いろ

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9/27/2023, 9:57:14 PM

【通り雨】

 突然の通り雨に、近くにある古本屋の軒先へと慌てて飛び込む。ザァザァと降りしきる雨をどうしたものかと眺めていれば、不意にガラリと軋んだ音を立てて背後の扉が開いた。
 この古本屋の店主は気難しいと評判だ。勝手に軒先を使ったことへの叱責を覚悟して振り返れば、そこにはほとんど話したこともないクラスメイトが無表情に立っていた。
「入れば? タオルくらい貸すし」
 突然の事態に戸惑っていれば、彼は納得したようにああと小さく頷き、店の中へと歩を進める。
「ここ、祖父の店。今日は俺が店番。じいちゃんいないから、入って平気だよ」
「え。あ、うん。ありがとう」
 彼の後に続いて店へと入れば、古い本の独特の香りが鼻腔をくすぐった。その心地良さに大きく息を吸い込む。と、彼は物珍しいものでも見るように私を凝視した。
「……この匂い、嫌じゃないんだ」
「うん、古本の匂いは好き。なんか落ち着くんだよね」
 子供の頃に何度も遊びに行った祖母の家が、古い本の香りに包まれていたからだろうか。友達はみんな古臭いと言うこの香りが、私にとってはとても懐かしく親しみやすいもののように感じられる。
「……俺も、好きだよ」
 囁くように彼は呟いた。口元に浮かぶ笑みは柔らかで、どこか照れたようにも見える。ぶっきらぼうでどこか怖い印象のある彼が、笑うとこんなにも幼く可愛らしい印象になるなんて知らなかった。
 心臓がどくんと高鳴る。通り雨の激しい音と、古びた本のノスタルジックな香り。私の初恋は、そんな形をしていた。

9/26/2023, 9:50:31 PM

【秋🍁】

 赤く色づいた紅葉が見たいのだと君は言った。布団から起き上がることもできない身で、ぼんやりと天井の木目を眺めながら。
 庭の木を見るけれど、暦の上では秋を迎えたとはいえまだ紅葉は青いまま。あれが色を変えるまで君の命が保たないだろうことは、君の病状をずっと診てきた私が一番よくわかっていた。
 少し待っていてと告げ、刀を腰に帯び山へと向かう。『作業』をしてから家へと戻り、紅葉を一枚君の眼前へと掲げてみせた。
「ほら、持ってきたよ。これが見たかったんでしょう?」
 そう問えば君はひどく嬉しそうに無邪気に微笑んだ。生まれた時から重い病に冒され、満足に生きることすら叶わなかった君がそうして笑ってくれるなら、私はそれ以上は望まない。

 斬り殺した山賊の血で真っ赤に染まった紅葉を見て、綺麗だねと笑った君は。その翌日、ひっそりと黄泉路へ旅立った。

9/25/2023, 11:40:37 PM

【窓から見える景色】

 塔の窓から見える景色だけが、僕の世界。どこまでも高く青い空、地平に広がる美しく整然とした街並み、それらは全て硝子を隔てた向こう側の出来事だった……はずだった。
 ガシャンとけたたましい音を立てて、目の前の窓が割れる。目元を仮面で隠し、真っ黒いマントを風に靡かせるその姿は絵物語に描かれた怪盗そのもの。だけど白昼堂々と青空を背負い微笑む怪盗がどこの世界にいるものか。呆気に取られて固まった僕へと、器用にも窓枠に立った彼は優雅に一礼してみせた。
「お迎えにあがりました、殿下。我らが偉大なる先王の正当なる後継者よ」
 重用していた臣下に裏切られた父は、国家を危機に陥れた悪王として民衆の喝采の中で処刑された。幼かった僕は助命され、恩赦の形でこの牢獄塔へと幽閉された。一生をこの塔の中で罪人の子として過ごすものと、そう思っていたのに。
「さあ、お手を。不肖この私が、必ずや殿下をお守りいたします」
 差し出された手を取れば、国に混乱を招くだろう。父は決して悪人ではなかったが、人が良すぎて他国に付け入る隙を与えていたのは事実だ。今はこの国の王となったあの人が、国の未来を憂いて行動に出たことは理解している。あの人が導く国ならば、国民は幸せになれるだろう。僕の存在は平穏な国家のノイズにしかならない。ああ、だけど。
 気がつけば目の前の手に自分の手を重ねていた。こんな場所で一人きりで死んでいくなんて嫌だ。外の世界へ行きたい。太陽の日差しを浴びて、自分の足で地面を歩きたい。
 怪盗姿の青年が、僕の手をグッと引いた。気がつけば彼の腕の中、僕は空を飛んでいた。――僕は今、窓から見ていた景色のただなかに生きている。
 心臓が踊る。歓喜が湧き上がる。生まれて初めて手にした自由の味が、僕のてっぺんから爪先までを甘く支配していた。

9/24/2023, 9:58:26 PM

【形の無いもの】

 インテリア、洋服、はたまた食事まで。私の生活の全ては君から供されるもので成立している。巨万の富を有する君が、私の好みに合いそうなものを必死に考えて買っている姿は、こう評して良いのかはわからないけれどなんだか微笑ましい。
 ……愛の与え方がわからないのだと、かつて君は言った。道に迷った子供みたいな、ひどく頼りなく揺れる瞳だった。
「だって愛なんて形の無いもの、どうやって渡せば良い?」
 苦しげに吐き出した君のことを抱きしめたあの日の温度が、私に君を愛おしいと思わせた。だから私は今でも、君の元に留まり続けている。人に縛られるのが大嫌いな私が、私の血肉を君に塗り替えさせることを許容した――それがどれほど特別なことなのか、きっと君はわかっていないのだろうけれど。
 形の無いものこそ尊く美しいなどと人は言う。でも私は、有り余るお金で君が買い与えてくれる即物的な品々をこそ、とても素敵だと思うんだ。だってこれは君が私を繋ぎ止めたくて懸命に努力している、その目に見える証だから。
 アクセサリー箱に並んだ宝石たちを見下ろす。形のある無数の品々に込められた、形の無い確かな君の愛。それを慈しむように、私は君から昨日贈られたばかりのダイヤのイヤリングをそっと自分の耳へと当てがった。

9/23/2023, 9:12:17 PM

【ジャングルジム】

 しんと静まり返った夜の公園。吹き抜ける冷ややかな風を感じながら、ジャングルジムのてっぺんに座り天上の月を見上げる。黄金色の満月は、硬質な光を粛々と地上へ注いでいた。
 子供の頃はこの高さが怖くて、登る途中でいつも足をすくませていた。そんな私に手を差し伸べて、てっぺんまで導いてくれたのは君だった。
(ねえ。私はもう、一人でここまで登れるくらい大人になったよ)
 心の中でそっと呼びかける。幼い姿のままで永遠に時を止めてしまった幼馴染。何年経っても君がいた頃の状態を保っている君の部屋のクローゼットの奥から、おばさんが偶然発見したらしい数年越しの君からの手紙を開き直した。
 おばさんに呼ばれてこれを渡された時にこぼしてしまった涙の跡が、便箋にシミを作ってしまっている。拙い文字、幼い文面。あの頃は賢い大人のように見えていた君も、本当はただの子供に過ぎなかったのだと、今さらながらに思い知らされる。
 ずっとだいすきだよ。鉛筆で刻まれた愛おしい文字を、指先でなぞる。成長してしまった私はもう、あの頃の私とは違う私になってしまっているだろう。今の私を見ても君が私を好きだと言ってくれるのかはわからない。だけどそれでも。
「私だって、ずっと大好きだよ」
 大切に胸に抱き続けてきた想いを、手紙へと囁いた。届ける相手のいない拙い告白を、月影だけが凛然と聞いていた。

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