いろ

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8/28/2023, 9:52:14 PM

【突然の君の訪問。】

 日曜日の午前中。洗濯機を回しながら、掃除機で部屋の中を綺麗にしていく。そうしていれば掃除機のうるさい排気音に紛れて、インターホンが軽やかな音を立てた。
 おかしいな、宅急便が来る予定は特になかったと思うんだけど。掃除機を止めてインターホンのディスプレイを覗けば、それはもう良い笑顔で君が手を振っていた。
 無言で玄関へと向かい、ドアを開ける。ニコニコと笑う君を室内へと招き入れながら、私はこれみよがしにため息を吐いた。
「もう、連絡もなしに来るのやめてよ。掃除中だったんだけど」
「ごめんね、なんか来たくなっちゃって。はい、これお土産」
 渡されたドーナツ屋の包みからは、甘い香りが漂っている。やれやれと肩をすくめながら、私はキッチンと向かった。
「わかってると思うけど、ロクなおもてなしはできないから。とりあえずそこ座ってて」
 リビングのソファに君を座らせつつ、戸棚からマグカップを取り出す。私としては甘いドーナツにはコーヒー派なわけだけれど、ここは君の好みに合わせて柔らかい甘さのミルクティーを淹れてあげよう。
 前触れもない突然の君の訪問は、君が疲れきっている証。他人に弱音を吐くのが大の苦手な君の、精一杯のSOS。だから君がここをいきなり訪れた時には、とびっきり甘やかしてあげるって決めているんだ。
 君のためだけに用意してある茶葉をティーポットへと移しながら、私はそっと微笑んだ。

8/27/2023, 9:54:44 PM

【雨に佇む】

 ポツポツと音を立てて、鉛色の曇天から雨粒がこぼれ落ちる。その響きと煌めきが美しくて、僕は思わず道端で足を止めた。雨足を避けようと慌てて走っていく人々は、僕の存在なんて気にも留めない。まるで世界で一人きりになってしまったようで、ひどく甘美な心地がした。
 どれだけの時間、そうしていたか。濡れた服が肌に吸いつき、髪先からポタポタと雫が伝うようになった頃、不意に視界に影が落ちた。
「雨の中にボーッと佇むクセ、そろそろやめなよ。いい加減本気で風邪引くよ?」
 振り返れば晴れた空のような清々しい水色の傘が、僕へと差し向けられている。呆れたようにため息を吐いた君と、これで世界に二人きり。
「大丈夫だよ、馬鹿は風邪を引かないんでしょ?」
「君が馬鹿なら、世界の八割くらいが馬鹿になるんだけど。無意識に全世界に喧嘩売ってるの?」
「成績が良いことと馬鹿かどうかって、全く別の話じゃない?」
「まあ確かに、雨のたびに道端に立ち尽くしてる君は馬鹿かもね」
 ほら、帰るよ。そう笑って傘を揺らした君と肩を寄せ合って、君の差した一つ傘の下を歩いていく。傘に守られた二人きりの世界は、柔らかな安らぎに満ちていた。

8/26/2023, 11:35:11 PM

【私の日記帳】

 ベッドの上に身体を起こし、日記帳にシャーペンを走らせる。今日はいつもより調子が良い。いつもよりも長く思いを記すことができそうだ。
「それ、いつも書いてるよね」
 軽いノックと共に病室へと入ってきた君は、私の手元に目をやって柔らかく微笑んだ。その片手には向日葵の花。手ぶらで来て良いよといつも言っているのに、訪れるたびに季節の花を持ってくる。それが窓の外に広がる外の世界に憧れることしかできない私を少しでも楽しませようという気遣いなのだとはとっくの昔に知っていた。
「うん、私の宝物だから」
 いつか、私の命がこの世界から失われても。この日記帳は残り続ける。そうしてきっと、これを世界で一番に読むのは君だから。
 たくさんの幸せをありがとう。私のそばにいてくれてありがとう。私がいなくなっても胸に溢れるこの感謝を君へと届けることができるように、ありったけの思いをここに綴っていくのだ。声に出して伝えるのは恥ずかしいことまで、全部。
 ――愛してる。日記の最後はいつだって、そう締め括って。翌日も日記を書くことができたなら、前日の愛してるは消しゴムで消すのだ。突然この心臓が鼓動を止めてしまっても、君に必ず私の愛を伝えるために。
「私が死んだら、これは君にあげるね」
「……やめてよ。死ぬとかそういうこと、言わないで」
 泣きそうに眉を下げた君のことを、そっと手で招く。重たい腕を持ち上げて、君の頭を優しく撫でた。

8/26/2023, 5:20:11 AM

【向かい合わせ】

 路地裏の片隅の喫茶店の、一番奥のボックス席。窓の外の雨音を聴きながら手元の文庫本のページをめくっていれば、不意に正面に人の気配がした。
「久しぶり」
 目線を上げることなく、声だけを向ける。と、くすりと控えめながらも楽しげな笑い声が僕の耳朶を打った。
「一週間しか経っていないよ」
 会いたいわけでもない大学の同期とは毎日顔を合わせていることを思えば、本当に会いたい君と会えない一週間は久しぶりと称するに十分な期間だと思うけれど。
 顔を見ることも許されない、声だけしか知らない友人。この喫茶店のこの席で、向かい合わせに座りポツポツと会話を交わすだけの相手。もっと君のことを知りたいとは思うけれど、これ以上踏み込んでしまえばきっと、君は僕の前から姿を消してしまう、そんな予感があった。
「君がおすすめしてくれた本、読んだよ」
 本のページに目線を落としたまま、君と会話をできる喜びに逸る気持ちを抑えつけて、なるべく柔らかに口火を切る。窓の外からは相変わらず、しとしとと降り続く雨音が静謐に響いていた。

8/24/2023, 10:43:29 PM

【やるせない気持ち】

 一緒に流星群を見に行きたいと彼は言った。澄み渡った空気に包まれた山奥の静寂の中で、濃藍の夜空に真っ白な星々が雨のように降り注ぐ美しい景色を、二人きりで眺めたいのだと。
 出不精な私はそんな彼の誘いを、のらりくらりと躱していた。その時期は忙しいかも、また今度ね、そうやって誤魔化し続けたことを今の私はこの上もなく後悔している。
 君のスマホに残されていた計画表に従って訪れた山奥の野原は人の気配ひとつなく、秋の虫たちがひそやかな鳴き声をあげている。天を流れる無数の白銀の煌めきが、世界を美しく覆い尽くしていた。
 本当なら隣にあったはずの温もりは何処にもない。秋風が冷ややかに、私の右手を撫でていく。
 こんなことなら一度で良いから、君の誘いに頷いてあげれば良かった。だって馬鹿みたいに信じていたんだ、君と過ごす時間はこの先も永遠に続いていくものだと。
 いくら後悔したって、空の彼方へと旅立ってしまった君が私の隣に帰ってくることはない。流星群のニュースを聞くたびに、どうしようもないやるせなさを抱えて、私はこれからの人生一人でを歩いていくしかないのだ。
 じわりと滲んだ視界で、星々はただ美しく地上へと流れ続けていた。

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