いろ

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8/18/2023, 10:52:07 PM

【鏡】

 橙色の瓦斯灯の光が、帝都の夜を鮮やかに照らしている。何度訪れても、夜の眩しさに目が慣れない。小さく溜息を吐きながら、私は迷うことなく西洋式の大劇場の中へと足を運んだ。
 目当ての公演の切符を買い、ホールへと入っていく。明かりの落ちた座席へと着いてしまえば、周囲は皆これから始まる公演に胸を躍らせていて、小娘一人になんてこれっぽっちも注目していない。そっと手鏡を取り出した。
 鏡に映るのは、私と全く同じ顔作りの存在。けれどその髪の色は白銀で、瞳の色は真紅だ。『化け物』として座敷牢へと閉じ込められた、私の双子の弟。私たちは鏡を通してつながっている。
 決めていた合図の通りに、とんとんと指先で鏡面を叩く。私と君の指先が鏡越しに触れ合った刹那、私は真っ暗な座敷牢の中に端座していた。鏡の向こうでは、君が劇場の座席に座っている。あの暗さで帝都の街中なら、君の髪色も西洋の異人の血でも混ざっているのだろうとたいして気にもされないはずだ。
 君が化け物なんかじゃないことは、片割れの私が一番よく知っている。少しくらい外の世界を見せてあげたいと願うのは当たり前だ。
 君が鏡をしまわないものだから、演劇を見ている君の姿がよく見える。キラキラと輝く瞳で舞台を見つめる鏡越しの君の笑顔が、私の何よりの宝物だった。

8/17/2023, 10:35:55 PM

【いつまでも捨てられないもの】

 自室の片隅に鎮座した、手のひらサイズのボロボロのクマのぬいぐるみ。首に巻かれた可愛らしいピンクのリボンもあいまって、私の趣味には全く合致しない。それでも施設から引き取られるときも、養父母の家から独り立ちするときも、この子だけは捨てることができなかった。
「ほら、この子がおまえを守ってくれるからね」
 両親の怒号ばかりが轟く家の中で、そう笑って兄が私へと差し出したもの。昔はいつも、この子をぎゅっと握りしめて地獄に耐えていた。ばらばらの施設に引き取られた兄がどうしているのか、今の私に知る術はない。
 当時の私には兄は立派な大人に見えていたけれど、少しでも私にまともな食事を摂らせようと年齢を誤魔化してバイトをしていたらしいあの頃の兄は、今の私よりも幼い子供だったのだ。あの人の小さな背中に、私はいつも守られていた。
 写真なんて撮るような環境じゃなかったから、私の手元に残った兄との思い出の品はこの古びたぬいぐるみただひとつだ。幼い妹を宥めようと、少ないバイト代の中から買ってくれたのだろうそれを、捨てることなんてできなかった。
 いつまでだって、捨てられない。このぬいぐるみも、兄との思い出も、もう一度兄に会いたいという願いも。
 記憶の中で声すら曖昧になってしまった兄の、私の頭を撫でる手のひらのあたたかさをなぞりながら、私は兄の手がかりを少しでも集めるためにSNSを立ち上げた。

8/16/2023, 10:04:16 PM

【誇らしさ】

 どんな時も誇り高くありなさい、そう言い聞かされて育ってきた。たとえ命を落とすことになろうとも、お家の誇りだけは決して汚してはならないと。
「けどさぁ、誇りじゃ食べていけないだろ」
 ごろつき崩れに混じって用心棒業なんてしていたことが両親に知られ、恥を知れと怒髪天を衝く罵倒とともに座敷牢へと放り込まれた君はふてぶてしく吐き捨てた。態度を改めるつもりなんてさらさらないと言わんばかりに畳に寝転がり、唇を尖らせている。
「まあね。でもあの人たちにその理屈は通用しないよ」
 深くため息を吐き出せば、君の視線が僕を射抜く。闇夜に浮かぶ白刃よりも鋭利なその煌めきが、昔から少しだけ苦手だった。
「兄貴はいつまで、父さんたちの言いなりになってるつもりなわけ?」
 君の瞳が映しているのが僕の手首だと気がつき、なるべく自然な動作で着物の袖を引いた。まともに食べ物も買えないせいで、すっかりと痩せ細ってしまった自分の腕。君が稼いできたお金は君が使うべきもので、いくら渡されたって自分のために使おうとは思えなかった。
「とにかく、父上には僕からとりなしておくから。今度はちゃんと、上手く隠れてやりなよ。なんなら家を出たって良いんだし」
 言いおいて踵を返す。さて、どう騙くらかして君を座敷牢から出す許可をもらおうか。思考を巡らせる僕の耳朶を、君の怒声が震わせた。
「っ、おい! 父さんたちと心中でもする気かよ! 家を出るならあんたも一緒に……!」
 振り返らずに歩を進めた。僕はこの家の嫡男だ。その責任は果たさないといけない。お家の全部を捨て去れるほど、僕は自由気ままには生きられない。
(誇りなんてクソッタレだって堂々と口にして、自分の力で生きていける君が、少しだけ羨ましいよ)
 お家の歴史なんかより、君の存在のほうが僕にとってはよほど自慢だ。なんて口にしたら、君はたいそう立腹するのだろうけれど。
 男のような口調で、荒くれ者の男たちの中に混ざって実力だけで力強く生きるたった一人の妹への誇らしさを胸に、僕は父上たちのもとへと向かった。

8/15/2023, 9:49:06 PM

【夜の海】

 闇の底のように厳かで静かな夜の海は、まるで私たちを飲み込もうとしているみたいだ。波の音すらも獣の唸り声のよう、恐ろしさに身慄いする私の横で、君が明るい歓声をあげた。
「すごい! キラキラしてる!」
 満面の笑みで君が指差した先には、月と星の光が海面に反射している。そこで初めて、目の前の大海はただの暗闇ではなかったことに気がついた。
 はしゃいだ君が砂浜を駆けていく。危ないよという私の制止は届かない。波打ち際に足を浸した君は、ぱちゃぱちゃと音を立てて、打ち寄せる波と戯れ始めた。
 あれほど深淵からの呼び声のようだった波の音が、君の立てる軽快な水飛沫に紛れて愛嬌を帯びる。あれほど感じていた畏怖の念なんて、気がつけばどこかに飛んでいってしまっていた。
 私にとっては恐ろしくて冷ややかなこの世界を、いつだって君は美しく鮮やかに彩っていく。君と見る景色は、悪くない。
 ふふっと微笑んで、月光と星明かりに包まれた煌めく海へと私は一歩を踏み出した。

8/14/2023, 10:07:30 PM

【自転車に乗って】

 車もほとんど通らない田舎道を、自転車で駆け抜けていく。肌が風を切る感覚が心地いい。どこまででも行けるような気がして、私はこの時間が大好きだった。
「ねえ、どう? 気持ちよくない?」
 後ろを振り返って、風に負けないよう声を張り上げて尋ねた。
「ちょ、前! 危ないから前見て!」
「大丈夫だって」
 この区間は道が真っ直ぐで見通しもいい。車が来ていないことは確認済みだし、直進だけしていれば道路をはずれることもないのだから、多少正面から視線をそらしたところで特に問題はなかった。
「大丈夫なのかもしれないけど、こっちの心臓がもたないんだよ!」
「あははっ。はーい、ちゃんと前見ます」
 心配性な君へとひらりと手を振って、私は前を向き直った。スピード感をもって流れていく景色が、嫌なことの全部を置き去りにしてくれる。ここのところ塞ぎ込んでいた君が、このサイクリングで少しでも晴れやかな気持ちになってくれたらいい。そう願いながら、私は自転車のペダルを踏みしめた。

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