いろ

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10/2/2023, 9:51:28 PM

【奇跡をもう一度】

 奇跡とは一度きりだから奇跡なのだと、君は言った。愛しい人の半死半生の肢体を胸にかき抱きながら。
「確かに普通はそうだろうね」
 神というものは気まぐれで奔放だ。たまたま願いが耳に届けば叶えてやることもある、その程度の戯れにしか人間に関わることなどない。彼は既に一度、その命を奇跡により救われている。今度は自分の愛しい人も、だなんてあまりに強欲にも程があるだろう。故にこそ、彼は奇跡を願わない。愛する人の命が失われていくのを涙に潤んだ眼差しで見つめるばかり。
「……でも、君は普通じゃないだろう? 心から奇跡を願いなさい。じゃないと起きる奇跡も起こらない」
 躊躇うように君は視線を揺らがせる。真摯な願いが僕のうちを満たした。うん、これなら十分な霊力だ。
 君の願いはあまりに無垢で膨大だ。そうして君には僕がいる。人間を愛し、慈しみ、そうして神々の世を追放された、神の末席たるこの僕が。
 君の腕の中に眠る蒼白な人の頬へと手を翳した。――さあ、奇跡をもう一度起こそうか。君が望むなら何度だって、僕は奇跡を叶えてみせよう。

10/1/2023, 9:51:38 PM

【たそがれ】

 シャランと響く鈴の音が、僕の耳を打つ。沈んだはずの太陽が、空の一番低いところを赤く染める時間帯。淡い影が地面に長く伸びている。
 友達に声をかけられて、後ろを振り返った。その瞬間目の前に現れた黒々とした化け物は、僕の前に立つ狐面の人影の手で既に地へと倒れ伏していた。
「いけないよ、異形の声に応じたら」
 涼やかな声だった。シャラン、シャラン。狐面の男の歩みに合わせて、鈴の音が凛と反響する。
「黄昏どきは境界が緩むんだ。声に応じれば容易に怪異の領域へと引き摺り込まれてしまう」
 たそがれ。聞き馴染みのない言葉を、口の中で転がした。男の手が僕の肩へと触れる。促すようにトンっと、彼は軽く僕の肩を叩いた。
「さあ、わかったらもう帰りなさい。黄昏には気をつけて」
 一つ瞬きをした刹那、僕は通学路に立ち尽くしていた。あの化け物の骸も、狐面の男の姿も、どこにもない。まるで幻でも見ていたみたいだ。
 気がつけば空はすっかりと夜の闇に覆われ、たそがれは終わりを告げていた。
 

9/30/2023, 10:02:30 PM

【きっと明日も】

 冷ややかな骨壷を机の上へと置いた。大きな背中をしていた君が、こんな小さな壺の中に収まっている。そう思うと妙に現実味がなかった。
 君がいた痕跡が随所に残っているリビング。君のお気に入りのラグマット、君と二人で買いに行ったお揃いのマグカップ。片隅に鎮座する掃除機なんて家事の苦手な私があまり使わないものだから、ほとんど君専用みたいになっていた。
 寂しい。君のいない家はしんと静まり返って、寂しくて切なくて仕方がない。ああ、それなのにどうしてタブレットに向かう私の手は、握ったペンを動かすことをやめてくれないのだろう。
 描きたい。描き続けたい。その欲求が際限なく湧き上がる。今日見た風景、今日抱いた想い、それら全てをキャンバスに叩きつけろと本能が私の手を突き動かすのだ。
(ああ、本当に。私は最低だ)
 君の死を純粋に悼み、悲嘆に浸ることすらできない。きっと明日も明後日も、君がいない毎日の中でも私は何一つ変わることなく絵を描き続けるのだろう。
(ごめんね)
 目の前のキャンバスに広がっていく鮮やかな色彩をどこか客観的に見つめる自分の理性が囁いた君への謝罪の声すらも、描きたいと叫ぶ本能がすぐに覆い尽くし、私の意識からは完全に消え去った。

9/29/2023, 9:36:20 PM

【静寂に包まれた部屋】

 あと数分もすれば朝日が登り始める、そんな僅かに白み始めた夜の町を、仕事で疲れ果てた体を引きずって歩いていく。アパートのボロいノブをひねれば、簡単にドアは開いた。まったく、また鍵を閉めていなかったらしい。後で叱っておかないと。
 手狭な和室の片隅に敷いた薄い布団に、君が眠っている。起こさないように部屋へと入り、その横へと膝をついた。
 静寂に包まれた部屋の中、君の存在だけが僕の漠然とした寂しさを慰めてくれる。君がいるから僕は、どんなに疲れていようともこの家に帰ってきたいと思えるんだ。
 しきたりに雁字搦めの古臭い村を、二人で手を取り合って逃げ出した。今日のような静謐な夜には、嫌と言うほどに実感する。僕たちはこの広大な世界で二人きりなのだと。だけどそれを恐ろしいとは感じなかった。
(君と二人なら、どんな場所でも生きていける)
 ぐっすりと気持ちがよさそうに眠る君の横顔を、窓から差し込み始めた朝日が柔らかに照らしていた。

9/28/2023, 10:27:40 PM

【別れ際に】

 地平線へと沈みゆく太陽が、空を赤く燃やしていた。
「またね」
 別れ道の三叉路で、君はいつも通り微笑んだ。ひらひらと手を振って、僕を振り返ることもなく帰路を歩いていく。地面に伸びた長い影が見えなくなるまで君の背中を見送る僕になんて、一切構うこともなく。そんな君のつれなさが悔しくて、だけど誰にも媚びることのないその高潔さに幼い頃からずっと憧れていた。
 君が行方をくらませたのは、その翌日。古い因習にがんじがらめにされた田舎町を自分の意思で飛び出していったのだと、教室の僕の机の中に残されていた君からの手紙で知った。
 もう何年も昔の話だ。君が今どこで何をしているのかすら、僕は知らない。だけどそれでも、忘れることができないんだ。夕暮れの中に佇む、あの日の美しい君の姿を。

 別れ際にすらいつも通りの挨拶しかくれなかった君に、僕は今でも恋をしている。

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