いろ

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9/22/2023, 10:26:22 PM

【声が聞こえる】

 真っ暗な洞窟の中を、手元のランタンの明かりを頼りに歩いていく。まるで迷路のように入り組んだそこへ入る時には、いつも義兄が一緒だった。洞窟の管理者を務める一族に生まれたあの人は、小さな横道まで含め複雑怪奇なこの洞窟の構造を完全に理解している。鉱石でも薬草でも、いつだって迷うことなく欲しい素材の場所まで俺を連れて行ってくれた。
 孤児だった俺を、なんの気まぐれか拾い『弟』として育ててくれる人。盗みも脅しもどんな汚いことでもやって生を繋いできた俺からすると、どうしようもないほどに馬鹿げた善人。
 いつもニコニコと笑っているあの人の苦しげな呼吸を思い出し、採取した薬草を詰めたウエストポーチをギュッと握りしめた。どうにか目当てのものは手に入れたけれど、帰り道がわからない。だけどそれでも、一刻も早く帰らなければ。高熱に浮かされながらも、俺を安心させようとするように「大丈夫だよ」と微笑んだあの人の元へ。
 気持ちだけが焦る中、どれだけ暗闇の中を出口を探して歩き回ったか。喉が渇きを覚えてきた頃になって、不意に遠く響く誰かの声が俺の鼓膜を揺らした。
 耳を澄ませる。必死に俺の名を呼ぶ声が聞こえる。男性としては少し高めで甘い、あの人の声。
「っ、兄さん!」
 大声で呼び返し、声の聞こえた方角へと走った。貴方の声はいつだって俺の道標だ。走って、走って、走って。
「馬鹿っ……! 何で一人で洞窟に入ったりしたの……!」
 目の前に光が差し込んだ瞬間、勢いよく体を抱きしめられた。触れた肌が火がついたように熱い。
「無事で良かった……」
 まだ熱が下がっていないのに、それでも貴方は俺のことばかりを心配する。安堵したように呟いて、そうして糸が切れたようにその場に座り込んだ。
「……ごめん、なさい」
 じわりと視界が滲んだのは、ようやく洞窟を出られた安心感からか、それとも結局貴方に無理をさせてしまったことへの不甲斐なさからか。大きな背中をギュッと抱きしめて、俺は滅多に口にすることなんてない謝罪の言葉を囁いた。

9/21/2023, 11:13:12 PM

【秋恋】

 秋になると喫茶店のメニュー表に追加されるモンブラン。いろいろなお店のものを食べたけれど、やっぱりこの喫茶店のものが私にとっては格別だ。カウンター席の一番端っこで舌鼓を打っていれば、カタンと音を立てて小さなお皿が置かれた。
「はい。いつも来てくれるからサービスね」
「え、良いんですか? ありがとうございます!」
 にこやかに微笑んだマスターはごゆっくりとだけ告げて仕込みに戻っていく。お皿の上ではクッキーが三枚、香ばしい匂いを立てていた。
 そっか、いつも来てること覚えていてくれたんだ。そう思うと胸が弾んだ。
 きっと貴方は忘れているだろう。学校帰りに秋の大雨に降られて困っていた時、通りがかっただけの貴方がビニール傘をコンビニで買ってきて渡してくれたこと。その二年後にたまたま訪れた喫茶店で貴方に再会した時は運命かと思ったけれど、口に出して確認する勇気も持てなかった。
 貴方に出会ったのも秋なら、貴方と再会したのも秋。そうして貴方の作るお菓子の中で私が一番好きなのは、秋限定のモンブラン。私のひそやかな初恋は、いつだって秋の色をしている。
 いつか貴方に、この想いを告げられたら良い。そんな風に思いながら、私はこの世の何よりも美味しいモンブランを口に運んだ。

9/20/2023, 9:58:37 PM

【大事にしたい】

 別れてほしいと、君は言った。年に三回は同じことを飽きもせずに言ってくる。やれやれと息を吐きながら、私は毎度のことになったお決まりのセリフを口にした。
「理由は? ちゃんと納得できる説明をして」
 静かな喫茶店の中に、客は私たちしかいない。コーヒーカップの真っ黒い水面を見つめる君の瞳が、ゆらゆらと不安定に揺れている。大きな体をキュッと縮こまらせた君の姿は、あまりにも見慣れたものだった。
「……君のことは大事にしたいんだ。でも僕には、大事に仕方がわからないから」
「君が大事にしたいと思ってくれていて、私も大事にしてもらえてるなって思えてる。ならそれで十分じゃない?」
 客観的に正しい『相手を大事にする方法』なんて私にだってわからないし、私と彼との関係に第三者の評価が必要だとも思わない。私たちが満足しているか、大切なのはそれだけだ。
「怖いんだ。いつか君を傷つけてしまいそうで。だから」
 パンっと軽い音を立てて、君の頬を両手で挟んだ。そのままムニムニと頬を揉む。いつも思うけど何でこんなに肌が柔らかいんだろう。たいした手入れもしてないくせに、ちょっとムカつく。
「君に一方的に傷つけられるほど、私は弱くない。そっちが傷つけてくるなら、こっちも本気で応戦してあげるから覚悟してなさい」
 そんな曖昧な理由で別れてなんてあげるものか。私には君が必要で、そしてたぶん君みたいな人には私みたいな人間が側に必要なんだから。
「理由はそれだけ? なら別れてあげないから」
 ピシャリと言い切れば、君は俯いた。泣きそうに顔を歪めながら、けれどその口元にだけほのかな笑みを浮かべて。
「うん、ありがとう」
 世界で一番大事にしたい人。他人に興味なんてなかった私が、この人だけは幸せにしてみせると誓った唯一。最大限の誠意と愛情を込めて、君の冷たい手を優しく握りしめた。
 

9/19/2023, 10:05:15 PM

【時間よ止まれ】

 手には枷を嵌められ、目は黒布に覆われ、それでも貴方は背筋を伸ばし真っ直ぐに立っていた。嘘のように青い空の下、己の死を願う民衆たちの歓声を聞きながら、悠然と。
 伸ばした腕が重く痺れる。僕がこの手を振り下ろせば、貴方の首は即座に落とされるだろう。国家の末永き安寧のためには、王家の血筋は残せない。僕たち騎士団は国家の歯車。ゆえにこそ民が王政を否定するならば、僕たちは貴方を、殺すしかない。
 頭ではわかっている。わかっているんだ、だけど。
「ちゃんと前を向きなさい」
 囁くような声だった。気がつけば地面に落ちていた視線を、慌てて前へと向ける。美しく微笑んだ貴方の凛とした立ち姿。これから貴方を殺す僕へと助言を与えるなんて、やっぱり貴方は大馬鹿者だ。
「民の前に立つからには、どんな時でも背を伸ばさなければならないよ」
 ああ、今この瞬間で時間が止まってしまえば良いのに。貴方と向かい合い、言葉を交わすこの瞬間。もう二度と訪れることはない、至福の時。
 だけどそんな願いは叶わない。そんな夢物語が叶う世界ならば、そもそも貴方は罪人として捉えられることなどなかっただろう。
 心臓が痛い。息が苦しい。目の奥が灼熱を持つ。それでも僕は、笑ってみせた。
 満足げに笑みを深くした貴方の姿を真っ直ぐに見据えながら、ゆっくりと手を振り下ろす。
 真っ赤な血飛沫に歓喜の熱狂を上げる民衆の声が、うるさいくらいに遠く反響していた。
 

9/18/2023, 9:55:33 PM

【夜景】

 海沿いの街の小高い丘の上に建てられた、高層ホテルの最上階。眼下に広がるガイドブックにも紹介される夜景を眺めながら、僕は手の中のワイングラスを転がした。
 こんな景色、飽きるほど見てきた。今さら感動なんてできないし、たいして美しいとも思えない。だけど。
「ねえねえ、昼間行った灯台ってあのへんだよね?」
 アルコールも入って気分が高揚しているのか、いつも以上にはしゃいだ君が窓の外を指差す。すごい、綺麗、なんて馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返す君の横顔を見ていると、目の前の夜景が本当に価値のあるもののように思えてくるから不思議だ。
「ガイドブックには宝石箱みたいな夜景って載ってたけど、どっちかって言うと星空みたいじゃない? 空にも地面にも星があるなんて、すっごい贅沢! 連れてきてくれてありがとう!」
 満面の笑みを浮かべた君は、すぐに窓ガラスにべったりと張り付いて熱心に夜景を見つめ始める。
「……いいんだよ、別に。僕が綺麗なものを見たくなっただけだから」
 この世で一番美しく輝く君の表情を、特等席から眺められる。世間でもてはやされる夜景なんかよりも、僕にとってはそちらのほうがよほど至高の光景だ。
 窓の向こうに広がる街の明かりを反射してキラキラと輝く君の瞳を見つめながら口に運んだワインは、この上もなく甘美な味がした。

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