【心の灯火】
繁忙期に忙殺されているらしい君は、自宅に帰ってくるなりソファに座ってぼうっとし始める。何をするでもなく虚ろな瞳で壁を見つめている君の前に無言で紅茶を置き、その隣になるべく振動を与えないように慎重に腰掛けた。
早く寝たらとか、今日もお疲れ様とか、口にしたい言葉は山ほどあるけれど。その全てを呑み込んで、君の隣に寄り添い続ける。
私が辛い時、君がそうしてくれたのと同じように。側にある温もりが、消えそうになる心の灯火を優しく守り続けてくれることもあるのだと、私は君に教えられたから。
とんっと、君の頭が私の肩へと乗せられる。人に頼るのが苦手な君の、精一杯の甘え方。大丈夫だよ、そう告げる代わりに私はそっと君の肩を抱き寄せた。
【開けないLINE】
LINEの一番上にピン留めした、兄とのトークルーム。疲れた身体を引きずって狭い自室に戻るたびにうっかり開きそうになるのを、必死に自制する。
日本を出る前、最後に交わした会話は、売り言葉に買い言葉みたいな激しい喧嘩だった。唯一の生きた肉親である兄は、私のことを自分の娘みたいに思ってる。たいして年齢も変わらないのに歳上ぶって、ちゃんと大学を出なさいなんて真っ当なお説教をしてくる兄のことが気に入らなくて、大嫌いと怒鳴りつけて家を飛び出してしまった。
そのまま仲良くなったパティシエに電話して、兄の許可も得ずに海外へと渡ってしまったのだから、「疲れた」なんて愚痴をLINEで吐くわけには絶対にいかなかった。師匠が兄に連絡はこまめに入れているから、兄だって私が連絡をしなくても余計な心配はしていないはずだ。
兄に連絡するのは、私が一人前のパティシエになれたとき。いつか、私が作ったケーキを兄に食べてもらう。そうして「美味しい」って笑わせてみせるんだ。
師匠からお墨付きをもらうまでは、このLINEは開かない。その決意を固め直して、私はレシピノートを確認し始めた。
【不完全な僕】
文武両道の優等生、あらゆる財と幸運に恵まれた御曹司。そんな無責任な賞賛の声に笑顔で応える。彼らが僕に完全無欠の幻想を見るのなら、それをわざわざ否定する必要もない。むしろその評価を利用してしまうほうが、僕にとっては都合が良いのだから。
「なーんて自分に言い聞かせてないと不安に押し潰されそうな君の本性、もっと人に見せてみても良いんじゃない? 案外親しみやすいってウケるかも」
生徒会室の奥、休憩用に入れられた小さなソファに思いきり体を預ける僕に対して、テキパキと書類を棚へ片付けながら君は笑う。そんなことを言われたって、こればかりは染みついた性分だ。今さら変えられるわけがない。
天井をぼんやりと見つめる僕の視界に、君の手が降ってくる。突然訪れた暗闇が張り詰めた神経に心地良い。
「まあそうやって私の前でだけ気が抜ける君も可愛いから、私は別に今のままで良いんだけどね」
軽やかに弾む君の声が、僕の鼓膜を優しく震わせる。どうしようもなく不完全な僕を、君が知っていてくれるから。だから僕は有象無象の『大衆』の前では完璧な僕を演じ続けられるんだ。
僕を甘やかす君の存在に溺れるように、静かに瞳を閉じた。
【香水】
机の片隅に飾られた香水瓶。もう何年も使っていない、ただの置き物と化したそれを捨てることすらできずにいる。
香りというものは、纏う人間によって微妙に変わるものらしい。私がいくらこの香水を使っても、君の香りをなぞることはできなかった。むしろ似て非なる香りのせいで、記憶が上書きされていく。君との思い出が消えていく。その感覚が恐ろしくて、私は君の遺していった香水をただの飾り物にした。
君を抱きしめるとほのかに香った、涼やかな甘さのラストノート。私の愛した人の香り。
(忘れないよ、絶対に)
何年、何十年経とうとも。君を愛した気持ち、君と過ごした時間、その全てがこの香りに結びついているのだから。
記憶の中の香りを思い返しながら、私は小さな香水瓶の冷ややかな表面をそっとなぞった。
【言葉はいらない、ただ・・・】
しとしとと雨が降り注ぐ夜、薄暗い押し入れの中で二人きり身を寄せ合う。両親のけたたましい罵り合いも、壁の向こうからひっきりなしに響く隣に住まう誰かの嬌声も、互いの心音が全てをかき消してくれた。
何かを叩きつけるような音の直後に、ガラスが割れるような激しい音が耳をつんざく。びくりと肩を震わせた君の肩を、ぎゅっと抱き寄せた。
会話をすれば殴られるから、黙って息を潜めることしかできないけれど。だけど僕たちにはそれで不自由なんてない。世界でたった一人の片割れ、同じ顔をした二人きりの僕たちに言葉なんていらない。ただ、互いの手を握り合えば。視線を交わし合えば。それだけでお互いの気持ちなんて全部伝わるから。
大丈夫、僕がいるから。絶対に君を守るから。そんな想いを込めて君の手を握り込めば、君は安心したように僕の手を握り返してくれた。