【海へ】
真っ青な海に太陽の光が反射して、眩しいくらいにキラキラと輝いている。こんな景色、初めて見た。生まれ育った町は曇天ばかりで、海とは全ての命を飲み干す深淵でしかなかったのに。
「ね、すごく綺麗でしょ! ここの景色大好きなんだよね」
呆然とした僕の横、朗らかに笑った君が靴を脱ぎ捨て、白砂の上を裸足で駆け出した。旅人を名乗った可憐な女の子。しばらく僕の故郷に滞在していた彼女の語る世界は未知の驚きに満ちていて、僕もそんな世界を見てみたいという願いが日に日に大きくなっていって。結局ほとんど勢いだけで、彼女の出立についてきてしまった。
そんな僕を嬉しそうに迎えた彼女が、じゃあせっかくなら私の一番お気に入りの景色を最初に見に行こうと誘ってくれたのが、この透き通るように青い大海原。ああ、ああ、こんなにも美しい景色がこの世界にあったなんて!
波打ち際へと日焼けした足を浸し、彼女は軽やかに水を蹴り上げている。神の怒りの如き大波になすすべもなく人間が攫われることは、この場所ではないんだ。その感動に胸が震えた。
「君も早くおいでよ!」
彼女が大きく手を振る。控えめに手を振り返して、僕は鮮やかに光り輝く海へと向けて足を踏み出した。
【裏返し】
目の前には三つの楽譜。文化祭での公演のトリを飾る曲を選ばなければなならないというのに、全く決め手がない。うーんと唸っていれば、ふと誰かの手が楽譜のうちの一つを取り上げた。
「まだ迷ってるの? 下校時刻のチャイム鳴ったよ」
「え、嘘。もうそんな時間?」
慌てて時計を見れば、確かに最終下校時刻を超えていた。下校を促すチャイムに気がつかないくらい集中してしまっていたらしい。バタバタと荷物を纏めていれば、君が手にしていた楽譜を「私だったらこの曲にするかも」などと言いながら渡してくれた。
「やっぱり、君が部長のほうが良かったんじゃないかな」
相変わらずの決断力に、思わずため息が漏れる。公演全体のバランスだとか、部員たちの好みだとか、優柔不断な僕はいろいろと考えてしまって、これだけ時間をかけても何ひとつ決められないのに。
「いや、無理無理。確かに大人しい子が多ければ私がやっても良かったけどさ。こんな個性のぶつかり合いみたいな代、私だったらすぐ反発買っちゃうよ」
快活に笑いながら、君は僕の肩を軽く叩く。まるで僕の心そのものを直接ノックするような、そんな温度だった。
「優柔不断っていうのは、それだけ君が優しくて、みんなのことを考えてる裏返しなんだよ。だから部長は君が良いの。どうにもならなきゃ私に言って、無理矢理押し通してあげるから」
力強い君の声が、いつだって僕を奮い立たせてくれる。自然と頷きを返していた。
「うん、頼りにしてるよ。副部長」
さっきまでグシャグシャだった頭の中が、少しだけスッキリしたような気がする。晴れやかな気持ちで笑いかければ、君は「任せて」と高らかに胸を張った。
【鳥のように】
ビルの屋上のフェンスから身を乗り出し、天へと手を伸ばす。どこまでも広く真っ青な、雲ひとつない空。照りつける陽光が眩しくて、目をしばたかせた。
君は僕を鳥のようだと笑ったけれど、僕は本当はそんな立派な人間じゃない。君の前でだけは自由で強い僕でいたくて、必死にカッコつけていただけだ。本当の僕は帰る場所は欲しいし、誰かに思いきり愛されたいし、一人は寂しいって感じる気持ちもある。自分の行きたい場所へと軽やかに旅立っていく『僕』なんて、ただの取り繕った幻想に過ぎない。
(僕が本当に、鳥のように空を飛べたなら)
そうしたらこの大空を渡って、君に会いに行くのに。さんざん迷いながらも結局、自分の夢を追って海の向こうへと旅立っていった君のほうが、よっぽど何にも縛られない自由な鳥のようじゃないか。
またねと朗らかに手を振って去っていく君に、結局渡せなかったシルバーの指輪を、ポケットの中で弄んだ。
【さよならを言う前に】
白檀の香りが仄かに漂う室内。美しい調度品の数々は、歴代の『神子』たちをもてなすために長い年月をかけて集められたものなのだろう。豪奢な和室の様相の中で、無機質な鉄格子だけが明らかに浮いていた。
七年に一度の崇高なる儀式、なんて村では言われているけれど。ようはそれだけの頻度で、いるのかどうかもわからない神様相手に生贄を捧げているということだ。神子に選ばれたものは一年間をこの座敷牢に閉じ込められ、そうして神へと捧げられる。
ふと、君の姿を思い出す。さようならと告げたけれど、返事はもらえなかった。村人たちに連れて行かれる僕の姿を、ただ下唇を噛み締めて睨みつけているばかりだった。
(ちょっと、もったいないなぁ)
最後に見るのは笑顔の君が良かったのに。そんな詮無いことを考えていれば、押し殺したような足音が僕の鼓膜を震わせた。
黙って目を瞑る。此処に訪れるということは、村の上層部か世話役の連中かだろう。話すことなんて何もない。
「――迎えにきた」
反射的に顔を上げた。毎日のように聞いていた声。鉄格子の向こう、見慣れた幼馴染が真剣な表情で僕を見下ろしていた。
「さよならなんて言わないからな。それを言う前に、俺たちにはできることがまだあるだろ」
カシャンと乾いた音を立てて、鉄格子の錠前が外される。開いた格子から、君は手を差し出した。
「逃げるぞ、一緒に」
目頭が熱くなる。何で。何で君はいつだって、僕の手を引いてくれるのだろう。震える自分の手を、君の無骨な手へと重ねる。ニッと快活に笑った君は、僕の手を力強く握り返してくれた。
【空模様】
午前中まで晴れていた東の空に、どんよりと真っ黒い雲が浮かんでいる。それを窓の外に見てとった瞬間、私は荷物をまとめて講義開始直前の教室を飛び出した。どうせ次の講義は出席確認もない。期末試験で点数さえ取れれば単位はつくから、どうにでもなるだろう。
走って向かう先は、大学のキャンパスの東に位置する巨大な森。その中枢にはそれなりに大きな古い社が建っている。信仰心など薄れた現代にしては珍しく、毎年の祭祀の時期には大勢の人が訪れるとかで、それなりに手入れはされている朱塗りの鳥居を躊躇なくくぐった。
平日のこんな時間だ。境内に人気は全くない。ぽつりと空からこぼれ落ち始めた雨に、折り畳み傘をバチンと開いた。
「今日はどうしたの?」
境内の片隅、御神木の影。そうと思って見ないと見落としてしまいそうに小さな子供へと、傘を差し出しながら問いかけた。水干姿の童子が、俯いていたその顔をゆっくりと上げる。赤く染まった眦で、その子は賽銭箱を指差した。
「あー、そういうことね」
真新しい白木の賽銭箱が、強引にこじ開けられている。たぶん賽銭泥棒だ。こんな真っ昼間から堂々と犯罪行為とは恐れ入るけれど、いかんせん人気もなければ監視カメラもない社だから、犯人からすれば昼でも夜でも危険度に大差はなかったのだろう。
「ちょっと待ってね、警察に電話するから。で、捕まえてもらおう」
「神様への、お賽銭なのに。僕がちゃんと、守れなくて。お詣りしてくれた人にも、神様にも、申し訳なくて」
今にも泣き出しそうに震えた声で、その子はそんなことを口にする。この神社の守り手としては立派だけれど、子供としてはあまりに不釣り合いだ。よしよしとその頭を撫でた。
この神社の神は、自らの意思で守り手を選ぶ。そこに人間社会の常識は介在せず、こんな小さな子供が今の子の社の主人だ。
『泣いてる守り手を見て空を荒れさせるくらいなら、こんないたいけな子供を指名しないでよ』
吐き捨てるように神へと語りかければ、呆れたような声が返ってきた。
『人間に混じり人間のフリなどしている貴様に干渉される謂れはないわ。神としての矜持すら忘れた愚か者め』
雨音が激しくなる。傘の下に招き入れた子供が万が一にも濡れないように、傘の角度をそっと傾けながら。私はもう何百年にも及ぶ腐れ縁の神へと、にっこりと微笑みかけた。
『感情表現が全部空模様に直結されるクセを治してから、偉そうなことは言いなさい、この大馬鹿者』
不機嫌さをあらわすように、雷鳴がひとつ轟いた。