんて言われてあれよあれよと貴族の屋敷に招き入れられただけでもキャパオーバー気味なのに、こんな上流階級の社交の場に連れてこられたらもうどうにもならない。せめて粗相のないようにと気配を殺す以外の選択肢はなかった。
「ダンスはお嫌い?」
涼やかな声が耳朶を打った。話しかけられている対象が僕だと気がつくのに一拍遅れて、慌てて声の主へと視線を向ける。不自然に空いてしまった間に怒る様子もなくニコニコと微笑んでいる可憐な少女が、そこには立っていた。
「あ、いえ。そういうわけでは……」
一応最低限のダンスは仕込まれている。相手に恥をかかせない程度には踊れるはずだ。と、彼女は優雅に一礼をして僕へと手を差し出した。
「それでは私と一曲、踊りませんか? 私、貴方とお話ししてみたかったの」
ダンスの誘いは男性からするものと習ったけれど、意外とそういうものではないのだろうか。断るのも失礼な話なので、僕は彼女の誘いに小さく頷いた。
「僕でよろしければ喜んで」
手を取り合って、次の曲の始まりを待つ。ほんの少しだけ周囲の騒めきを耳がとらえたような気もしたけれど、彼女が朗らかに話しかけてくるものだから、そんな些細な事実は意識の外へと外れてしまった。
――まさか「私と踊りませんか」なんて気軽に他人を誘ってきて、会話を重ねるうちにすっかりと意気投合した少女が、王位継承権第一位の王女殿下だったなんて気がつけるはずがないじゃないか!
【巡り会えたら】
何百年、何千年、果てなき人生を続けてきた。世界の在り方、社会の変遷を、人の枠組みの外側からひっそりと見守りながら。
幾度この無意味な生を終わらせようと迷ったかわからない。それでも遥か遠き過去に微笑んだ君の姿が、私を世界へと留め続けた。
私がまだ、永遠と続く自分の命を持て余していなかった頃。それでも人とは明白に異なる見目と能力とで、村人たちから恐れられていた頃。無邪気に私へと声をかけ、寄り添い、溢れんばかりの慈愛を注いでくれた一人の子供がいた。
さほど長い年月を生きられずに病で命を落としたあの子に、もう一度だけ会いたい。再びこの世に生まれ落ちたあの子の魂を持つ者と、もう一度だけ言葉を交わしたい。たとえそれがあの子そのものではなくて、私のことも何一つ覚えてはいないとしても。
いつか、いつか、巡り会えたら。そんな淡い期待を胸に、私は今日もつまらない世界を生きている。